広い講義室の一角で、一は眠気と戦っていた。 一般教養の英語。決して嫌いな教科ではないのだが、問題は担当教授だ。学内でも一、二を争う老齢の教授ののんびりとした口調は、子守唄には最適と評判の、催眠効果抜群の代物だ。我慢出来ずに一は机に突っ伏した。 重たい瞼を無理やり上げて、腕時計に目をやる。クラシカルなデザインの文字盤の中で、あと10分ほどで授業が終わると長針が言っている。今日は土曜日で、午後の講義はない。 夢の世界にダイブしかけている頭の片隅で、早くボール蹴りてぇ…などと考えていた一だったが、すぐに今日は部活が休みだったことを思い出した。 (……どーすっかなあ……) 半日という暇な時間を如何に潰すか。答えはすぐに出た。 つい数ヶ月前まで通っていた高等部は、今いる大学部のキャンパスの徒歩圏内にある。土曜日は高校の授業も半ドンだが、生徒は帰れても教師はすぐには帰れない。 今年もClassXの担任になった恩師が、先日あった時に補習のプリントのことで頭を悩ませていたことを思い出して、一は口元だけで微かに笑った。 (昼飯でも差し入れすっか) ついでに提出期限の迫っている英語のレポートも手伝ってもらおう、などと虫のいいことを考えて、一が帰り支度を始めた時、狙い済ましたように講義終了のチャイムが鳴った。 高校への道すがら、美味しいと評判の店で、数人分のサンドウィッチを買い込む。その店を教えてくれたのも、誰でもないだ。 。一の大切な『先生』。 一番大事なものを失って、いろんなものに絶望して、流されるように日々を過ごしていた一年前。 失ったものの存在は一の中であまりにも大きすぎて、他の何も代わりにはならなかった。行き場のない熱を発散させたくて、闇雲に暴れまくった。けれど胸の奥に燻り続ける鬱屈も焦燥も消えることはなく、埋み火のような悪感情が常に心の奥を蝕んでいた。ひたすら息苦しかった日々。 そんな時、が現れた。B6の仲間たちと同じように傍にいて、信じ続けてくれた。目には見えない傷に気づいて、癒してくれた。今の一があるのは紛れもなく彼女のおかげだ。 卒業した後も、一が高等部に顔を出すたびに、はとても嬉しそうに笑って迎えてくれる。 自分の名前を呼ぶ彼女の声は不思議と甘くて、呼ばれるたび馬鹿みたいに心が浮き立つ自分がいて、そのたびに一は面映い気分を味わう。その感覚がまた心地よくて、くすぐったい気持ちになる。温かくて優しい快感の連鎖。 そんなふうにが自分に与えてくれる幸せの分、にも幸せになって欲しいと一は思う。 そうは思っても、自分に出来ることは少なくて、そして大したことは出来ないのだけれど。 「ちょうどお腹すいてたのよー!一くんありがとー!」 「いいから落ち着いて食えって、先生。ほら紅茶、こぼすなよ」 その、自分に出来る数少ないことのひとつで、嬉しそうに顔を綻ばせてくれたを見て、一はささやかな満足感に浸りながら、ミルクティーを淹れたカップを差し出した。 訪れた語学準備室に、以外の人影はなかった。と並んでこの部屋の使用率が高い真田は、今日は出張でいないらしい。他にも食べる人がいるかも、と多めに買い込んできたサンドウィッチだったが、どうやら二人で片付けなければならないようだった。 「ちょっと買いすぎたな。悪い、先生」 「大丈夫、何とかなるわよ。それにそのうち誰か来るかもしれないし」 「鳳先生とか?」 「そうね、一君が来てるって聞いたら、顔を見にいらっしゃるんじゃない?あと、葛城先生とか……給料日前でここ数日大分飢えてたから、匂い嗅ぎつけてきそう」 「相変わらずギャンブル三昧なのか。しょうがねえなー」 一の溜息交じりの台詞に、クスクス笑いながらはサンドウィッチに手を伸ばす。 それを横目で見ながら、一は手近な椅子を引き寄せて腰掛け、自分のカップをのデスクに置いた。 いつもきちんと整理されているデスクの上は、今は少しだけ散らかっていた。以前よく目にしていたのと同じ参考書や、の手書きのプリントに、懐かしさがこみ上げる。 プリントを手に取ろうとした一の視界に、ちらりと鮮やかな色彩が映った。積み上げられた参考書の間に覗く、淡緑色に銀箔が散った薄っぺらい冊子。 嫌な予感が胸を過ぎり、プリントに触れかけていた手をそちらに伸ばす。端を掴んで引っ張り出した時、それに気づいたがさっと顔を赤くして叫んだ。 「あっ、ちょっ、見ちゃダメーっ!」 「…………」 奪い取ろうと伸ばしたの手を避け、一が開いたそれの中にあったのは大判の写真。二十代後半と思わしきスーツ姿の男が一人、やや緊張した面持ちで映っている。 これは何だと聞くまでもない。冊子を閉じて視線を転じた一の前で、は気まずそうに俯いた。 心の内で、久しく忘れていた暗い感情が膨れ上がる。どうしてかは自分でもわからないまま、怒鳴りだしたい気持ちを堪えて、一は手にしたままの冊子を弄びながら口を開いた。 「これ、見合い写真ってヤツだよな?先生、見合いするんだ」 「……ちょっと、断れない筋から話が来ちゃって……」 「こいつと結婚すんの?」 「しっ、しないわよっ!」 真っ赤な顔で即座に否定され、内心で安堵の溜息をつく。だが、次の瞬間、らしからぬ暗い口調でが呟いた台詞が、一の心に深く突き刺さった。 「……会ってみて、いい人、だったら……わからないけど……」 「――――――」 音を立てて椅子が倒れた。見下ろしたの怯えた表情を目にして、一は我に返った。 手に持ったままだったはずの見合い写真が、今はデスクの上にあり、淡緑色の表紙の半分近くがミルクブラウンに染まっている。その色が零れたミルクティーのものだと気づくと同時に、手に焼けつくような痛みを感じた。 「つっ……!」 「――― 一君!」 華奢な手が一の腕を掴み、引っ張った。備え付けのミニキッチンへ連れて行かれ、勢いよく流れ出した水道の水で手の甲を冷やされる。隣へと視線を落とすと、スーツの袖が濡れるのも構わず、一の手首をしっかりと掴んでいるの、今にも泣き出しそうな表情が見えた。 ―――見たいのは、そんな顔じゃない。 「一君、痛くない?はじめく……!」 名前を呼ぶ声が不自然に途切れるのを聞いて、再び我に返った時、一はを抱きしめていた。 濡れた手のひらで包み込んだ華奢な肩が、大きく震えて強張る。 流れ出る水がシンクの底を叩く音にかき消されないように、一はの耳元に唇を寄せて囁いた。 今更のように気づいた自分の想いを、欠片も残さずの中に注ぎ込むように。 「好きだ」 [070622] |