軽快に響いたノックの音にびくりと肩が震えた。 手にしていたものを慌てて参考書の間に突っ込んで立ち上がり、はノックの後も一向に開く気配のない扉に向かった。 「はい、どなた……きゃっ!」 「よっ、センセ。昼飯一緒に食おうぜ」 「一君!いらっしゃい」 扉が開いた瞬間、胸元に押し付けられた紙袋を反射的に受け取ったの頭上に、明るい声が降ってくる。見慣れたパン屋の紙袋から視線を上に上げていくと、楽しげに笑う一の顔があって、その笑顔につられるように、自然との顔も微笑む。 部屋に入ってすぐ、一は備え付けのミニキッチンでお茶の準備を始めた。がやると言っても、いつも頑として譲らないので、最近は完全に一に任せきりだ。ティーバッグの包みを開けながら、ミルクティーでいいんだよな?と聞いてくる声は明るく、の心をほんのり温かくしてくれる。 この元教え子の訪れを日々楽しみにしていることは、本人には内緒だった。 一年前、出逢ったばかりの頃は、こんなふうに穏やかに笑ってはくれなかった。B6の仲間たちと笑っている時でも、一の雰囲気にはどこか翳りがあった。 担任になり、補習を受け持ったことをきっかけに、は一との距離を縮めたり離れたりを繰り返した。そうしているうちに、少しずつ彼の心の傷が見えてきて、少しでも癒せたらと思うようになった。 思うだけならとても簡単で、実際にに出来たことはあまりに少ない。時にはタイミングを間違えて、一の傷を抉ってしまったこともある。 今の結果があるのは、とても幸運なことなのだと思う。一はのおかげだと言うけれど、自身はそうは思わない。それはきっと、一の生来の優しさが引き寄せたもの。 失ったものを取り戻した一は、かつての荒んだ雰囲気が嘘のように、心から穏やかに、楽しそうに笑う。 その笑顔に感じる気持ちが変化したのはいつだったのか、自身にもわからない。気がつけば、一はの中で特別な存在に変わっていた。 可愛い生徒、と思っていたのは嘘ではない。けれど気持ちは変わるものだ。今、が一に対して抱いている感情は、紛れもなく恋愛感情と呼ばれるものだった。 卒業してからも先生、と呼んで慕ってくれる一の笑顔はとても眩しくて、愛しく感じるのと同時に、切ない罪悪感を募らせた。向けられる純粋な敬慕の感情を、穢している気がして。 一は優しい子だ。の気持ちに気づけば、きっと悩ませ、苦しませてしまう。苦しんだ末にやっと取り戻した平穏を、自分の身勝手な想いで乱すことだけはしたくなかった。歳の差や立場を考えれば、諦めなければならないものなのも事実。 ともすれば溢れ出してしまいそうな恋情を、はぎりぎりのところで抑えている。 一には誰よりも幸せであって欲しいと願う、その気持ちだけを支えに。 「ちょっと買いすぎたな。悪い、先生」 「大丈夫、何とかなるわよ。それにそのうち誰か来るかもしれないし」 「鳳先生とか?」 「そうね、一君が来てるって聞いたら、顔を見にいらっしゃるんじゃない?あと、葛城先生とか……給料日前でここ数日大分飢えてたから、匂い嗅ぎつけてきそう」 「相変わらずギャンブル三昧なのか。しょうがねえなー」 他愛ない会話を交わしながらミルクティーのカップを受け取り、サンドウィッチを手に取る。袋から出したそれらは、の好きなものばかりだ。去年一年かけて鍛えた記憶力で、の好みをきちんと憶えていてくれるところが何とも一らしい。 自分の分の紅茶を手に椅子を引き寄せて、一はのすぐ傍に腰を下ろした。少し動けば肩が触れ合ってしまいそうな距離。否応なしに高鳴る胸の鼓動を誤魔化すように、はカップを傾けた。 ほのかに甘く香る湯気の温かさに、少しだけ気持ちが静まる。ほっと息をついてカップをデスクに置き、何気なく一の方へ視線を投げて、はぎくっと肩を強張らせた。 先程参考書の間に隠した、薄い冊子。きちんと隠せていなかったそれを、一の手が掴んで引っ張り出すところだった。 他人には見られたくない―――特に一には、絶対に見られたくないもの。 「あっ、ちょっ、見ちゃダメーっ!」 叫びながら伸ばした指先は、空しく宙を掴んだ。 素早くの手を避けて冊子を開いた一の顔から、ふつりと表情が消えた。重たい沈黙と、真っ直ぐに注がれる一の視線を受け止めるのが辛くて、は深く俯いた。 会うだけでいい、後で断って構わないから、と半ば無理やり写真と釣書を押し付けられたが、一への気持ちを自覚している以上、他の誰かと付き合ったり、ましてや結婚するつもりなど、にはなかった。 けれども、このままいつまでも叶うことのない想いを抱き続けることを考えた時、ふと心が揺れた。 ―――叶わない恋にいつまでもしがみついていないで、忘れる努力をした方がいいんじゃないの? 一の手の中にある、見合い相手の写真を思い出す。決してハンサムとは言えないが、真面目そうで優しそうな人だった。本当の人となりなんて、実際会ってみなければわからないけれど。でも。 いい人だったら、付き合ってみてもいいかもしれない。他の人を見ることで、この想いを吹っ切れるかもしれない。 そう考えた瞬間、思わず口にしてしまっていた。 「……会ってみて、いい人、だったら……わからないけど……」 「――――――」 一瞬置いて響いた荒々しい音に、はっとは顔を上げた。 椅子を倒して立ち上がった一が、持っていた見合い写真をデスクに叩きつけたのだ。その衝撃でカップが倒れ、ミルクブラウンの飛沫が、甘い香りを撒き散らしながらデスクと一の手を濡らす。 「つっ……!」 「――― 一君!」 考えるより早く、身体が勝手に動いた。 一の腕を掴んでシンクの前へと引っ張り、勢いよく蛇口を捻る。スーツの袖口が水を吸い取り、瞬く間に一段濃い色に変わったが、気にしてなどいられない。自分の手より一回りも二回りも大きな手をしっかりと捕まえたまま、は何も言わずされるがままの一を振り仰いで声をかけた。 「一君、痛くない?はじめく……!」 呼び掛けた言葉を断ち切ったのは、不意の抱擁。 引き寄せられ、きつく抱きしめられて、は自分の視界を埋め尽くす茶色に呆然とした。 一のジャケットの色。一の身体に染みついた、太陽と土の匂いが鼻腔をくすぐる。 肩に食い込む指先の冷たさに、思わず身体を強張らせた次の瞬間、温かな吐息と掠れ気味の囁きが、の耳に忍び込んで鼓膜を振るわせた。 「好きだ」 「…………!」 「俺、アンタが……好きなんだよ」 さっきより、もっと大きく身体が震えた。 ずっと夢見ていた瞬間だったのに、喜びよりも戸惑いと罪悪感がこみ上げる。 一が自分を好きだと言ってくれる、その言葉を疑いはしない。一はこんな悪ふざけはしない。 だからこそ、素直に喜べなかった。 震えそうになる声を必死に抑えて、は言葉を絞り出す。少しでも気を抜けば、涙が零れて言うべき言葉を失ってしまいそうだった。 「……私は、一君の先生なのよ?」 「過去の話だろ。もう卒業してんだから、問題ねーよ」 「六歳も歳が離れてる、のに」 「そんなこと、俺は気にしない。いくつ離れてたって関係ない、アンタなら……なら何だって」 「…………っ」 一の声はどこまでも真摯に、を求めて響く。 突き放さなければ、と思う心とは裏腹に、腕は一の背中に回り、縋るようにジャケットを掴んでいた。 触れた手、重なった胸元、肩に押し付けられた額、全てで一の存在を感じ取る。 大切な、大事な、ただ一人の男の子。誰よりも幸せになって欲しかったひと。けれど。 「―――私も、ずっと一君が好きだったの」 微かに震えた後、抱きしめる腕に一層力をこめた一を抱きしめ返して、はそっと瞳を閉じた。 この先、二人で進む道がどれほど険しくても。 もう決してこの手は離さない。 だから、君が 幸せであればいいと言ったのは 嘘になった [070626] |