「……一君?どうしたの、その子……」
「迷子、預かっちまった」



五分遅れで補習に現れた一の胸元で、その『迷子』は甘えるように一声鳴いた。































「……迷子?」
「そっ、迷子」



聞き返したの言葉に頷いて、一はインナーの中に隠して抱いた子猫の頭を撫でた。
困ったような表情を浮かべてはいるが、それが時折ふっと崩れるのをは見て取る。自分の腕の中にいる小さな生き物が、可愛くて仕方がないのだろう。いつもならばとっくに蕩けているはずの表情を必死に引き締めているのは、補習に遅れてを待たせたことを申し訳なく思っているから。
そう思うと到底怒ることなど出来ず、は苦笑して立ち上がって、子猫にそっと手を伸ばした。
ふわふわした毛の感触が手のひらに心地良い。優しく撫でられ、子猫も気持ちよさげに喉を鳴らした。



「先生?」
「迷子じゃ仕方ないでしょ。ちゃんとお迎えは来るの?」
「ああ、この辺の猫たちにこいつの母親を見つけたら、俺ンとこに来るようにって伝言頼んだから」
「……流石はアニマルマスターね」
「つーか、マジでごめん。校内に連れ込んだらまずかったよな。バレたら先生も怒られるんだろ」



の前の担任に、パウやトゲーのことを注意されたのを思い出したのか、軽く眉根を寄せる。
確かに、見つかれば色々とややこしくなるだろう。鳳たちのように話のわかる同僚ならば、融通を利かせてくれるけれど。こういったことには厳しい二階堂でも、きちんと理由を言えば理解を示してくれる。
見つかるとやばいのは校長や学年主任だ。滅多にClassXには近づかない二人だが、万が一ということもある。
少し考えた末、は机の上に並べた教材を手早くまとめた。それを見た一が首を傾げる。



「先生?どうすんだ?」
「決めたわ、今日の補習はバカサイユでやりましょう。あそこなら子猫がいたって大丈夫だし、その子のお母さんも迎えに来易いでしょ?」
「いいのか?」
「大丈夫。あっちに行ったらその子は私が預かるから、一君はこの補習プリントをやりましょうね」
「……了解!」



顔をくしゃくしゃにして笑った一の腕の中、子猫もまた、嬉しそうに小さな声でにゃあ、と鳴いた。




















他の教師に会うこともなく、無事辿り着いたバカサイユには誰もいなかった。
約束どおり、に子猫を預けて、補習のプリントに取り掛かった一の隣で、は指導の傍ら、膝に乗せた子猫をそっと撫でてあやしていた。まだ生後三ヶ月になるかならないかの小さな子猫は、の手の優しさにすっかり安心しきって、グルグルと喉を鳴らし、時折の指を甘噛みしたり、腕にじゃれ付いたりしていたが、補習が半分ほど進んだ頃にはすっかり寝入ってしまっていた。
ちょっと一休み、とペンを置いた一が、の膝の上でくつろいでいる子猫を見て小さく吹き出す。



「うっわ、すっげえカッコ。懐かれたな、先生」
「そう?でも懐いてくれたなら嬉しいわ。この子ホント可愛いもの」
「だろ?一緒に生まれた奴らの中でも、一番やんちゃで手が掛かるんだけど、何か憎めないんだよな」
「何だかB6の皆みたいね、やんちゃで手が掛かるって」
「ハハハ、言えてっかも……あ、来た」
「え?何?」
「迎え」



短く呟いた一が、椅子から立ち上がって窓を開けた。慌てて子猫を抱き上げ、一の隣に移動する。
開け放たれた窓から飛び込んできた猫が、の腕の中の子猫を見つけて一声鳴いた。目を覚ました子猫は、母猫に気づいての腕の中から飛び出そうとしたが、爪が引っかかってしまったらしく、前足がの腕から離れない。



「ああ、暴れないで、ちょっと待って……ッ!」
「大丈夫か?」
「う、うん、大丈夫、外れたわ」



袖の内側に走った痛みを笑顔で隠し、窓枠の上で待つ母猫の傍にそっと子猫を降ろす。礼を言うかのように高く一声鳴いた母猫は、子猫の首筋を咥えて窓から飛び降りると、のんびりと走り去った。
小さな二つの影が見えなくなるまで見送ってから、窓を閉めてテーブルへと戻る。に少し遅れて、一もさっき座っていた椅子に腰掛けた。補習の再開を告げようとした時、不意に一の手が伸びての腕をそっと掴んで引き寄せ、ブラウスの袖口のボタンに指を掛けた。



「は、一君?何……」
「さっき引っかかれたところ、見せてみろ」
「引っかかれてないわよ」
「誤魔化しても無駄。服に引っかかった爪、結構しっかり喰いこんでたろ」



言いながらの服の袖を一気に捲り上げる。腕の内側、手首と肘のちょうど中間辺りに、1センチ程の細い引っ掻き傷があり、うっすらと血を滲ませていた。
誤魔化すように浮かべた笑みに、呆れたような視線と溜息が返る。



「後で一人でこっそり手当てする気だったな?」
「だって、大した傷じゃないし」
「子猫の爪は雑菌だらけなんだぜ。すぐに消毒しねーと駄目なの!」
「うっ……ご、ごめんなさい……」
「ったく」



叱られてしょんぼりと俯いたは、一瞬置いて腕に触れた感触に驚いて顔を上げた。
視線の先にあるのは、軽く目を伏せて掴んだままのの腕に唇を寄せる一の顔。
傷に触れる唇の隙間から僅かに薄紅色が覗く。舌先がちろりと傷をなぞり、同時に伏せていた瞼がゆっくりと上がって、一の視線が真っ直ぐにを射た。少し上目遣いのその視線はひどく扇情的で、腕を這う温かな感触と相まって、の背筋をぞくりと震わせる。
はじめくん、と名前を呼ぼうとした声は、甘やかな吐息に姿を変えて唇から零れ落ちた。顔が熱く火照り、は自分の頬が紅く染まっているのを、嫌というほど自覚した。
一の唇は腕の傷を離れ、手のひらや甲へすべっていく。子猫の爪と歯がつけた細かな傷の一つ一つを丹念になぞり、舐めあげる。
その間ずっと、一の視線はの視線を絡め取って離れなかった。そこに篭められた熱に呼応して、じりじりと早まっていく胸の鼓動に、とうとう耐え切れなくなって、がかたく目を閉じた時。



「……消毒終わり」



指先を軽く吸われる感覚を最後に、唇の温度が消え、代わりに少し掠れた囁きが、温かな息と共に耳元にかかった。
一瞬肩を震わせてから、そろりと目を開けたの真正面に、柔らかく微笑む一の顔があった。
あと少しで鼻先が触れそうな距離。いつもだったら飛び退いてしまいそうな近さだったが、向けられた笑顔があまりにも優しげで、思わず見惚れてしまう。
一番大きな傷にだけ絆創膏を貼って、捲り上げていた袖を戻す。不器用な手つきでボタンを留める一の表情はいつもどおりで、さっきまでの蠱惑的な雰囲気はどこにも感じられない。心の中でホッと安堵の溜息をつくを余所に、一の手は最後のボタンを留めて軽く袖口を叩くと、完全にから離れた。



「うっし、出来た!」
「ありがとう、一君」
「どういたしまして。さて、補習の続きすっか!」
「あら、やる気ね。偉いわ」
「試験本番まであと少しだしな」



にかっと笑って、卓上のペンを手に取る。それに続くように、が参考書に手を伸ばしたところへ。






「……さっきの続きは、また今度、な」
―――!?」



耳元で響いた、低く掠れた囁きに、ばさりと音を立てて参考書が手から落ちる。がまたしても真っ赤に染まった顔を上げた時、一はプリントにペンを走らせ始めていた。
―――たった今囁いた言葉のことなど、まるで知らないと言わんばかりの表情で。



「は、ははっ、は、は、一君
―――!?」
「何だよ、真面目にやってくれよな、先生」
「…………!」



からかわれたと気づいて、は頬どころか額や首まで赤くして膨れ上がった。
すっかり拗ねて、参考書で顔を隠してしまったを見つめて、一は悪戯っぽく笑った。










[070703]