大切なものは君。だけ。 嫌いになるかもしれない 薄暗いマンションの通路に、カチリと鍵の音が響く。 ドアノブに手を伸ばした瞬間、勢いよく扉が開いて、小柄な人影が飛び出してきた。予想していなかった出迎えに、一は驚いて目を瞠る。 恋人同士になって間もない頃に、合鍵を作って渡してある。だから、今までにも帰宅した自分を出迎えてくれたことはあったが、今日は何だかいつもと様子が違っていた。 「?」 「……っ」 一の顔を見た瞬間、の目から堰を切ったように涙が溢れた。 ボロボロと零れた雫が、コンクリートにいくつも染みを作る。顔をくしゃくしゃに歪ませて、その場にへたり込んだにつられるように、一もその場に膝をつき、落ち着かせようと俯いた顔を覗き込んだ。しかし、は泣き止むどころか、ますます激しく泣きじゃくる。 困惑しつつも、一は座り込んで泣き続けるを抱き上げ、部屋の中へと入った。背中で押さえていた扉を静かに閉め、腕の中でしゃくり上げている恋人に問い掛ける。 「。一体どうしたんだ?」 「……っテレビ、み、見て、ら……っ、は、じめ、くんがっ……」 「俺が?」 「怪我……ふっ、く……映、てて」 「あー……アレ見ちまったんか。それでか、なるほどな」 途切れ途切れの説明を聞いて、の涙に合点がいく。 今日の試合の最中、ちょっとした怪我を負った。ボールの奪い合いで倒れた瞬間に、他選手のスパイクが当たって、こめかみの辺りを切ったのだ。ついでに頬にも傷を作った。 はその怪我した瞬間をTVで見たのだろう。中継が入るとは聞いていたけれど、時間帯が昼間だったので、仕事中のが見ることはないと思っていたのだが。 派手に流血した割りに、傷自体は大したことはなく、病院での検査の結果も問題なかったのだ。問題があるとすれば、巻かれた包帯が鬱陶しいことくらい。翌日の練習にも出れますと豪語したら、付き添ってくれたコーチには苦笑いされてしまった。 だが、TVに映った状況しかわからないにしてみれば、心配で仕方なかったに違いない。着ている服からして、仕事が終わってそのままここに来たのだとわかる。 要らぬ心配を掛けてしまったことを申し訳なく思いながら、やっと少し落ち着いてきたの背中をあやすように撫でた時、一の耳元で、不意に掠れた声が響いた。 「……はじめくんが、死んじゃったらどうしようって、思ったの……」 「?」 「いっぱい、血が、出てて……ユニフォームにも、飛んでて。怖かった」 「…………」 「一君が怪我したのに、試合は続いてるんだもの。あんなことがあったのに」 「……大した傷じゃなかったんだぜ。それに、試合中に怪我したのは俺だけじゃない」 が欲しているのはそんな言葉じゃないとわかっていたが、他に言葉が出なかった。 傷の大小の差はあれ、試合や練習で怪我を負うことは珍しいことではない。一だけじゃない、全ての選手がそのリスクを背負ってフィールドに立っている。そんなことはだってわかっている。 だけど。 いつか、とが呟く。一の肩に顔を押し付け、蚊の泣くような細い声で。 「いつか、一君がサッカーするのを、嫌だって言う日が来るかもしれない」 「――――――」 「そうなったら、一君は、私のこと嫌いに、なる……?」 消え入りそうな声に水分が混じり、吐き出された熱い息が震える。 止まったはずの涙が再び溢れて一の肩を濡らした。回された華奢な腕が背中にすがりつき、ジャケットの上からそっと爪を立てる。 狂おしいほどの愛しさがこみ上げて、一は明るい色の髪に頬を埋めて、を強く抱きしめた。 ひゅ、と息を吸い込む音と、さっきより更に涙で潤んだ声が、耳朶を掠める。 「一君が好きなの」 「……うん」 「ごめんね。でも好きなの、一君が好き」 「うん」 「嫌いにならないで。ごめんね、ごめんなさい」 「ならない。絶対に、嫌いになんかならねえから」 「好き」 「俺もだ。を愛してる」 「……っう、ぅーっ……」 「大丈夫だ。愛してる、。愛してる」 子供のように泣きじゃくるを抱きしめ、その頬に、額に、瞼に、口付けを降らせながら、一は何度も何度もその言葉を囁いた。 呪文のように、子守唄のように、繰り返し。やがて泣き疲れたが、腕の中で眠りにつくまで、ずっと。 [070705] |