どれほど強く願っても、欲しても。 「―――お祭り?」 備品チェックの手を止めて顔を上げたの視線の先で、コウイチが笑って頷いた。 「そうそう。みんなで行かねえ?」 「へえー、いいじゃん。オレ乗った!」 「俺もー」 「あ、俺も行く行く」 「マネージャーも行くだろ?」 「え、私?うーん、特に用事もないし、行こうかな」 練習後の、どこか倦怠感が漂っていた部室が、俄かに活気付く。 大の男たちがはしゃぎ合う姿に、は苦笑混じりの吐息を漏らして、残りの仕事を手早く片付けた。 部室の一角を衝立で仕切って作ったロッカールームから、着替えを終えた部員たちが次々に出てくる。その中で、不意にえーっと非難めいた声が上がった。 「何だよ、ハジメー!お前行かねえの?付き合い悪いぞ」 「悪ィ、もう予定入ってんだ」 「予定ィ?何だよ、また彼女とデートかあ?」 「僻むなって」 「ンだよ、マジで彼女とかよ!」 「このヤロー、友達失くすぞ!一人で幸せそうにしやがって!」 「だあぁっ、やめろっつの!シャツが伸びる!」 群らがる仲間たちの中心で、喧々囂々の非難を浴びながらも楽しそうに笑っている草薙一の姿を目にして、の胸がちくりと痛む。 仲間たちの僻み半分、からかい半分の攻撃をかわして、小走りに扉へと駆け寄る。扉のノブに手をかけた時、一部始終を見ていたと視線がぶつかり、一は照れくさそうに笑った。 「んじゃな、お疲れ」 「……うん、お疲れ様」 「も行くんだろ、祭り。楽しんでこいよな!」 「一くんも。悠里さんによろしくね」 「おう。そんじゃお先!」 扉が閉まる一瞬、手を振った一の笑顔の残像が、瞼の裏に焼きつく。 その残像を目の奥深くに刻み込むように、かたく目を閉じたの唇から、誰も気づかないくらい小さく微かな溜息が一つ零れ落ちて、リノリウムの床の上で砕けた。 部員たちの騒ぎに一応付き合いはしたものの、は適当に理由をつけて早々に帰ることにした。 何人かは送ろうかと申し出てくれたけれど、全て丁重に断って一人で駅に向かう。少しずつ遠ざかっていく祭囃子を聴きながら、ぼんやりと空を見上げた。 ―――大学に入って出来た好きな人には、既に恋人がいた。 南 悠里。年上の、綺麗な女の人。本人は周囲に褒められるたびに謙遜するけれど、同性のの目から見ても彼女はとても綺麗で、そして可愛らしい人だった。 最初に年齢を聞いた時、は純粋に驚いた。年上と言っても、精々2つか3つ上くらいだろうと思っていたのだ。社会人、しかも一の母校の教師と聞いて、もっと驚いた。 『―――俺、すっげえバカだったんだよ。マジで、ここに入れたのは奇跡だな』 悠里との馴れ初めを聞いたに、一は、マネージャーにならまあいいか、と話してくれた。 おちこぼれクラスの、中でもとりわけ問題児だった一や仲間たちの新しい担任として、中等部から赴任してきたのが悠里だったのだと言う。 『それまでの担任は全員、半年ともった例がないってくらい、超問題児だったんだぜ。でも悠里は、全然へこたれなかったんだよな。補習だ何だって俺らを追っかけ回して、どんどん中に入り込んできてさ。けど、勉強させるだけじゃなくて、何つうか、色々面倒見てくれて』 その頃、とある理由でサッカーから離れていた一が、再びサッカーに戻ってこれたのも、悠里のおかげなんだと一は笑った。 『あいつが俺を信じて、見捨てないでいてくれたから、俺は今ここにいられるってこと』 ―――サッカーから離れていた『とある理由』については、一自身は話さなかった。その話を教えてくれたのは、ゼミで知り合った、一と同じ聖帝出身の子だ。 信じていた親友から、暴力事件の加害者、という濡れ衣を着せられたのが、サッカー部を辞めた理由。 事件後、一とつるんでいた仲間と、そして悠里だけが、一の無実を信じて傍にいたのだと言う。 (敵うはずがない、のよね……) 殆どの人が加害者だと信じて疑わない中へやってきて、一を信じてくれたひと。 周囲の言葉に惑わされずに。自分の知っている『一』こそが真実だからと、一を信じたひと。 素敵な人だと思った。一人の女性として憧れたし、一が好きになったのも至極当たり前のことに思えた。自分が一の立場だったら、惹かれないはずがない、とも。 だから諦めようと思った。恋愛感情を抜きにしても一のことは好きだったから、同期の友人として、悠里も交えて付き合っていけるように、ゆっくりでいいから諦めよう、と。 そう決めたからと言って、すぐに切り替えられる訳ではないとも、わかっていたけれど。 警報が鳴り出した踏み切りの手前で足を止める。そこを渡れば駅まではもうすぐ。 降りてくる遮断機の動きを追うように、空を見上げていた視線をゆっくりと降ろす。路線の向こうに見えた人影に何気なく視点を合わせた時、の脳裏が一瞬真っ白になった。 見覚えのあるシャツと、街頭に照らされた色素の薄い髪。瞼の奥で屈託なく笑う、の想い人。 その隣にいる人にも見覚えがあった。恋人の顔を見上げて穏やかに微笑む、一の想い人。 明るい色の髪をふわりと揺らして、前に向き直った悠里の表情が、ふと動いた。大きな目を更に大きく見開いて、真っ直ぐの方を見る。口元に浮かんだ優しい笑みに、の胸はまた小さく痛んだ。 一方、一はに気づいていないようだった。 鳴り続ける警報に徐々に電車が近づいてくる音が混じる中、悠里のパステルカラーのサマーニットの肩に、日に焼けた大きな手のひらが乗るのが見えた。無論一のものだ。肩を抱き寄せられた悠里が、の存在を教えようと一の方を再び見上げる。 次の瞬間、の周りから、一切の音が消えた。 色素の薄い髪が、さらりと流れて。 背中を屈め、抱き寄せた悠里に一が口付けたその瞬間、滑り込んできた電車の車体が視界を埋め尽くし、それと同時に消えていた音が戻ってきて、鼓膜を震わせた。 駅に入り、ゆっくりと速度を緩めていく車体に映る自身の顔が、じわりとぼやける。 敵うはずがないとわかっているのに。 憧れる気持ちも、諦めようという決心も、決して嘘ではないのに。 ―――だけどまだ、こんなにも彼が好きで。 こんなにもあのひとが妬ましくて憎らしくて、胸が痛い。 もうすぐ電車は行き過ぎる。笑わなければいけない、と思った。 未だ消せない想いを、せめて気づかれないように。笑って見せなければ。 目の端に滲んだ温かい雫を拭い、ぐっと唇を噛みしめた時、の視界が再び開けた。 線路の向こうに、真っ赤な顔で一の背中を叩く悠里と、困ったような顔でそれを受け流す一が見えた。遮断機が上がり、二人がの方へゆっくりと歩き出す。赤く染まったままの悠里の顔、照れくさそうに笑って手を振る一の顔。 小さく手を振り返しながら、うまく笑えていますように、とは心から願った。 [070721] |