愛だとか恋だとか好きだとか、曖昧で不確かで形のない、それでも確かに存在するそれが欲しかった。 ただひたすらに、貪欲に、願い望んで。諦めることは負けだと思っていた。 大人ぶって見せて、本当はただ、欲しがるばかりの子供だった。 呼び出された店の近くにある公園で、予想外の人物を見かけた。 明るい色の髪、見覚えのある秋色のスーツ。ベンチに腰掛けて俯いている所為で顔は見えなかったが、その人が誰なのか、一にわからないはずがなかった。 誰よりも大切なひと、だ。 「―――先生?」 呼び掛けた声に反応して、華奢な肩が大きく震える。 ただならぬ雰囲気を感じ取り、小走りに駆け寄っての正面に膝をつく。いつもは見下ろす側の一が見下ろされる形になり、深く俯いたままの表情が見えた。 目に映ったのは、泣き出す一歩手前の顔。 一瞬言葉を失くした一の視線から逃げるように、が一段と深く俯く。らしくないその様子に、ますます困惑を深めて、一はスーツの腕を掴んで顔を覗き込みながら短く訊ねた。 「どうした?何かあったのか」 「……何もないわ」 「嘘つくなよ!泣いてんじゃねーか」 長い睫毛に残る涙の雫が、街灯の灯り反射してを受けてちらちらと光っていた。手を伸ばして頬に触れれば、微かに湿った感触が一の指摘が正しいことを証明してくれる。 は何も言わず、一の手から逃れるように僅かに身体を捻る。頑なな態度に小さく溜息をついて、一はに触れていた手を引き、静かに立ち上がった。 手が離れると同時に顔を上げたと、今日初めて目が合う。そっけなくあしらった所為で傷つけたとでも思ったのか、自分の態度を悔いている様子だった。一は小さく笑っての頭を撫で、小さな子供に言い含めるようにゆっくりと言葉を紡いだ。 「ちょっと待ってろ。勝手にいなくなるなよ?」 「……う、ん」 「すぐ戻るから」 の傍を離れ、公園の入り口にあった自販機へと走る。小銭を探してポケットに手を突っ込んだ時、カサリと乾いた音がして、小さな紙片がひらりと落ちた。 サッカー部の指導が終わった後、後輩の一人が渡すように頼まれたと持ってきたもの。この公園のすぐ近くにあるカフェテリアの名前と、そこに来て欲しい旨が書かれている。小銭を探る手を止めてそれを拾い上げた一は、少し右上がりの文字を数秒見つめた後、別のポケットから携帯を引っ張り出した。 登録された番号を呼び出し、通話ボタンを押す。何度目かでコール音が途切れ、僅かな沈黙の後、聞き慣れた声が静かに響いた。 『……はい』 「草薙だけど」 『待っていたよ』 いつもどおりの穏やかな声に、一瞬気圧されながら、一は喉の奥から声を絞り出す。 「先生と何があったんだよ―――鳳先生」 数分後。 カフェ・オ・レの小さな缶を片手に戻った一は、言われたとおり待っていたにそれを手渡し、隣に腰を降ろした。小さな声でが礼を言う。 「ありがとう、一君。ちょっと待ってね、お金払うわ」 「いいよ、オゴリ」 「そういう訳にはいかないわよ」 「いいって」 バッグから財布を出そうとする手に触れて止める。華奢な手が一の手のひらの下でぴくりと震え、さり気なく素早く引き抜かれた。 小さな街灯が投げかける弱々しい光の中、重苦しい沈黙が二人の間に満ちる。 こんな空気を感じたのは随分と久しぶりだ、と一はふと思った。 が全てを受け止めてくれた日を最後に、自分たちの間から消えた空気。その代わりに、もうずっと、穏やかで優しい温かさばかりがあった。 その温かさが好きで、それを与えてくれたが好きで、卒業してからも離れることが出来なくて。 鳳とが付き合い始めた後も、それまでと同じ距離を保った。胸の痛みを押し隠して。 何よりも、の傍にいたかった。今までと同じように、名前を呼んで、笑いかけて欲しかった。 それ以上を望んではいなかったと言ったら嘘になる。鳳に向けられる特別な想いが、自分の方に向けられる日が来ることを願っていたのは、紛れもない事実だ。 感情の赴くまま欲する子供のように。自分の為だけに、我侭に、貪欲に、願っていた。 ―――――― そうなった時のの気持ちなど、考えもしないで。 『別れようと言ったんだ』 先程、電話越しに聞いた鳳の言葉が脳裏に蘇る。 『いつもどおり』過ぎる穏やかな声に、聞き返す声から力が抜けた。 何で、と呟いた一の言葉を受けて低く笑った鳳のその声に、ほんの僅か、悲哀が混じる。 『私は君のようにはなれないからさ』 「……意味がわかんねーんだけど」 『自分以外の男を見ているのをわかっていて、それでも傍に居続けることは出来ないよ』 「…………!」 『それが出来るほど、私は強くないんだよ。もう出来なくなってしまったんだ。情けないけれどね』 「先生が、アンタ以外の誰を見てるって言うんだよ」 『まだ気づかないのかい?彼女が誰を見ているか、本当にわからないのかな?』 「――――――」 淡々とそう告げて通話を終わらせる直前、鳳が口にした一言が、一の心にずしりと重く響いた。 『―――を頼むよ』 手にしたカフェ・オ・レのプルトップに指をかけたの横顔を、一は静かに見つめた。 鳳に言われた言葉が、脳内で何度もリピートする。 『自分以外の男を見ているのをわかっていて、それでも傍に居続けることは出来ないよ』 『まだ気づかないのかい?彼女が誰を見ているか、本当にわからないのかな?』 その言葉の含む意味に気づいた時、喜ぶよりもまず呆然とした。 鳳の言葉が真実なら、一が望んでいた通りになったということ。なのに素直に喜べない。 が泣いているから。 一の想いが成就する時、と鳳の関係は終わる。当たり前のことなのに、恋を失って泣く彼女を目の当たりにするまで、の心が傷つくことを考えもしなかったのだ。 誰よりも大切だなんてよくも言えたものだと思う。自分のことしか考えていなかった子供の癖に。 カシ、カシ、と断続的に響く音に、一はの手元へと視線を落とした。 プルトップがうまく開けられないらしい。無言で缶を取り上げ、飲み口を開けての手に戻すと、はうっすらと微笑んで、掠れた声で礼を言った。 「ありがとう」 「改まって礼を言うほどのことじゃねえだろ」 「缶を開けてくれたことじゃなくて、今、傍にいてくれてることとか、色々」 「それも、別に」 「……私ね、フラれちゃった、晃司さんに」 「…………」 「一君はもう気づいてるみたいだけど、一応報告」 小さく笑ったの目元がじわりと滲む。それを誤魔化すように、ベンチから立ち上がって空を仰いで、一が開けた缶に口をつけた。時間をかけて180ml缶を空にする。その間、一は何も言わず、じっとの背中を見つめていた。 は空になった缶を構え、ゆっくりした動作でそれを放り投げた。大きく放物線を描いて宙を飛んだ缶は、狙ったくずかごの中に吸い込まれるように落ちて、金属同士のぶつかる軽い音が響く。 その音と同時に、の背中が大きく揺れる。咄嗟に立ち上がって歩み寄った一の耳に、押し殺そうとして抑えきれなかった泣き声が飛び込んできた。 「……っ」 「……先生」 「や……、ごめん、ごめんね……少しだけ、すぐ、止めるっ…から。だから……っ」 一は背後から腕を回して、途切れ途切れに零れる言葉ごと、を抱きしめる。 包み込むだけの優しすぎる抱擁に、の泣き声が一瞬止まって、そして一際大きくなった。 「……ご、め……」 「無理に止めないでいいから、好きなだけ泣けよ。……傍にいてやっから」 「……一君は、優しいね」 「――――――」 言葉と同時に、そっと一の腕に触れたのは、小さな手のひら。 ジャケットの袖をぎゅっと掴んで、そこに顔を伏せて泣き続ける。袖に染みこんできた涙の熱さが、一の胸に罪悪感を募らせていく。 泣かせたのは鳳だけではない、自分も同罪だと、そう思った。 好きと言う気持ちを免罪符のように振り翳して、の心を振り回して傷つけた。 俺は優しくなんかない、と言う呟きを飲み込んで。 懺悔の代わりにの髪にそっと口付けて、せめて彼女の傷が少しでも早く癒えるように、一は祈る。 静かな公園の片隅で、月と星だけがその祈りを聞いていた。 [070728] |