それは少しだけ遠い、懐かしい記憶。
意識の底に沈み込んで眠っていた短い邂逅。



あの日の君は笑っていたね。今と同じように鮮やかに。































「……また同じとこだわ……」



今日何度目かわからない溜息をついて、はがっくりと俯いた。
履き慣れない草履の所為で痛む足を引き摺って、とりあえず傍の壁に寄りかかる。今着ている中振袖と袴はレンタルしたものなのだが、汚してしまうかもと言う意識が飛んでしまう程に疲れていた。
手に持っているのは最低限の小物だけを入れた小さな巾着と、卒業証書のホルダー。大して重量のないそれすら、今のには何より重く感じられる。



「やっぱりついてきてもらえばよかったかしら……」



目指す場所に辿り着けず、同じような場所をグルグルと歩き続けて、早くも一時間が経とうとしている。
しかも運の悪いことに裏道に迷い込んだらしく、道を聞こうにも、肝心の聞く相手が見当たらない。
卒業式の後に聖帝学園の中等部へ行こう、と決めたのは今日の朝。かつての恩師が勤めるその学園に、もこの春から教師として勤務が決まっていた。
既に挨拶は済ませているが、卒業と就職が無事に決まったことを誰より喜んでくれた恩師に、改めて御礼と挨拶を言うついでに、一生一度の晴れ姿を見てもらいたい、と考えたのだ。
それを聞いたの方向音痴を知る友人たちは、口を揃えて『一緒に行く』と申し出てくれたのだが、個人的な用事に付き合わせるのは申し訳ないからと、先に謝恩会会場へ行ってもらった。別れるギリギリまで『本当に大丈夫なの?』と繰り返され、少々うんざりしていたのだが、結局こうして見事に迷っているのだから世話はない。
腕時計を見れば、謝恩会の開始時間は間近に迫っていた。そろそろ友人の誰かが、業を煮やして電話してくるかもしれない。今の状況を知られれば『だから言ったのに!』と叱られるのは目に見えていた。



「こないだは辿り着けたから、大丈夫だと思ったんだけど」



壁に寄りかかったまま、ずるずるとその場にしゃがみ込む。巾着とホルダーを膝の上に置き、ズキズキと疼く足をそっとさすった。
こんな状態で、四月からきちんと勤務出来るんだろうか、と不安を募らせたその時、唐突にの視界を上から下へ、黒いものが過ぎった。
コーン、と高い音を立てて、コンクリートの地面に転がったのは黒い円筒。色こそ違うが、が持っているものと同じ、卒業証書のホルダーだった。
足元に転がってきたそれを拾い上げ、なんでこんなものが空から?と首を傾げながら頭上を振り仰いだその瞬間、大きな影が一気に視界を埋め尽くした。



「うわっ!」
「きゃーっ!?」



ホルダーに続いて落ちてきたのは人。叫びながら尻餅をついたの目の前、ギリギリのところに危なげなく着地した長身のその人影は、立ち上がりざま振り向いた。
変声期を過ぎたばかりと思われる、まだ少し高めの少年の声が響く。


「うおぉあっぶねー!悪い、怪我しなかったか?」
「……だ、大丈夫、かな……」
「マジでごめんな」



砕けた言葉遣いだが、深い謝意の篭もった口調に、も笑みを形作ってその人影を見上げる。
逆光の所為で、顔立ちは今ひとつわからない。元気な男の子だな、などと思っていたは、その子の着ている白い学ランに目を留めて、あっと声を上げた。
いきなりの大声に、少年が幅広の肩をびくりと竦ませる。



「な、何だ?」
「それ、聖帝の制服よね!?」
「ん?ああ、そうだけど」
「あ、あのね、聖帝の中等部までの道を教えてもらえない?」
「はぁ?」



まさに降って湧いた幸運と、勢い込んで訊ねたの言葉に、何言ってんだと言いたげな声が返る。
表情は相変わらず陰になってよく見えないが、声の調子からして、相当呆れていると思われた。



「……いえ、だから。聖帝の中等部……」
「そこだけど」
「へ?」
「アンタの後ろの壁。その向こうが中等部の敷地だっつってんの」
「…………えええええ!?」
「っクッ……」



一瞬の沈黙。そして。



「アハハハハハハハハ!!何、アンタ迷子!?つーかアレだ、方向音痴なんだろ!」
「ッそそそそんな思いっきり笑わなくてもいいじゃないの!」
「だってさあ!うはははははは!!」
「……教えてくれてどうもありがとう!これ貴方のでしょ、じゃあね!!」



何故初対面の、しかも明らかに年下の男の子に、こうも豪快に笑い飛ばされねばならないのか。は湧き上がる怒りに任せて勢い良く立ち上がると、まだ笑い止まずにひーくるしー、などと呟いている少年の腕に、先程拾ったホルダーを押し付けた。
そのまま壁に沿って歩き出したの後ろで、やっと笑い声が止んで、優しい声が背中にぶつかった。



「おねーさん、そっち行くと裏門。正門は反対方向だぜ」
「……重ね重ねご丁寧にどうも!」
「どーいたしまして。けどその調子じゃ、校内入っても迷うんじゃねーの?」
「余計なお世話ですっ」
「よかったら案内するよ」



振り返らないの後を、ゆっくり追いかけてきているのが、響いてくる声でわかった。
純粋に厚意から言ってくれているその言葉に、の怒りが緩やかに治まっていく。彼に笑われる要因を作ったのは、紛れもない自分なのだし、せっかくの厚意を突っ撥ねるのは大人気ない。
そう考えて、彼にお願いしようと振り返った、その時。



「見つけたぞハジメ!!」
「げっ」



少年の更に背後から、別の男の子の声が響いた。
何事かと振り向いたの視界で、白い学ランの背中と、明るい茶色の柔らかそうな髪が揺れた。



「謝恩会をサボるのは許さんと言っただろうがっ!」
「センコーの顔見ながら飯なんか食いたくねーんだっての!見逃してくれって勇次っ」
「そういう訳にいくか!!」



数メートル先から猛然とダッシュしてくる男の子。それを見て、少年がげっと眉を顰める。続いて、呆然と成り行きを見守っていたの頭に、ぽんと軽い衝撃がきて。



「悪い、案内出来そうにねーや。正門まで行けば誰かはいるからさ、ちゃんと聞けよな」
「えっ、あっ」
「そんじゃな、方向音痴のおねーさん!」



走り出した一瞬、陰になっていた少年の顔が露になる。まだ少し幼さを残した、けれどとても綺麗な顔。
そこに見えた笑顔は一点の曇りもなく鮮やかで、つられるようにの顔にも笑みが浮かんだ。
白い背中は瞬く間に小さくなり、それを追いかける男の子も、あっという間に視界から消え去る。






ほんの数分の間に起こった、出会いと別れ。































―――あら?」



引越し荷物の荷解きの最中、おもむろにが上げた声に、一が振り向く。
Tシャツとジーンズと言う軽装にエプロンをつけて、甲斐甲斐しくダンボールの中身を片付けていたが、厚みのある冊子を取り出すところだった。



「何?」
「ねえ、これって卒業アルバムよね」
「ん?あー、そりゃ中学のだな」
「中学の時の一君たち?ねえねえ、見てもいい?」
「いいけど、片付け終わってからにしろって」
「きゃー中等部の校長だわ、なっつかしー!」
「……ったく」



話を聞かずにさっさとアルバムを開いたを見て、一は笑い含みの溜息を漏らし、やりかけの作業を手早く済ませると、冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取り出して傍に寄った。
アルバムに夢中になっていただったが、冷えたペットボトルをぴとりと頬に押し当てられて、ひゃっと声を上げる。



「やだもう、びっくりさせないで!」
「傍に来たのに気づかないのが悪い」
「だって楽しいんだもの〜。あっ、ねえこれって瞬君?」
「うん?ああ、そうだな」
「中学生の時も綺麗な顔してたのねー……あ、清春君発見!」
「次のページに悟郎がいるはずだぜ」
「え、ホント?どれどれ……ああやっぱり美少女だわ……」
「その呼び方やめろって……」
「あれ?瑞希君は高等部の時に転校してきたからいないのはわかるけど、翼君は?」
「翼は中等部ではダブってねーから、俺らより一年先に卒業してんの」
「あ、そっか。
―――あ、やっと一君発見」



楽しげにページを捲っていたの手が止まり、真珠色の爪が、そっとアルバムの一角を指差した。



「ふふふ、可愛い」
「男が可愛いとか言われても嬉しくねーし。悟郎くらいだぜ、喜ぶヤツは」
「そう?……あ、れ?」
「ん?なんか見つけたか?」
「…………」



不意に不思議な既視感を感じて、はページを捲る手を止めた。
開いているのは、クラス別に色々なスナップ写真を纏めたページ。そのちょうど真ん中辺りに、二人の男の子を中心に、数人の男の子が笑っている写真があった。
肩を組んで満面の笑みを浮かべる、明るい茶髪の男の子と黒髪の男の子。どちらも見覚えのある顔。
の視線をなぞってその写真に行き着いた一が、ああ、と小さく呟いて淋しげに笑う。



「この時は勇次と同じクラスだったんだよな」
「……昔の一君って、ずっと髪が短かったの?」
「髪?今くらいまで伸ばすようになったのは、高等部に行ってからだけど」
「そう……」






呟いたの脳裏で、セピア色の記憶が閃き、ゆっくりと色を取り戻していく。
卒業式の日、三月の優しい空気に包まれた記憶。
今の今まで忘れていた、最初の出会いの記憶。






「……こういうのも、運命って言うのかしら」
「はぁ?」



呟いた言葉に返ってきたのは、何言ってんだと言いたげな響きの声。
それが思い出したばかりの記憶の中の声と重なって、は一層顔を綻ばせた。
音を立ててアルバムを閉じる。少し色褪せた布張りの表紙をそっと撫で、不思議そうな表情を浮かべている一に向き直る。



「さてと、片付けを続けるわよ!」
「何だよ、いきなりだな」
「全部片付け終わったら、高等部の卒業アルバムも一緒に見ましょうよ。面白い発見があるかも」
「いいけどさ。俺のばっかじゃなくて、のアルバムも見たい」
「いいわよ。小学校から大学のまで、全部ちゃーんととってあるから」
「へえ、楽しみだな」



そう言って笑った一の笑顔は、写真の中のものと変わらない。少し大人びはしたけれど、その鮮やかさは今も同じ。
一度は失って、でも取り戻した笑顔。



再び作業に戻った一の、 あの頃よりずっと広く逞しくなったその背中をじっと見つめる。
あの日、鮮やかな笑顔を残して遠ざかっていった背中が、今は手の届く場所にある。そして多分、これからもずっと。
あの日の出会いが運命だったと言うなら、それも悪くない。
は静かに微笑んで、再び手を動かし始めた。










[070813]