「送ってくれてありがとう。帰り道、気をつけてね」 そんな言葉と共に、華奢な身体が一の隣を離れて、ぽっかり空いた空間に冷たい夜気が流れ込んだ。 すぐに立ち去ることはせず、小さな背中を目で追いかける。自分を追う視線を感じ取ったのか、は二階へ上がる階段の下で一旦振り返り、微かに微笑んで手を振ってくれた。 はにかむような微笑みは、をいつもよりずっとあどけなく見せていて、教師とは思えない。何も知らない人が見たら、自分たちの関係はどんなふうに見えるのだろうかと、ふと一は考えた。 「おやすみなさい、一君」 「……おやすみ」 カンカンとパンプスの踵を鳴らして、の姿が階上へと消える。 その姿が完全に見えなくなってからも、一はしばらくその場に立ち尽くしていた。唇の間から零れる吐息が視界を白く染めて、先程までは感じていなかった寒さが、じんわりと身体に染み込んでくる。 ほんの数時間前、腕の中にあった温もりを思い出すように、そっと胸元を押さえる。翼に借りたスーツはもう脱いで、今はいつもの制服にジャケット姿だ。普段と変わらない格好なのに、何故だかいつもより寒さが身に凍みた。 (先生が傍にいないから、か?) 心の内で自分自身に問い掛けてから、一は低く笑った。わかっている癖に、わざわざ確認するように自問自答している自分が少し滑稽に思えて。でも、そんな自分が不思議と嫌ではなかった。 ジャケットの前ジッパーを一番上まで上げて、ゆっくり歩き出す。 アパートのアーチ型の出入り口をくぐり、道路に出たところで何となく上を見上げた。灰色がかった濃い藍色の空から、吐き出す息よりなお白い雪が、はらはらと舞い落ちる。その中に浮かび上がる二階建てのアパートの一室に灯りが点り、ピンク色のカーテンの向こうで華奢な人影が揺らめいた。それを見た途端、一の足はぴたりと歩みを止めた。 顔も見えず、声すら聞こえず、見えるのは影だけなのに、それでも離れがたくて、じっと窓を見上げる。 その視線の先で、おもむろにカーテンが開かれ、が姿を見せた。大きく窓を開けて、何かを探すように巡らせた視線が、上を向いたままだった一の視線を捕らえる。大きな瞳が一際大きく見開かれて、薄紅色の唇が柔らかな笑みを浮かべた。 「よかった、間に合ったわ」 「……どうしたんだよ、先生。何か忘れもんか?」 「うん、あのね。これ使って」 言葉と同時に、白っぽいものがの手を離れて、ふわりと宙を舞う。折り畳まれていたものが広がって、それがマフラーだとわかる。そのまま下で待つ一の手の中に落ちてくるかに見えたが、不意に吹いた風に舞い上がり、窓のすぐ傍まで枝を伸ばしていた街路樹に引っ掛かってしまった。 身を乗り出してもギリギリ届かない、絶妙の位置に引っ掛かったマフラーを見て、が情けない声を上げる。 「やだ、どうしよう〜お気に入りのカシミアなのに……」 「しょーがねえなあ……ちょっと待ってろ」 「え?あっ、ちょっと一君、危ないわよ!」 街路樹の一番低い枝に手を掛け、懸垂の要領でひょいと登り始めた一を見て、驚いたがひそめていた声のトーンを上げた。制止する声に大丈夫だと短い一言を返して、枝の強度を確かめながら、上へ上へと登っていく。木登りなんて久しぶりだったが、勘は鈍ってはいなかったようで、一は程なくマフラーへ手が届く場所に到達した。 柔らかな手触りのそれを枝から外して軽くはたき、窓の内側でハラハラしながら見守っていたへと差し出す。 「ほら、取れたぜ」 「ありがとう。何だか手間を掛けさせちゃって、ごめんね」 「このくらいどってことねえよ。それよりほら、先生」 そう言ってマフラーを差し出した時、一は自分がいる位置がの部屋にかなり近いことに、今更のように気づいた。ほんの少し腕を伸ばすだけで、のいる窓枠に手が届く、そんな位置。 さっきまで見上げていたの顔が、ほぼ同じ高さにある。もそのことに気づいて、申し訳なさそうに首を竦めて呟いた。 「危ない真似させて、本当にごめんなさい、一君」 「気にすんなって。いいから、ほらこれ」 「あ、うん……って、そうじゃないわよ。それは一君が使うの!」 「お気に入りなんだろ?そんなの借りる訳にいかないって」 「いいのよ、他にも持ってるし。雪の所為でかなり冷え込んできてるから、温かくしないと」 「大丈夫だってーの。そんな柔な身体してないぜ、俺」 「油断しちゃダメ!予防しておくに越したことはないでしょ!」 は頑固に言い募り、一旦は受け取ったマフラーを、改めて一に差し出した。 真っ直ぐな視線を向けて、含めるようにゆっくりと言い聞かせる、その姿はいつもどおりの「先生」で、一は少し悔しいような、淋しいような、何とも言えない息苦しさに襲われる。 少し考え込んでから、一はゆっくりと口を開いた。 「……んじゃ、先生が巻いてくれよ」 「えっ?」 「この状態で両手離したら、俺でも流石に危ねえしさ」 「え、で、でも、それなら下に降りてから巻けば」 「そんじゃあ貸してくれなくていい」 「一君ったら!」 わざと子供じみた口調で我侭を言うと、それ以上に子供っぽい反応が返ってきた。ふくれて上目遣いに睨む表情の幼さに、普段否応なく突きつけられる歳の差が無くなったような感覚を味わう。錯覚でしかないとわかっているのに、一はその感覚に微かな喜びを覚えて、声なく笑う。 手の届かない窓の向こうにいたへ、手を伸ばせば捕まえられるところまで近づけたように、6歳差という見えない距離も縮められたら、今感じているこの息苦しさも消えるのだろうか。 考えても仕方のないことと知りながら、そんなふうに考える一の耳に、小さな溜息が聞こえた。 「……わかったわ」 「え?」 「巻いてあげる。もう少しこっちに寄ってこれる?」 「あ、ああ……」 足場としては不安定な枝の上で、慎重に窓辺に身を寄せると、も窓から身を乗り出した。少し冷たい手が一の耳を掠めて、柔らかな感触と甘い香りが、耳朶や頬を包み込んだ。 かつてないほど近くにの顔がある。瞬きすることも忘れて、一は真っ直ぐにその双眸を見つめた。白く凝る二人分の吐息が混じり合って、うっすら霞がかる中で、の眼差しが僅かに揺らめく。 その揺らめきが示すものが何かを、一が追求する暇を与えまいとするように、は早々に身を引いてしまった。 「はい、出来た」 「……サンキュ」 「どういたしまして」 「…………」 「…………」 「じゃあ、俺、行くな」 「うん、気をつけてね」 僅かな沈黙の後、ぽつりと切り出した一の言葉に、がどこかぎこちなく微笑んで頷く。 登ってきた時と同じ枝を伝って降りようとした時、あ、と小さな声がの唇から零れ落ちた。 それに反応した一に、は笑って後ろを指差す。 細い指先が指し示した先で、空を覆っていた雲が僅かに途切れて、そこから顔を覗かせた月が乳白色の柔らかな光を、そっと投げ掛けていた。 「いつの間にか雪、止んでたのね」 「ああ」 「帰り道、気をつけてね」 「先生も戸締り忘れんなよな」 「うん。……おやすみなさい」 「おやすみ」 今夜二度目の挨拶を交わして、一はゆっくりと街路樹を降りた。 地面に降り立って上を見上げると、はまた窓から身を乗り出して、小さく手を振った。 手を振り返して、ゆっくりと歩き出す。最初の曲がり角まで進んで、ふと後ろを振り返ると、はまだ窓を開けたまま、手を振り続けて見送ってくれていた。 けれどその姿はもう遠すぎて、ささやかな冬の月の光だけでは、どんな表情をしているかを窺い知ることは叶わない。 それでもやはり離れがたく思う心を押し殺して、一は角を曲がる。 今はどうしたって、との距離を縮めることは出来ない。だけど、この冬を越えたら。 ―――もう、後ろは振り向かなかった。 [071005] |