渡り廊下の途中で、はふと足を止めた。 夕闇に支配され始めた校舎の中、ひとつだけぽつりと明かりの灯っている窓がある。 世の中は夏休みの真っ只中だが、部活や特別講習の為に来ている教師や生徒もいる。だがそれはあくまでも昼の話で、この時間に学園内にいるのは宿直のだけのはずだ。 「……電気、消し忘れたのかしら」 白い光が零れる窓の位置でどの辺りの教室か目星をつけて廊下を歩き出す。 赴任したての頃は、元々方向音痴の上に校舎が広すぎてしょっちゅう迷子になっていたものだが、勤めて数年が経った今は流石にもう迷うことはない。 人気のない廊下をのんびり歩いていると、そこかしこに残る思い出が呼び起こされた。その大部分はこの高等部へ赴任してきた年のものだ。 そう言えばあの年の夏にもこんなことがあったわね、懐かしく思い出した瞬間、の足が止まった。 サマースーツの袖を軽く捲って腕時計に視線を落とす。今日の日付と、2本の針が示す時間を確認するや、は小走りで駆け出した。 何度か足が縺れて転びそうになりながら、廊下を走り抜け、階段を二段飛ばしで駆け上がる。 辿り着いた教室は学園内でも一番馴染み深い場所だった。 3-Dと書かれたクラス表札を見上げて、軽く息を弾ませながら扉に手を掛ける。 そっと開いた扉の隙間から薄暗い廊下へと零れ出した白い光が、薄闇に慣れたの網膜を灼いた。目を瞬かせながら明るい室内へと踏み込んだの耳に声が届く。 「おっ、」 「……一君!」 窓際で、少し行儀悪く片膝を立てて机に腰掛けていた一は、振り返った肩越しに微笑んだ。 その笑顔に記憶の中の笑顔がオーバーラップする。もう何年も前の、夏の記憶。 懐かしい記憶に触発されて思わず漏れた小さな苦笑は、静かな教室内で思った以上に大きく響いた。ゆっくりと机の間を縫って一に近づくと、は表情を引き締めて小さな握り拳を作り、こつんとその頭に落とした。 「どうやって入ったの、不法侵入よ」 「ひでぇな。俺、卒業生だぜ」 「卒業生だろうと在校生だろうと、こんな時間に校内に入っちゃ駄目なの」 「まあいいじゃん。それよりほら、こっち」 精一杯厳めしい顔を作って睨みつけたのに軽く流され、妙に機嫌の良い笑顔で手招きされた。の方が年上のはずなのに、イニシアティブを取るのは大抵一だ。それを面白くないと思う時もない訳ではないが、一のリードに任せることの心地好さがいつもその感情を上回ってしまう。 素直に一の隣に身体を寄せると、日に焼けた腕が伸びてきて、一の胸元に引き寄せられた。背中に感じる温もりが、クーラーの人工的な冷気に冷やされた身体にじんわりと染み込んで気持ち良い。 一の胸に寄り掛かった状態で窓の外に目をやった時、まるでの視線が向けられるのを待っていたかのように、濃藍色の空に色鮮やかな花が咲いた。 「……やっぱり、これを見に来てたのね」 立て続けに幾つもの大輪の花火が夜空を染めていくのを眺めながら、ぽつりと呟いたの言葉に、一の笑い声が重なる。 「まぁな。今年は何となくここで見たくなってさ」 「それなら、私に一言言ってくれれば」 「許可取ったら面白さが半減しちまうじゃん。こういうのは忍び込むところからが楽しいんだよ」 「悪ガキね」 「悪ガキ、嫌い?」 「……わかってるくせに」 少し意地の悪い一の質問に拗ねた声で応じると、頭上から降ってきた笑い声に合わせて小さく身体が揺れた。身体を震わせて笑う一の腕を軽く抓って黙らせて、は再び窓の外で咲き続ける空の花に視線を送る。 この教室から花火がよく見えると教えてくれたのは一だった。出会ってまだ半年も経っていなかった頃、夏休みの補習の後に今日と同じように見回りをしていて、一人でこの教室にいた一を見つけた。 広い広い校舎内に、二人きりで。並んで座って、花火を眺めた。 もう随分と前のことなのに、今も鮮やかに残る記憶。 「綺麗ねえ」 「ああ」 「あ、今の大きい!」 一際大きく開いた花火にはしゃいだ声を上げた時、不意に抱きしめてくる一の腕の力が強くなった。 耳元に寄せられた唇から漏れる吐息がはっきりと感じ取れて、そのくすぐったさには軽く身を捩ったが、抱きしめる力は緩まない。 どうしたの、と問いかけようと口を開きかけたら、それを制するように、あのさ、と一が呟いた。 その声は先程までとは打って変わって低く真剣で、の顔からも自然と笑みが消える。 「……何?」 「本当は、今日来たのは、ここでに言いたいことがあるからなんだ」 「ここって、聖帝学園?」 「そう。に出会った『ここ』」 一の言葉には困惑した。 二人で一緒に暮らし始めて、もう数年が経っている。他に人のいない状態で話したいなら家に帰れば済むことなのに、わざわざ場所を選ぶほどの話とは何なのか。 一の腕の力は一向に緩む気配が見えず、は首から上だけを動かして肩越しに振り返った。 すぐ目の前にある一の顔は怖いくらいに真剣で、問いかけることを躊躇わせる。 息苦しささえ感じる長い長い沈黙。それを破ったのは一の言葉だった。 「…………結婚、してくれねえ?」 「―――え?」 一瞬、言われた言葉の意味が呑み込めず、きょとんとしてしまったの視界で、一は困ったように眉間に皺を寄せた。 「、あのな?」 「え?あ、あの、ごめんなさい。あの、えっと、もう一回言って?」 「だーからぁ……!」 一がますます表情を曇らせる。の身体に回していた腕が片方下ろされて、ごそごそと何かを探る音が聞こえたと思ったら、唐突に手のひらが目の前に突き出された。 大きな手の上で小さな銀色が光る。それと一の顔を何度も見比べて更に呆然とするの耳元で、じれったそうに一が繰り返す。 「結婚してくれっつってんの!」 「……だ、誰と?」 「……その質問はわざとか?」 「え、えっ?えええええー!?」 「あーもう……ちょっと落ち着けって」 言葉と共に抱きしめる力がまた強くなって、強引に唇が重ねられた。 長い口付けが終わっても、一はとの距離を縮めずに、唇が触れるか触れないかのギリギリの位置から、じっと視線を注いで口を開いた。 「……俺、大学卒業したしさ。一応、就職も出来たじゃん」 「う、うん……」 「もそろそろ適齢期ギリギリだしさ」 「うん……って、ちょっと!その台詞は聞き捨てならないわよ!まだそんな年じゃありません!」 「でも最近ちょっと焦ってきてるだろ?」 「うっ」 図星をつかれて口を噤むと、一は小さく笑った。 ここ一、二年の間に次々と友人が結婚していき、それを見て密かに焦燥を感じていたのは事実だ。一との付き合いに不満はないし、関係を続けていくことに迷いはなかったけれど、結婚となると話が違う。 まだ学生という立場の一には縁遠い問題だろうし、要らぬ気を遣わせたくはなかったので、気にしている素振りを見せないように気をつけていたつもりだったのだが、バレバレだったらしい。 不甲斐ない自分を情けなく思っていると、一が掠めるようなキスをしてきた。 先程までの硬い表情とは正反対の、穏やかで、けれど確固たる意志を滲ませた笑みを浮かべて、真っ直ぐにを見つめてくる。 「が、俺が学生だからって気を遣ってくれてたのは知ってる。でも、もうそれも解決した訳だし」 「……う、ん」 「俺はこの先もずっと、と一緒に生きていきたい」 「…………」 「俺がのこと、一生守るから。だから、さ」 ――――――結婚してくれねえ? 三度目のプロポーズの言葉は、限りなく優しい響きで。 返事をしようと口を開き、けれど胸が詰まって声が掠れて、頷くことしか出来ないの手を取って、一が手のひらに握り込んでいた銀色の輪をそっと薬指に滑り込ませた。 永遠を約束する小さなその輪に誓いを託すように、一が小さな声で、でもはっきりと囁く。その言葉にはもう一度しっかりと頷いて、寄せられた唇を受け止めた。 「二人で、幸せになろう」 永遠に幸せに。 [080424] |