一番最初に目に入ったのは、部屋を染める夕焼けの色。 優しくて少し淋しげなその朱を小さな背中で受け止めて、自分の膝の上で小さな寝息を立てる一人と一匹を愛おしそうに見つめている姿が、とても綺麗だった。 音を立てないようにそっと動いたつもりだったのに、穿き慣れたスニーカーは持ち主の意向など知らぬと言いたげに、バカサイユの床と擦れ合って調子っぱずれの短いメロディを奏でた。 「……あら」 俯いていた顔が上がり、膝の上の寝顔に向けられていたのと同じ優しい笑みが零れる。 眠り続ける瑞希の髪を撫でていた手が持ち上がり、人差し指が微笑みを浮かべたままの唇にそっと押しあてられる。こんなシチュエーションにお定まりのポーズ。 そして唇を離れた細い指は、すぐには先程の位置に戻らなかった。他の指と一緒に緩やかに動いて、一をそっと差し招く。その小さな仕草にその場の雰囲気に気後れしていた一は緊張を解かれ、引き寄せられるように一歩踏み出して、けれどそこで唐突に歩みは止まった。 の膝の上、全てを預けきった安らかな寝顔の中で、うっすらと片方の瞼が上がって一を見つめ。 ゆっくりと唇が動いて、一にしか聞こえない声を紡ぎ出す。 ―――来ちゃダメ ―――今は僕の ―――今だけは、僕だけの、先生だから まるで小さな子供のこねる駄々だ。けれど真っ直ぐ切り込むように見つめてくるその眼差しは、一の動きを止めるのに十分な強さを湛えていた。 動こうとしない一を見て不思議そうに小首を傾げるに曖昧に笑い返し、咄嗟にキッチンへの扉を指示し、口元でカップを傾けるジェスチャーをしてみせると、は納得したように頷いて小さく手を振ってくれた。 今度こそ足音を立てずに部屋を横切り、目的の扉の中へと素早く滑りこんで、そこでやっと一は詰めていた息を吐き出した。 何気なく手の甲で触れた頬はやけに熱かった。 きちんと片付けられたキッチンは薄暗く人気がなかった。 山田さん今日はもう帰ったのか、と取り止めのないことを考えながら、ケトルに水を注ぎ、ガスコンロに火を点す。 木製の踏み台に腰掛けて、磨き込まれたステンレスが青白い炎を映し出す様を眺めながら、一はぼんやりと先程の光景を思い出した。 まるで一枚の完成された絵のような、立ち入ることを躊躇わせる、特別な空間。 けれどが手招いてくれた瞬間、自分もその中に入ることを許されたように思えて、それが嬉しかったのに。 瑞希の放った拒絶の言葉に今更のように腹が立った。 「つーか、今は僕の、ってなんだよ……」 は特定の誰かの先生じゃない。 B6の、ClassXの、みんなの先生だ。誰かが独り占めしていい人ではない。 それなのに。 ぶつぶつと文句を言いながら、カップボードからマグカップやらティーバッグやらを取り出す。自分の分と、の分。 瑞希の分なんか淹れてやらねえ、と思いながら、沸騰し始めたケトルを火から下ろして、ティーバッグを放り込んだカップに勢いよくお湯を注いだら、熱い雫が跳ねて手に飛んだ。 「あっち……!」 熱かったのはほんの一瞬だけ。 跳ねた雫はあっという間に冷えて滑り落ち、手の甲にはうっすらと赤い跡だけが残った。それと同時に、胸の奥で沸騰していた苛立ちも収束する。 ――――――瑞希に腹を立てたのは、本当はその気持ちが嫌という程よくわかるからだ。 自分を理解してくれた、大事な、特別な人。 のおかげで変わることが出来た。立ち止まってしまっていた場所から、動き出すことが出来た。 独り占めしてはいけない人だとわかっているけれど、出来ることなら独り占めしたい。身勝手で子供じみたわがまま。でも、ほんの一時でもそれが叶うなら。 そう思う気持ちは自分も同じだから。 ムカつくから瑞希の分は淹れてやらないだなんて、ガキ臭い真似をしようとしていた自分に恥じ入り、心の中で瑞希に謝罪しながら、一はもうひとつマグカップを取り出して、今度はゆっくりお湯を注いだ。 マグカップから立ち昇る紅茶の香りが、更に気持ちを落ち着かせてくれる。 三人分のカップを器用に両手に持ってキッチンを出ようとしたその時、絶妙のタイミングで扉が開いた。 「うおっ」 「……ん」 「なんだ、起きたのか、瑞希」 「……カップ、みっつ?」 一の手元を見て、瑞希がぽつりと呟く。知り合ったばかりの頃に比べると、格段に感情の起伏が読み取りやすくなった瑞希の顔。今そこに浮かぶのは戸惑いと、それから。 それに気づいた途端、一はこみ上げる笑いを抑えきれなくなった。 カップの一つをその胸元に押し付けて、くっくと声を上げて笑う。 「三つだろ。先生と俺とお前で三つ」 「……どうして……」 「何だよ、いらなかったか?」 「……もらう」 「んじゃ、自分の分は自分で持ってくれな。ほら」 白い手のひらがそっと包み込むように持ったのを確認して、一はマグカップから手を離した。 自分の分との分を手に瑞希の横をすり抜けようとした瞬間、ほとんど吐息のように微かな声が、一の耳の飛び込んできた。 ――――――あとで、トゲー触っても、いい。 見上げれば、そこにはさっきと同じ、怒られるのを覚悟した子供のような表情があった。 来ちゃダメなんて言ってごめん、先生を独り占めしようとしてごめん。そんな声が聞こえてきそうなその顔を見て、一は再び笑い出しそうになるのを堪える。 さっき、心の中で瑞希に謝りながら紅茶を淹れていた時の自分も、こんな顔をしていたのだろうか。 友達と些細なことでいがみ合って、それを後悔して反省して謝りたくて、でも素直に言葉にするのは照れくさくて、だからごめんの三文字の代わりにお茶を淹れたり、普段は許さないことを許してみたり。 そんなどこにでもあるようなやりとりが、なんだかやけに新鮮で、少しくすぐったい。 きっとそれは、に出会う前の自分たちの間にはなかったやりとりだからだ。 普通の、どこにでもいる子供同士みたいに。 そんなふうに変わったのも、きっとのおかげ。 笑い出したいのを抑えて肩を震わせる一を前に、瑞希は不思議そうに首を傾げた。 お互い様だから謝らなくていい、なんてことは、恥ずかしくて言えないけれど。 「そんな顔すんなって。別に怒ってねーからさ」 「…………」 「おーい先生、お茶入ったぞ」 「ありがとう、一君!ちょうど喉が渇いてたのよ」 マグカップを持ったままの手で、トンと軽く瑞希の肩を叩く。お茶が跳ねないように、慎重な動きで。微かに目を丸くした瑞希にもう一度笑いかけてから、その横を通り抜けての元へ向かった。 ソファに腰かけたままで手を伸ばしてきたにマグカップを手渡すと、嬉しそうに笑って受け取ったは、一の顔を見て不思議そうな表情になった。 「一君?何かいいことでもあったの?」 「ん?」 「なんだか、すごくいい笑顔してるから」 「んー、ちょっと、な」 の問い掛けに軽く頷いて、カップに口をつける。 立ち昇る湯気越しに瑞希と目が合う。あの表情はもう消えて、今は静かな微笑みが浮かんでいた。 [080606] |