いつかの夏をもう一度










「草薙先生?」



夕暮れに染まる母校の門をくぐったところで、聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、一は首から上を動かして声のした方を振り向いた。
声を掛けてきた知人は、記憶に残っているより幾分雰囲気が変わっていた。くりっとした目が印象的な童顔は変わらないが、そこに浮かぶ表情は以前よりも落ち着きがあり、女性らしい艶も感じさせる。
その傍らに寄り添っている長身の人影も、記憶にあるより大分大人びていた。
元々歳不相応な落ち着きと貫禄を持っていたが、数年の間にそれに更に磨きが掛かっている。
元同僚と教え子と言う、懐かしい顔ぶれとの偶然の再会に、一はひょいと手を上げてよう、と気安い挨拶の言葉を発した。真奈美と千聖も驚きの表情を浮かべながら、それぞれ丁寧な会釈と軽く首肯する仕草を返してくれた。
小走りに駆け寄ってきた真奈美が、以前のままの人懐っこい笑顔で首を傾げながら口を開いた。



「お久しぶりですね! いつ日本に帰っていらしたんですか?」
「ん、昨日帰ってきたばっか。二人とも元気そうだな」
「おかげさまでな。アンタも変わりないようで何よりだ」



ありきたりな言葉だが、お互いへの気遣いがこもった会話がしばし続く。そんな中、極々自然に寄り添い合って立っている真奈美と千聖の姿を一は感慨深げに見やった。



「相変わらず仲良くやってんだな。今日はデートか?」
「えっ! あ、あの、えっと」



一の質問に、真奈美の顔が瞬く間に朱に染まる。そんな初々しい反応は昔と変わりなく、可愛がっていた妹分の相変わらずの反応にほのぼのする一の視界で、千聖はむっと口をへの字にして年上の恋人を見下ろした。



「……おい、何故そこで即答しない」
「だっ、だって何かちょっと、は、恥ずかしいんだもの!」
「ははは、相変わらず可愛いなー北森先生」



赤く染まった頬を押さえて俯いた真奈美の頭をぽんぽんと撫でると、あからさまに不機嫌な顔になった千聖が真奈美の肩を抱き寄せて一から遠ざける。



「うちのちっこいのにあまり馴れ馴れしく触るな」
「……その言い方も恥ずかしいからやめて〜……」
「不破も変わんねーな。つーか、こんな時間に二人して学校に何しに来たんだ?」



校門で延々立ち話もなんだからと歩き出しながら、一は照れている真奈美への助け舟も兼ねて話題を変えた。
千聖に肩を抱かれたまま、一の隣に並んで歩きながら真奈美がぱっと笑顔を見せる。



「花火を見に来たんですよー」
―――花火?」
「前にうちの校庭はよく見える穴場だって、草薙先生が教えて下さったでしょう? 人ごみを歩くのは疲れちゃうので、こっちで見ようかと思って」
「あーなるほど、それでか」
「草薙先生は何の用事でいらしたんですか? よろしかったら、用事が終わった後、一緒に花火見物しません?」



無邪気に問い掛ける真奈美の横で、千聖は面白くなさそうにむっつりと黙り込んでいる。その心境を察して、一は心の中で苦笑いした。
久しぶりに会った可愛い妹分に以前と変わりなく懐いてもらえるのは嬉しいが、その為に恋人と二人きりの時間を楽しみにしているのであろう可愛い教え子を不愉快にさせるのは忍びない。
それに、誘ってくれる真奈美には申し訳ないが、聖帝まで足を伸ばした目的は花火見物の前には終わらせることが不可能なので、同席するのは無理だ。
そう告げると、真奈美は心から残念そうに、それじゃあ仕方がないですね、と呟いた。しょんぼりと肩を落とした恋人の様子に、流石に素直に喜べないのか、千聖も複雑そうな表情になる。
そんな二人の反応に一は今度は心の中でなく、実際に苦笑しながら真奈美の頭を優しく撫でた。



「ごめんな。でもせっかくの花火なんだから、二人でゆっくり楽しんでこいよ、な?」
「はぁい……あーあ、先生にも断られちゃったし、残念」
――――――
「……おんしは俺と二人きりで見るがや、ほがーにつまらんがか」



ぽつりと零れた真奈美の呟きを耳にした一が息を呑むのとほぼ同時に、千聖の低い声が響いた。慌てた様子で真奈美が傍らの千聖を見上げ、完全に拗ねているその顔を見て、アワアワと身振り手振りを交えて弁解を始める。
その微笑ましい光景に、一は瞬間的に強張った表情を解れさせると、じゃあな、と短い挨拶の言葉を掛けてから、校庭に向かう二人とは違う方向に向かって歩き始めた。



―――草薙先生、こっちにいらっしゃる間に、もう一度くらい声掛けて下さいね!」
「飯でも食わせてやる、連絡を寄越せ」



背中に掛けられた二人の声に、ひらりと手を振って応えて、一は目的の場所に向かう為、一人、校舎へと足を踏み入れた。















薄暗くなり始めた校舎内をゆっくりと歩く。
人気のない廊下に響く自分の足音はいつもより律動感に欠けていて、思った以上に自分が緊張していることを弥が上にも思い知らされた。
殊更にゆっくり歩を進めたにもかかわらず、気づけば早くも目的の場所の前まで来てしまっていた。
先年、校舎が改築された折に、在学中に一たちが学んでいだClassXの教室は無くなってしまったが、以前その教室があったのと同じ階の、ほぼ同じ辺りに位置する教室。
ドアノブに手を掻け、一瞬目を閉じて小さく息を吸ってから、一は意を決して扉を押し開けた。
がらんと広い教室は、今にも沈んでいこうとしている太陽が投げかけるか細い光でうっすらオレンジ色に染まっている。
その優しい夕暮れ色に半ば溶け込むように、懐かしい後姿が見えた。
何年経っても決して見間違えることの無い、華奢なのにどこか力強く感じる、小さな背中。
窓際の机のひとつにちょこんと腰掛けているその背中をしばし見つめてから、一は静かに口を開いて、ただ一人の人だけを指す、特別なその呼び名を唇に乗せた。



―――先生」



夕暮れのオレンジを纏っていつもより赤みが強く見えるミルクティーブラウンの髪が、ふわりと揺れる。
ゆっくりと振り返った白い顔の中で、初めて会った時から変わらない真っ直ぐな瞳が柔らかく和み、ベージュピンクの唇が懐かしい声を紡いだ。



―――遅いわよ、一君」



からかうように少し弾む声が一の耳を擽り、心を優しく振るわせる。
きっちりと並べられた机の間を縫って、一は一歩、また一歩と足を進め、の傍らまで行って立ち止まった。そのまま何も言わず、二人並んで立ち尽くす。の眼差しが自分の横顔に注がれているのを感じながら、一は沈んでいく夕焼けを黙って見つめていた。
やがて窓ガラスの向こうで朱い夕暮れが姿を隠し、空の色が薄紫から藍色に変わった頃、一はやっと口を開いた。
「……久しぶりだな、先生。元気だったか?」
「おかげさまで、元気よ。一君も元気で頑張ってるのね。この間の決勝も見たわ。優勝おめでとう」
「サンキュ」
「鳳先生たちもとっても喜んでらしたのよ。早く、直接おめでとうって言いたいって仰ってたわ」
「そっか」



同じおめでとうという言葉を、もう何人もの人から贈られているのに、それがから発せられたというだけで、随分と違って聞こえるものだな、と一はぼんやり考えた。
その後も、ぽつり、ぽつりと何てことのない会話が続く。
他のB6の近況や、最近の学校での出来事、試合で負った怪我の具合について。そして、在学中のいろいろな思い出話。 大分長いこと会っていなかったことが嘘のように、二人の間に流れる空気の温かさは昔のままだった。ずっとこのまま浸っていたくなる程に心地好い。
―――けれど。



「はじめ、くん?」



不意に黙り込んだ一の顔を、小さく名前を呼びながらが覗き込む。初めて出会った頃のものよりもやや落ち着きが増しているその表情が、つい先程まで見ていた可愛い妹分のものと重なる。
自分と同じの教え子。と同じように、問題児と言われた生徒たちを一年の間真っ直ぐに導き続け、『先生』として信頼と尊敬を得た真奈美。
そして、かつての自分と同じように『先生』に恋をした、千聖。
一と決定的に違うのは、千聖はその恋を成就させたことだ。教師と生徒という関係で終わることを善しとせず、自分の想いを貫いた。
真奈美と一緒にいる千聖を見ていると、かつての自分と重なりながらも、最後の最後で悔しいと思わされる。自分には出来なかったことを成して、大切な人を公然と愛する立場を手に入れた男。
一にも、同じような道は選べたはずだった。一自身があえて何もせずにいただけで、との関係を変える機会は何度だってあったのだ。
その道を選ばなかったのは、今の優しい関係を壊した上に築かれる新しい関係が、自分の望む通りのものになる保障が無かったから。想いを受け入れてもらえなかったらと思うと、踏み出す勇気が持てなかった。けれど。
向けられている優しい眼差しを至近距離からじっと見つめ返す。
いつも真っ直ぐに一を見ていてくれたその瞳に、恥じない自分でありたいと思う。だから。



「先生。―――好きだ」
――――――
「ずっと好きだった、あんたのこと」



永遠にも思える長い沈黙の後、小さな溜息が夕闇に支配された教室に響いた。幽かなその吐息が、強豪選手たちと幾度も競り勝ってきた屈強な肩を小さく揺らす。
次に来る言葉を待ちきれず、ぎゅっと瞼を閉じた時、掠れ気味の囁きが一の鼓膜をそっと振るわせた。



「だから言ったじゃない。―――遅いわ、一君」
「…………」



瞼に込めていた力が抜け、ゆっくりと開けていく視界の中、が微笑んでいた。
一瞬の静寂の後、ドォン、と音がして、の背後、藍色のキャンバスに大きな花がひとつ咲いて消えた。鮮やかな火の花に照らされて、浮かんだ微笑は逆光に隠れ、声だけが一の下に届いた。



「随分待っちゃった」
「……悪い」
「ううん。―――あのね、私もね、」



の最後の言葉は、再び夜空に咲いた花火の音にかき消される。二人はぱらぱらと空に散り消えていく色鮮やかな火花に一時見惚れ、そして顔を見合わせて苦笑した。
かつて、今のように二人で見た花火を思い出す。思えば、あの頃から随分と遠くまで来てしまった。いろいろなことが変わって、でも変わらなかったものもあり、変えられずにいたものも。
そして、また一つ、変わるものがある。
そろりと持ち上げた一の手のひらがそっとの頬に触れた。間をおかずの手がそこに重ねられ、一の手を優しく包み込んだ。
立て続けに上がる花火に照らされながら、どちらからともなくそっと寄り添って唇を触れ合わせる。先程花火に消された言葉の代わりのように、の唇は無言で雄弁に語った。
何度目かのキスの後、一が何気なく窓から外を見下ろすと、校庭にいくつかの人影が見えた。その中に、寄り添って花火を眺める後姿が二つ。
一の視線を追って同じ人影にたどり着いたが、あら、と嬉しそうに笑った。



「花火の後で、北森さんたちも誘って、夕ご飯食べに行こうね」
「ああ、いいな」
「あとね」



―――来年も、こうやって二人で花火を見ようね。



花が零れるような笑顔と共に囁かれた言葉に、一は笑いながら頷いた。










[100813 1LOVE 悠 にて初出 / 120217 一部修正・加筆の上、再公開]