大人になろうが、何年経とうが、やっぱりしたい時がする時。










蜜よりもあまいは、あなた










カタン、という小さな音が、一の足を止めた。
久し振りに帰国した足で真っ先に向かった、僅かな期間だが己の職場となったこともある、懐かしい母校の一角。
夕闇に支配され始めた校舎内は、期末試験直前で部活動は軒並み休止、生徒たちは例外の一部を残して皆早々に帰宅している為に、いつにも増して人気がない。が、目の前に伸びる薄暗い廊下の一部分がぼんやりと白く光っていて、一の目を引いた。
長い廊下のどん詰まり、一番端の教室から漏れる微かな光が磨き上げられた床に反射している。



「……何だ何だ、誰か残ってる奴がいるのかぁ?」



この場所で臨時講師として教鞭を取っていた頃に戻ったような気分になって、ついついそちらに足が進んでしまう。許可なく居残りしている生徒がいるならば、見回りの教師に見つかって叱られる羽目になる前に帰るように声を掛けてやらねば、などとつい考えてしまうのは世話好きな性質故か。
何とはなしに足音を忍ばせて、その教室へと近づく。廊下に光が漏れているのは、扉が完全に閉まっていないからだった。とは言っても、2、3歳くらいの子供ならば何とか通り抜けられるか?という程度の隙間だ。プロサッカー選手として鍛えぬいた一の体躯ではまず無理だろう。
が、中の様子を覗くだけならば十分な幅がある。漏れてくる蛍光灯の光に目を眇めつつ、一が中の様子を伺おうとした、その瞬間。



―――っ、これ以上は、駄目だって、ばっ……!」
「まだ足りん」
「もうっ、千聖く……ん、っ」



咎める口調でありながら、途切れ途切れの言葉の合間に混じる甘やかな吐息の所為でやや説得力に欠ける囁きと、その言葉を短く斬って捨てる低い声。更に抗議しようとした声は最後まで紡がれることなくくぐもって消えた。
扉の隙間から見えた人影は二つ、そのどちらもが一には見覚えのあり過ぎる人物だった。



(あーりゃりゃ、りゃ)



教室内から漏れる明るい光が薄暗さに慣れた目を眩ませ、眼前の光景を適度に暈してくれていて、今はそれがありがたかった。それなりに親しい(つもりの)知人のこういった場面を見てしまうのは、何とも気まずいものだ。
過去の自分も似たようなことをしていた覚えがあるので、今更ながらにちょっと反省してみたりもして。
とりあえず未だ終わる気配のないキスシーンから目を反らし、さてどうしたもんかな、とのんびり頬を掻いた一の耳に、また新たな音が届いた。文字で表せと言われたら、ポス、とか、トス、とか、そんな感じの軽い音がまばらに響く。
ちらりと目をやれば、相変わらず小柄な元同僚の小さな手が、覆い被さるように抱きしめている背の高い青年の背中を懸命に叩いていた。音がまばらなのは、時折叩くのをやめてシャツを掴んで引っ張っているからだ。何とかして自分から引き剥がそうという試みらしいが、元々の体格が違いすぎる上に青年をよく知るものが見れば、まず成功することはなかろうと思わせるその動きを見て、一は小さくひとつ溜息をついて扉に手を掛けようとした。その時。



―――は、じめ、くん……?」
――――――



ほとんど吐息に近い、無声音の囁きが一の鼓膜を打ち、その動きを止めた。
ゆっくりと首から上だけを動かして、声のした方を振り向く。
薄暗い廊下の片隅にぽつりと立つほっそりとした人影。見慣れたミルクティーブラウンの髪に囲まれた白い顔の中で、驚きに大きく見開かれた瞳がきらきら光っている。
視線が交わった瞬間、考えるよりも先に身体が動いていた。
驚き立ち尽くしている恋人に駆け寄り、その身体を腕の中にさらって強く抱きしめる。柔らかな髪に頬を寄せて彼女の纏う甘い香りに数秒酔いしれてから、有無を言わさず唇を奪った。
遠く離れて逢えなかった時間を埋めるように、深く長く、角度を変えて何度も何度も口付ける。細い指にジャケットの袖を掴まれ身体を押されたが、そんな抵抗など物ともせず、一は心行くまでの唇を貪った。
一頻り堪能してから、やっと唇を離して腕の中に閉じ込めたまま、の顔を覗き込む。久々の再会をした恋人から、顔を合わせるなりいきなり濃厚なキスを贈られたは、薄暗がりの中でもはっきりとわかるくらいの真っ赤な顔で上目遣いに一を睨んでいた。が、強引なキスに息が上がって瞳が潤んでいる所為で、その表情は迫力に欠けるどころか寧ろ煽情的ですらある。
そんなを目の当たりにして、再び吹っ飛びかけた一の理性を留めたのは、当のの声。



「……一君の、バカっ」
「…………あー、いや、なんつーか、その……悪い」
「ああいうことする前に言うことがあるでしょう!?しかも場所が!ここを一体どこだと思ってるの!」
「んーと、学校の廊下?」
「何で疑問形なの!まごうかたなき学校よ、神聖な学び舎の廊下ですっ!なのにそんな場所でいきなりなんできっ、キッ、キッ……!」



キスなんて、と言った瞬間、の顔が更に紅潮した。
具体的な単語を口にしたことで、ますます恥ずかしくなったらしい。火照る頬を手のひらで包み込むように押さえ、ああもう、などと呟いては何やら無意味にジタバタしている。
くるくるとめまぐるしく変化するその表情がたまらなく可愛くて、思わず口元が緩む。その可愛らしい様子をもうしばらく楽しむべきか、それともまだ身体の内側で燻っている欲望を昇華すべく、今一度の行為に及んでしまおうか。
先刻、教え子の悪さを見て過去の己の行状をちょっと反省したことなどもうすっかり忘却の彼方で、そんな不埒な二択に軽く頭を悩ませていた一の耳に、その時不意に以外の声が聞こえた。



「……あ、あのー……」
「一体そこで何をしている、草薙。というか、何で貴様がここにいる」
「千聖くん!先生に向かって貴様とか言っちゃ駄目でしょ!」



遠慮がちに呼び掛ける声は小柄な元同僚、ふてぶてしい問い掛けは元教え子のものだ。
振り返ると、先程よりもやや大きく開かれた扉から、真奈美と千聖の二人が並んでこちらを窺っていた。
室内から漏れている光に照らされた真奈美の顔は、先程までの行為の余韻か、に勝るとも劣らず真っ赤だ。一方千聖は相変わらず感情の読み取りにくい仏頂面。
一瞬、どういう反応を返すべきか迷ったが、とりあえず型通りの挨拶を返す。



「よっ、久しぶり」
「あ、はい、お久しぶりですっ」
「あ、ええと、不破くんもお久しぶりね」
「……ああ」



深々と頭を下げる真奈美の横で、に声を掛けられて小さな会釈を返した千聖は、微かな困惑の色をその端正な顔に浮かべて、一瞬の逡巡の後、口を開いた。



「……ところで、あんたらはいつまで、その……そうしているつもりだ?」
「え?」
「ん?」



千聖の言葉に二人同時に切り返して目を見合わせる。そういえばお互いとの距離が何だかやたらと近いなと思い。
そして。



「キャーーーーーーーッ!!!?」
「うぉわ!?」



廊下中に響き渡る盛大な悲鳴と共に、どーんと派手に突き飛ばされて一がたたらを踏んだ。
呆気にとられる三人の前で、は先程より更に真っ赤に火照った顔を両手で覆って、その場に勢いよくしゃがみ込んでしまった。



「お、おい!?大丈夫か!?」
「大丈夫な訳ないでしょー!あああああもう穴があったら埋まりたいってまさに今この瞬間のことよ、一君のバカああああ!!……さっきだって、いきなりキスしてくるし!そりゃすぐに抵抗しなかった私も悪いんだけど……でも久しぶりに会えたら一君ったらなんかまた一段とカッコ良くなったわとか思ったらうっかり見とれちゃったんだもの!そりゃキスされて嬉しくなかったって言ったら嘘になるけど、でもやっぱり場所とか考えたら私が断固止めなくちゃいけなかったのに、ホントもう私もバカバカバカ!」
「…………」
「…………」
「……なんというか、見事なダダ漏れっぷりだな」
「……聞かなかったことにしてやってくれ」



一にはすっかりお馴染みのの大暴走に、どうしていいものかわからず固まっている真奈美の横で、千聖と一がそんなやりとりを交わす。
恋人の恩師の心情を慮ってか、千聖は何も言わず頷いてそれ以上は何も言わなかった。
教え子の気遣いに感謝しつつも、その後ののフォローについて、一はしばし頭を悩ませることになった。










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