マンションに帰り着き、慧はいつもと同じようにバッグのポケットを探った。人気のないエントランスにチャリチャリと金属音が響く。 取り出したキーホルダーは二人で暮らし始めた時にから贈られたもので、革製のシンプルなデザインが気に入っている。後日、同じデザインで色違いのものを慧からも贈り返した。 ペアのマグカップだの、揃いのパジャマだの、あからさまに恋人同士ということを誇示するような揃いの品など、かつては馬鹿らしくて使う気になどなれないと思っていたが、実際に自分と同じものを使っている相手を見ていると感じる、何とも言えないこそばゆさと心の浮き立つような感覚はなかなか悪くなかった。 キーホルダーに下がる鍵の中から一番小さなものを選び出し、郵便受けを開けて中を覗く。の帰宅はまだのようで、朝にはなかったいくつかの郵便物が放り込まれていた。 部屋に向かう道すがら、届いたものをざっと検分する。季節柄か、宛の葉書にはバーゲンセールを知らせるダイレクトメールが多い。 そう言えば、次の休みに南先生と風門寺先生と買い物に行ってくるとか言っていたなと思い出しながら、次の封筒の宛名を確認すると『方丈慧様』と書かれていた。 見覚えのある柔らかで整った筆跡は実家の母のものだ。 いつも用事があれば電話してくるのに、何故わざわざ手紙を送ってきたのか不思議に思いながら、慧は郵便物を小脇に挟んで鍵を開け、誰もいない部屋に向かって律儀に「ただいま」を呟いた。 郵便物をダイニングテーブルの上に置くと、慧はこまごまとした雑事を片付けに掛かった。 ざっと掃除機をかけ、洗濯物を取り込んで自分の物は畳んでクローゼットにしまう。水切り籠の中の乾いた食器も棚に戻し、ケトルに水を張って火に掛けてから、慣れない手つきで米を計って研ぐ。 実家にいた頃はほぼ母親任せだった家事も、と暮らし始めてからある程度は自分でこなせるようになった。とは言え、流石に得意な学業や運動のように難なく、という訳にはいかず、家事一般の得意なに頼りがちなことは否めないが。 炊飯器のスイッチを入れたところで、携帯が鳴った。 からの帰宅を知らせるメールだ。知らせてきた現在位置からなら、三十分もすれば家に着くだろう。 あとは帰ってきたに任せることにして、慧はに返信メールを送ってからコーヒーを淹れてキッチンを離れ、テーブルに放り出したままだった郵便物の整理を始めた。 宛の物と自分宛の物を選り分け、の分はまとめてテーブルの端に置いておき、自分の分は内容を確認して要らないものはシュレッダーにかけてしまう。 最後に、母からの封筒だけが残った。 大きめの茶封筒で大して厚みはない。鋏で封を切り、中身を引っ張り出すと、一枚の便箋と往復葉書が出てきた。 便箋の方にはやはり母の筆跡で、実家に慧宛の郵便物が届いていたので転送する旨と、実家の近況が簡潔に記されており、最後は慧との身体を気遣う一文で締め括られている。 慧個人に宛てて手紙を送ってくるような親しい知人には、引っ越した時点で今の住所を知らせてあるので、実家に送ってこられるものなど、ダイレクトメールくらいしか思いつかない。 何気なく葉書を手にとって裏返し、そこに記載された文面に軽く目を通したところで、唐突に鳴り響いた玄関のインターフォンが来客を知らせた。 「……那智、三度も四度もインターフォンを鳴らすな、何事かと思うだろう」 「ごめんごめん、ちょーっと急いでたからさあ。上がっていい?って言うかもう上がっちゃったけど。お邪魔しまーす」 「おい、那智?」 何の前触れもなしに訪れた那智は、いつもと同じ屈託のない笑顔を浮かべながら、玄関に迎えに出た慧と壁の間に半ば強引に身体を捩じ込ませるようにして上がり込んだ。 かなりマイペースな性格ではあるが、最低限の礼儀は弁えている弟らしからぬその態度に面食らいつつ、後を追いかける。 先程まで慧がコーヒーを飲んでいたテーブルの傍らで、那智は笑顔から一転して苦虫を噛み潰したような表情で広げたままだった郵便物を睨みつけていた。 その視線の先に母親が送って寄こした葉書があることに気づいて、慧は何となくだが那智の訪問の意図が読めて苦笑した。 微かに零れた笑い声に敏感に反応して、那智がむっと唇を尖らせる。 「何笑ってんのさ、慧」 「いや、余計な心配をかけたようだからな」 「……俺が直接持ってくから送らなくていいって言ったのに、母さんってば余計なことして」 「内容が内容だけに、早く届けた方がいいと気を遣ってくれたんだろう。……とりあえず座って落ち着け。ちょうどコーヒーを淹れたばかりなんだ、飲むだろう?」 笑顔で促され、まだむくれたままの那智が渋々といった感じで椅子の一つに腰掛ける。慧はキッチンのダッシュボードから取り出したマグカップにコーヒーを注いで那智の前に置き、自分も先程まで座っていた席に腰を下ろした。 無言でコーヒーに口を付けた那智がカップに口を付けるのを見てから、慧も自分の分のカップを取り上げた。しばらく互いに無言でカップの中身を減らすことに専念する。慧のコーヒーが半分ほどに減った頃、那智はやっと少し表情に余裕を取り戻した。 マグカップを持ったまま、両肘をテーブルの上について、那智が慧の方へと軽く身を乗り出す。 「―――行かないよな」 「これか?」 那智の投げかけた疑問符に、テーブルの上に置いたままだった葉書を持ち上げてひらりと閃かせる。 二つ折りの往復葉書。その往信面には『3年A組同窓会のお知らせ』と書かれていた。 椅子から腰を浮かせた那智が、忌々しげな表情で慧の手から葉書をひったくり、そのまま真っ二つに破り捨てようとした。慧が間一髪でその手から葉書を取り戻すと、那智は噛みつかんばかりの勢いで口を開いた。 「慧!」 「これは僕宛の手紙だろうが。破きたければ自分宛に来た物でやれ」 「そんなもん、もうとっくにシュレッダーにかけてゴミ箱に放り込んだよ!て言うか、まさか慧、行く気じゃないよね?」 「予定が空けば参加するつもりだが」 さらりと告げられた言葉が信じられないというように、那智が目を見張る。 「わざわざ嫌な思いしに行く必要ないだろ!」 「決めるのは僕だ」 「あんな目にあっといて、今更気持ち良く思い出話なんか出来るのかよ」 低く押し殺した声で問い掛けられ、慧が一瞬言葉に詰まった時、玄関でインターフォンが鳴り、次いでガチャガチャと鍵を開ける音が響いた。 「ただいまー。あれ、お客様?」 「……ああ、お帰り、」 夕飯の材料らしき買い物袋を提げて姿を見せたは、テーブル越しに慧を睨みつけている那智に驚いて目を丸くする。 「那智君?あの、いらっしゃい、どうしたの、怖い顔して」 「……ちょっとね。せんせい、お帰り。いきなりお邪魔しちゃってごめんねー」 「いいわよ、那智君だもの。まだお話途中なんでしょ?私は夕飯の支度するからゆっくりしてて。もしよかったら食べていかない?」 「あ、嬉しいんだけど、今日は母さんに夕飯には帰るって言っちゃったからさ。また今度食べさせて?」 「そっか。じゃ私、ちょっと失礼して着替えてくるね」 二人の間にわだかまる空気に何か感じるところがあったのか、はそれ以上突っ込んで聞くことはせず、さっさと奥の部屋へ入ってしまった。 また二人きりになり、重い沈黙が満ちる。 どさりと椅子に腰を下ろし、那智が苛立たしげに口を開いた。 「……ホント、慧って頑固だよな」 「悪かったな」 「言っとくけど、俺は絶対行かないよ。例え慧の為だって絶対行かない。もう二度と顔合わせたくないからね、あんな低レベルな奴ら」 「お前を無理に付き合わせるつもりはない。そもそも、お前はもう葉書を破棄してしまったんだろう?参加表明しようにも出来ないだろう」 「……そうだね」 はあー、と大仰に溜息をついて、那智はカップに残っていたコーヒーを飲み干して立ち上がる。 「……じゃ、帰る」 「お父さんとお母さんによろしく伝えてくれ。また近いうちにと一緒に顔を見せに行くからと」 「はいはーい」 「……心配掛けてすまない。わざわざ来てくれてありがとう、那智」 「…………」 最後の言葉には応えず、慧に背を向けたままで那智はさっさと靴を履くと、ドアノブに手を掛ける。 流石にそう簡単に怒りは解けないかと小さく息をついた慧の耳に、ドアの外へ一歩踏み出すのと同時にぼそりと早口で呟く声が届いた。 「出来るだけ、タマ吉と一緒にいろよな」 「……ああ」 扉が静かに閉じ、那智の背中が視界から消える。 もう見えないその背中に向かって、慧はもう一度小さくありがとう、と呟いてから鍵を閉めた。 戸締りを終えて室内に戻ると、部屋着に着替えたがちょうど奥から出てきた。 「あれ、那智君帰っちゃったの?」 「ああ」 「そっか。久し振りだったから、私ももう少しお話したかったなあ」 「近い内にまた実家に顔を出すと言っておいた」 「じゃあ、その時に話せるかな」 にこりと笑ったは買ってきた食材をてきぱきと片付け、夕飯の支度に取り掛かる。 空になった二つのカップを手にキッチンに入った慧は、カップをシンクに置いて少し逡巡した後、背後からを抱きしめた。 突然の抱擁に動じることもなく、は肩越しに回された慧の腕にそっと自分の手を重ねた。宥めるように、落ち着かせるように、ゆったりしたテンポでぽん、ぽん、と優しく叩く。 ふわふわした柔らかい髪に頬を埋めて、じっと目を閉じていると、囁くように名前を呼ばれた。 「何かあった?」 「……葉書が、来たんだ」 「葉書?」 「クラスAの同窓会を開催すると」 「……そっかあ」 ぽつりと呟いたの声は変わらず優しい。 かつて同じクラスAに在籍していて、卒業後も連絡を取り合っている、親しい友人と呼べる人物は、小宮山珠紀一人だけだ。そのことはも知っている。 卒業を目前に控えて起こったあの事件がきっかけで、それまで信じていたたくさんのものが崩れ去った。 同じ教室で切磋琢磨し合い、同じ正しい価値観を持ち、揺るぎない信頼で結ばれていると思っていたクラスメイト達は、上から示されたものを鵜呑みにして、慧のことも那智のことも信じてはくれなかった。 容赦なく投げかけられた、たくさんの心ない言葉。 悪意と嘲笑の渦の中で打ちのめされて、それまで信じていた美しく正しい世界は粉々に砕けた。 「―――生徒総会で誤解が解けた後、皆謝ってくれた」 「うん」 「でも、もう以前のように彼らと付き合っていけるとはどうしても思えなかった」 「……うん」 あの時の心を凍てつかせるような悪意が、彼らを構成する全てだとは思わない。けれど、あの悪意をなかったことにはとても出来なかった。 「彼らは、僕という人間を、那智という人間を、ちゃんと見てくれていた訳ではなかった」 見ていたのは上辺だけ。学業が優秀で、理事長からも信頼されていた優等生という、慧の表面。 それはとても哀しいことだった。 ―――けれど。 「そんな人間ばかりじゃないということも、あの時知った」 「うん」 信じてくれると思っていた人が誰も信じてくれない、どれほど言葉を尽くしても、全て否定される。そんな中たった一人でもがいていた慧に手を差し伸べてくれたのは、と、そして散々馬鹿だ阿呆だと見下し、反目し合ってきたはずのA4たちだった。 今まで見てきた慧を丸ごと受け入れて、ただ真っ直ぐに信じて、傍にいてくれた。 「あの時、成宮たちや斑目先生たち、そしてが僕と那智を信じてくれたから、僕は救われた」 そっと抱きしめる腕に力を込める。 腕の中にすっぽりと包みこめてしまう、年上とは思えないほど小柄で華奢な恋人。でもあの頃、守られていたのはいつだって慧の方だったのだ。 頑なで偏った価値観に囚われていた慧に、新たな世界を広げて見せてくれた。どれほど愚かな真似をしても見捨てずに、一緒に進んでいこうと道を示してくれた。 信じていたものが信じられなくなって、たくさんのものが手のひらから零れ落ちたけれど、それ以上にたくさんのものをが手のひらに乗せてくれた。 だから、慧は絶望することなく、歩み続けられたのだ。 「貴方が僕の世界を広げてくれたんだ。感謝している、とても」 「そんな風に言ってもらえて、嬉しいよ」 照れくさそうに笑うをもう一度ぎゅっと抱きしめてから、慧は迷いのない口調できっぱりと告げた。 「同窓会には、参加する」 「そっか」 「僕にはがいて、那智がいて、成宮たちも、吾妻や小宮山たちのような友人もいる。だから大丈夫だ」 「うん、そうだね」 抱きしめていた手を離すと、がくるりと身体を反転させて、慧の眼を覗き込んできた。ややしてにっこりと笑うと、小さな手を伸ばして慧の頬に触れ、背伸びをする。その意図するところを理解して腰を屈めると、唇の端を掠めるように優しいキスが贈られた。 「さてと、夕飯作らなくちゃね!」 「何か手伝うことはあるか?」 「んー、今日は大丈夫。テーブルの上を片付けといてもらえると嬉しいな」 「わかった」 またもくるりと身体を反転させて調理台に向き直ったに背を向けてキッチンを出ると、慧はテーブルの上に散らばったままだった郵便物をまとめて片付けた。 そして最後に、同窓会の往復葉書を広げてペンを手に取ると、迷いのない手つきで『参加』の二文字を綺麗な丸で囲んで、満足そうに微笑んだのだった。 [091101 Project P.P. にて初出 / 120217 一部修正・加筆の上、再公開] |