「おーい、先生!」 窓の外で響いた声に、ふと立ち止まって見下ろした校庭の一角。 緑色が鮮やかな芝生のコートで、笑って手を振る草薙一の姿を見つけ、鳳は微かに目を細めた。 少しだけ視線をずらすと、視界に一が手を振っている相手が映る。秋色のスーツ姿でコートの外に立っている、華奢な人影。吹き過ぎた風に明るい色の髪が揺れて、隠れていた表情を露にした。 実年齢よりも少し幼く見える顔に、蕩けそうに甘い笑みが浮かぶ。無意識に浮かべているのだろうその表情に、鳳は胸の奥に細い針を突き刺したような小さな痛みを覚えた。 駆け寄ってきた一を見上げて、は淡紅色の唇を開く。言葉を交わし、視線を交して、同時に笑う。 何を話しているのかは聞こえなかったが、会話の内容などどうでも良かった。鳳の心を揺さぶるのは、二人が浮かべるその表情。 (それは恋人に向ける表情だよ―――) 自分が見ていることを知らず、別の男と笑いあう恋人に、心の中で囁きかける。 一がに特別な感情を抱いていることは、もうずっと以前から知っていた。気づいていないのは、当のばかりだ。一がに向ける視線や呼び掛ける声に篭る熱は、何故彼女は気づかないのだろうと呆れてしまう程に、あからさまでわかりやすかった。 それに気づいていたから、鳳は先手を打ったのだ。 ストレートにぶつかっていくばかりの一に、一歩先んじることは簡単だった。年上の同僚と言う立場は、元教え子と言うそれよりも、『男』として意識させるのにずっと有利だったから。 隙を突いての心に踏み込んで、一から奪い取った。 彼女の自分を見る目が恋する女性のそれに変わるまで、然程の時間は掛からなかった。経験を武器に周到に仕掛けた恋は成就し、後は時間を掛けて、との未来を作り上げていくだけのはずだった。 ―――――― そのはず、だったのに。 が鳳の恋人になってからも、一は変わらなかった。頻繁に高等部に顔を出し、今までと変わらない熱を篭めて、の名前を呼び、笑いかける。 最初はその一途さと若さを微笑ましく思うだけの余裕が、鳳にはあった。けれどそれは最初のうちだけ。 少しずつ、の一を見る眼差しが変わっていく。 鳳にだけ向けられていたはずの、匂いたつような『女』の表情を、一に相対する時にも垣間見せるようになった。本人も、一も気づかない、けれど決してささやかとは言えない変化。 最初にそれに気づいた時、鳳は見なかったふりをした。一はまだ気づいていない。自身も、自分が一に対して抱く感情は、教師としての愛情だと思って疑っていない。自分さえ気づかないふりをしていれば、何も変わりはしない、このままと先に歩んでいける。 ―――例えそれが虚構の幸福でも。 そう思いながら、鳳はどうしても目を反らせなかった。 の変化と、そしてを見つめ続ける一の眼差しから。 がむしゃらに恋焦がれ、諦めなど知らないと言うように、ひたすらに追い求める一の姿は、どこか滑稽で……けれど、とても眩しくて、そして羨ましく思えた。 不器用な子供の恋を、どうして羨ましいと感じるのか。 その答えに思い至った時、鳳はに別れを切り出すことを決めた。 「―――晃司さん!」 待ち合わせはいつもの店のいつもの席。 鳳が来たことに気づいて、先に来ていたが小さく手を振って呼び掛ける。 昼間見掛けた時と同じ、秋色のツーピース。二人で買い物に出掛けた時、鳳が選んだ色だ。自分では選ばない色だから、と戸惑うに、大丈夫似合うよと告げたら、晃司さんがそう言ってくれるなら、と笑い返してくれた。心の底から愛しいと思った笑顔。 が向けてくれた愛情が偽物だったとは、鳳は今でも思わない。 ただ、自分に向けられるそれ以上に大きくて深いものが、彼女の中に育ってしまっただけだと。 わかっているから、その一言を口にした。 「―――別れよう」 会計を済ませ、一人きりで店を出て、夕闇の中を歩き出す。 静かなカフェテリアの片隅で、どんなふうに会話を終わらせたかはよく覚えていなかった。 覚えているのは、テーブルの上に零れた雫が、とても綺麗だったことだけ。 今頃、あの店に呼び出しておいた一が、を見つけて慰めているだろう。そう考えた時、鳳の口元に意図せず、淋しげな微笑みが浮かんだ。 がむしゃらに、ひたむきに恋を追う一を羨ましいと、勝てないと思ってしまったのは。 自分がもう、それを失ってしまったことに気づいたから。 を失うことを恐れはしても、感情の赴くまま、みっともなくしがみつくことは出来なかった。それが出来るだけのがむしゃらさも、一途さも、ひたむきさも、失ってしまった。 だから、が一への想いに気づく前に、偽りの幸福に踏み込んでしまう前に、自ら切り捨てた。 弱くて情けない自分を、知られたくはなかったから。 ――――――彼女と共に永遠を紡いでいきたいと思った心は、決して嘘ではなかったのに。 [070704] |