酒に酔うのも月に酔うのも良いけれど。 「おっと、先生」 「えっ?あ、鳳先生、衣笠先生」 今まさに会いに行くところだった相手が視界を過ぎり、鳳が慌てて声を掛けると、早足で行き過ぎようとしていたはびっくりしたように振り返った。 有名温泉地の旅館にいるというのに、鳳たちもも普段と変わらないスーツ姿である。一部教師のみ参加の今回の一泊旅行、実質は慰安旅行なのだが一応建前で研修と称している為、あまり砕けた装いは出来なかったのだ。 だが、学外にいる解放感と気楽さからか、服装はいつも通りでもの表情はいつもより数段朗らかでリラックスしているように思われた。 呼び掛けに対して首をひょこんと横に傾げる仕草は子供っぽくも可愛らしく、一瞬声を掛けたことを忘れて和んでしまった鳳の横で、衣笠がくすりと小さく笑う。 それを見たは怪訝な面持ちでさっきとは反対方向に首を傾げた。 「?あの、何か」 「いえいえ、先生は本当に可愛らしい方だなぁと思って。ねぇ、鳳君」 「ええ」 「……えっと、それで鳳先生、何かご用ですか?」 「ああ、悪かったね、こちらから声を掛けておいて」 実は、と先程仲居から仕入れた話をすると、ぱっとの顔が輝いた。 「本当ですか?」 「最近は割とよくあるサービスだけど、この旅館は種類を豊富に取り揃えているそうだから、選ぶだけでも楽しいんじゃないかな」 「そうですね!じゃあ、他の先生方にもお声掛けてみます。フロントでお願いすればいいのかしら」 「部屋から内線でお願いしても大丈夫だそうだよ」 「ありがとうございます!それじゃ、失礼します!」 はしゃいだ声の挨拶と共に勢いよく頭を下げてから、はぱたぱたとスリッパの音も軽やかに走り去った。 遠ざかる足音に耳を澄ませていると、再び隣りで衣笠がくすくすと笑って口を開く。 「鳳君、随分と表情が緩んでますよ」 「ああも予想通りの反応を返されてしまいますとね。……本当に可愛い人だ」 「全くです。さて、葛城君がヒートアップするのは目に見えていますし、対策を強化しませんとね」 「そうですね。面倒ですが、穏やかで楽しい夕べの為と思えば苦ではない……かな」 窓の外に広がる景色に目をやりながら、鳳はふうとひとつ溜息をついた。こんなところまで来て、という気持ちはないでもないが、こればかりは致し方ないと腹を括る。 それに下手に暴走させて、万が一旅館の備品や調度を壊されでもしたら、校長と学年主任の頭髪に更なる打撃を与えかねない。そうなると後日その余波というか、八つ当たりの対象にされるのはなのだ。彼女の負担になるものを面倒の一言で放り出す訳にはいかない。 そんな鳳の思考を読んだかのように、衣笠はにっこりと柔らかな笑みを浮かべて言い切った。 「では、ひと風呂浴びる前に済ませてしまいましょうか」 見事な景観の露天風呂を満喫して、仲居に案内された広間に入ると、一足先に来ていた真田が笑って手を振った。 小さな子供のようなそのはしゃぎっぷりに、傍らの二階堂が眉間に皺を寄せて溜息をつく。 「あっ、衣笠先生、鳳先生、九影さーん!」 「やあ、女性陣はまだかな?」 「ええ。ですので、鍋の用意は少し待っていただきました。……真田先生、いい加減に落ち着きなさい。中身が入っていなかったからいいようなものの……」 鳳の問い掛けに答えつつ、勢い余ってグラスを倒した後輩に説教を始めた二階堂と叱られてしょぼくれる真田、といういつもの光景に苦笑しながら適当に席に着いた。一緒に来た衣笠と九影も思い思いの位置に腰を下ろし、女性陣が来るまで雑談に興じる。 少人数の宴会用らしき広間は、こじんまりとして居心地が良かった。外に面した硝子戸の向こうに広がっている日本庭園を何とはなしに眺めていると、膳の支度を整えていた仲居がそれに気づいてにこやかに言葉を発した。 「あの庭園は当旅館の目玉の一つでございますの」 「そうですか、立派な造りですね。食事の後にゆっくり夕涼みでもさせていただこうかな」 「下駄も用意してありますので、そちらから直接お出になれますよ」 控え目に庭園の見所を語る仲居の言葉に相槌を打っていると、やがて複数の軽やかな足音が聞こえてきて、女性教諭たちが次々と広間に姿を現した。お待たせしました、遅くなってごめんなさい、という彼女たちの声に被さって、真田の素っ頓狂な声が広間に響く。 「えっ、何で先生たちの浴衣、みんな違うの?」 揃いの浴衣姿の男性陣と違い、彼女たちの着ている浴衣はそれぞれ違う意匠だった。色柄も様々でどこにでもあるような旅館の浴衣と違って凝ったものばかりだ。好きな浴衣を選べるサービスなんですって、と一番年配の女性教諭が説明した。 「へぇーそんなサービスがあるんだ」 「鳳先生と衣笠先生が仲居さんから聞いて教えて下さったんですってね。おかげで楽しかったわ」 「それは良かった。我々もお教えした甲斐がありましたよ」 「ふふ、ご一緒する女性が美しく装って下さるのは、僕たちもしても嬉しいことですからね」 「同感だぜキヌさん。宴会で場が華やかなのはいいこった。なあ二階堂」 「そうですね」 見目麗しい同僚たちの賞賛の言葉に、女性陣は嬉しそうに笑いながら次々に空いた席に腰を下ろす。最後に広間に入ってきたは、ちょうど鳳の正面に座る形になった。 他の女性教諭と同様に浴衣姿のは、その華やかな出で立ちとは裏腹に何故か少し疲れた顔をしていた。 どう声を掛けようかと迷っていたところにタイミング良く栓を抜いたビールが回ってきた。鳳がの前に瓶を傾けると、慌てた様子で手が伸びる。 「あっ、鳳先生、私がお注ぎしますから!」 「うん、お願いするよ。でもその前に先生の分を注いでしまおうか。グラスを持ってくれるかな?」 「す、すいません……」 申し訳なさそうに項垂れたの手にグラスを手渡し、ゆっくりと冷えたビールを注ぐ。白い泡が零れるギリギリ手前のラインで程良く盛り上がり、はふわりと微笑んでありがとうございます、と呟いた。 少し軽くなった瓶を手渡し、自分のグラスにも注いでもらいながら何気なく話を切り出す。 「ところで、何だか少し疲れているようだけれど、大丈夫かな?」 「あ、すいません、ちょっと……」 「何かあったのかい?」 「えっと……私の浴衣を選ぶのに、他の先生方がすごく張り切って下さって。今着ているのに決まるまで何着も着付けていただいたものですから、それで……」 予想だにしなかった理由に、鳳は思わず笑ってしまった。 今回の研修旅行に随行した女性教諭は皆よりも年長で、一番年の若いを良くも悪くも可愛がっている人ばかりだ。着せ替え人形にして遊んだのも、先輩教諭たちにしてみれば愛情表現の一つなのだろう。旅先ということで、浮かれてつい羽目を外してやりすぎたというところか。 今身につけている、瑠璃色と白の格子地に花柄の浴衣に目を落とし、そこに至るまでのあれこれを思い出したのか、小さく溜息をついたの表情があまりに可愛らしくて、鳳は再び吹き出した。 流石に二度も笑われてカチンときたのか、むぅっと唇を尖らせたにテーブル越しに睨まれてしまう。そんな顔もまた可愛いのだから堪らない。 「鳳先生、ひどいです」 「ははは、いや、すまない。そうか、それでね、ふふふふ」 「笑いすぎですよ、もう!」 「え、何々どうしたの?」 「何でもありませんっ」 興味津々で身を乗り出してきた真田が、キッと睨まれて訳も分からずたじろぐ。その様子がおかしくて、鳳の笑いはますます止まらなくなった。 全員のグラスが満たされたのを確認して、乾杯の音頭をとる為に衣笠が軽く腰を浮かせたのを視界の端に認め、何とか笑い声を抑え込む。 その時、拗ねた表情のままグラスを手に持ったが、何かに気がついたようにきょろきょろと視線を彷徨わせた。その様子に気づいた衣笠に笑顔で何か?と問い掛けられて、遠慮がちに口を開いた。 「あの、そういえば葛城先生は……?」 「葛城君ですか?彼はお風呂ではしゃぎ過ぎて逆上せてしまいましてね、仲居さんに早目にお布団を敷いていただいて先に寝かせてきたんですよ」 「あらまあ、大丈夫かしらね?」 「ええ、しっかり休めば問題ないと思いますよ。食事もちゃんと別に用意していただけるようにお願いしましたから、先生も気にせずにお食事を楽しみましょう、ね?」 「……はぁ、そう、ですか……」 「はい。では、皆さんお疲れ様でした。かんぱーい」 駄目押しとばかりに頷いて見せた衣笠の音頭に唱和して全員が次々にグラスを掲げ、広間は俄かに活気づいた。 料理の皿がすっかり空になり、用意された酒瓶の大半が空いた頃には、席の位置はすっかり入れ替わっていた。 呑み過ぎて絡み酒に移行した真田を二階堂と一緒にいなしていた鳳がふと気づいて部屋を見回すと、先程まで他の女性教諭たちと一緒に飲んでいたの姿がない。 よくよく見ると、庭に繋がる硝子戸が僅かに開いていて、目を凝らすと灯籠に照らされた庭の片隅に見覚えのある瑠璃色と白が見え隠れした。 泣き上戸が入ってさらに性質が悪くなった真田を二階堂に押し付け、下駄を突っ掛けて庭に出る。 他の部屋でも宴会が行われているようで、それらの部屋から漏れる光と随所に配置された灯籠の灯りで、庭は危なげなく歩ける程度には明るい。 並べられた飛石に沿って奥へ歩みを進めると、程なくして小さな湧泉の傍らに建てられた東屋に辿り着いた。 小さな釣り灯籠がゆらゆらと揺れて、薄暗い東屋の床に淡い影模様を作り出す。竹細工の腰掛に座ってぼんやりと庭を眺めていたが、鳳の下駄の音に気付いて振り向いた。 「鳳先生」 「いつの間にか姿が見えなくなっていたので心配したよ」 「すいません。ちょっと顔が火照ってきたので涼んでこようと思って」 「飲み過ぎた?」 「いえ、そんなことはないんですけど」 そう言って立ち上がったは、その可愛らしい外見に反してザルどころか輪っかレベルの酒豪なだけあり、足取りはしっかりしていた。 東屋から出て、下駄をからころと響かせて湧泉に掛けられた石橋の中央まで歩いて足を止める。首から上だけで鳳を振り向き、その顔を綻ばせた。 「ここ、とってもいい風が吹いてて気持ちいいです」 「ああ、今の季節の水辺は程よく涼しくていいね」 「そうですね。……うわぁ、すごい」 首の向きを元に戻したが、感嘆の声を上げて今度は空を仰いだ。つられて藍色の空を見上げると、満天の星空の中、白銀色の大きな満月が白々と光っている。その見事さに魅入られはしたものの、それ以上に月光を全身に受け止めて心地好さげに眼を細めるの姿に、自然と視線が吸い寄せられた。 「綺麗ですね!」 「そうだね。空気が澄んでいるからかな、星もよく見える」 「都内じゃこんな見事な星空見れませんよね」 うっとりとしたその呟きは風が梢を揺らす音に紛れ、静謐な空気に溶けて消える。 緩やかなカーブを描く浴衣の襟ぐりから覗く項は、清かな月の光を受けて透けるように白く、日頃の可愛らしい雰囲気とは打って変わってひどく艶めかしい。 直視し過ぎると目の毒だな、と目を逸らしつつ密かに苦笑混じりの溜息を零した時、少し強く吹いた風に驚いたの小さな悲鳴が、離れかけていた鳳の視線を引き戻した。その視線の先で、緩く結い上げていたの髪が一筋、透き通るように白い頬にはらりとかかる。細い指がゆっくりと動いて髪を掬い上げる様に、不意に胸がざわめいた。 一度は逸らせた視線が、二度目は逸らすことが出来ない。 「―――鳳先生?」 少し戸惑ったような声に、はっと我に返る。 いつの間にかすぐ傍まで来ていたが、上目使いに気遣うような視線を投げ掛けていた。 いつもならば『先生が綺麗で思わず見惚れてしまって』とか、そんな言葉の一つも口にするところなのだが、今回に限って何故か上手く言葉が出てこない。 尚も心配そうな顔のに、曖昧に笑ってみせて誤魔化した。 「酔いが回ってきた所為で、少しぼんやりしてしまったみたいだ。それだけだよ、大丈夫」 「本当に?平気ですか?」 「本当に大丈夫。そろそろ部屋に戻ろうか」 「……はい」 笑顔で促すと、一応素直に頷いて歩き出したものの、ちらちらと横目で様子を窺ってくる。心配してくれるのは嬉しいがどうにも危なっかしいな、と思った矢先、案の定は飛石の一つに躓いて勢いよくつんのめった。 「きゃー!」 「おっと……!」 「すっ、すいませんっ」 鳳が伸ばした腕にすがりついたが姿勢を立て直すのに手を貸そうと、空いている方の手も伸ばした、その時。 「こ・ね・こ・ちゃああぁぁぁぁん!」 「きゃあぁぁっ!」 嫌という程聞き覚えのある叫び声と共に、声同様憶えのありすぎる人物が庭園の薄暗がりから飛び出してきた。反射的に叫んだの肩をがっしりと掴んで、ものすごい勢いで捲し立てる葛城の剣幕に、流石の鳳も呆気にとられる。 「やっと見つけたよマイハニー!聞いてくれよ、ひどいんだぜ鳳様たちってば!俺何もしてないのに、いきなり布団で簀巻きにして押し入れに詰め込んだんだぜー!週末恒例のお馬さんたちとのデートを諦めて研修参加したイイ子の銀ちゃんに何このヒドイ仕打ち!オマケに宴会のご馳走は食べ損ねるしお布団敷きに来た仲居さんには絶叫されるしで、んもうブロークンマイハァァァットッ!」 「かっ葛城先生っ、重たっ……」 「そりゃあもう、俺の子猫ちゃんへの愛は重量級だからネ!って、なーに何々、どしたのそんなかンわいい浴衣着ちゃって!ハッ、そうか、俺の為にわざわざ用意して……よっし、子猫ちゃんの期待に応えて早速真夜中のランデヴーにレッツゴ……うっ!」 「いい加減にしないか、この歩く騒音公害!」 出遅れたもののこれ以上の暴走は許す訳にいかないと、鳳は渾身の力で拳を落として黙らせた。 その手で今度は庇うようにを抱き寄せると、腕の中のは困ったような顔で、鳳と頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ葛城とを交互に見比べた。 「まったく……大丈夫かい、先生?」 「は、はい……っていうか、葛城先生はお風呂で逆上せて寝てたっていうのは、もしかして嘘だったんですか……?」 「先生の浴衣姿を見たら暴走するのは目に見えていたのでね、先手を打っておいたんだよ。だけどそうか、仲居さんがね……閉じ込める場所を間違えたな」 「…………」 問題はそこじゃないと思うんですが、と小さく呟いたは、そこでやっと自分が鳳の腕の中にいることを思い出したらしく、一気にその顔が真っ赤に染まる。その様子はもうすっかりいつも通りので、先刻の艶やかな風情は完全に鳴りを潜めてしまっていた。 そのことにほっとする反面、少し残念にも思っている自分に気づいて心の中で苦笑しながら、一瞬、手を離したくないと思った気持ちも綺麗に押し隠してを解放する。 「さて、改めて部屋に戻ろうか」 「え、あの、でも、葛城先生は」 「ああんさすが子猫ちゃん優しい!鳳様とは大違いッ」 「何の生産性もない君を居候させてあげている私が優しくないとは心外だな。放置しておきたいところだけど、旅館側に迷惑がかかるから仕方ない、一緒に来なさい。部屋に戻れば九影先生たちもいるし、連れて行った方がまだ安心だろう」 いつの間にか復活して纏わりついてくる葛城をじろりと睨みつけると、気持ち悪い猫撫で声がそれに応えた。 「鳳様ー鳳様ー、銀ちゃん盛大に腹の虫が鳴いてるんですけどもぉー」 「部屋に戻れば鍋の残りで雑炊くらいは出来るんじゃないかな?ところで葛城先生、念の為言っておくけれど、くれぐれも旅館の調度などを破壊しないように大人しくしていなさい。でないともう一度簀巻きにして、今度は山奥に捨てるからね」 「……あの、鳳様、何か目がマジなんスけど……」 学校にいる時と変わらないやりとりに、が小さく吹き出す。騒ぐ葛城の声と違い、その笑い声はとても耳触りが良かった。 酒に酔うのも月に酔うのも悪くはないけれど、今はに酔うのが何よりも心地好い。 そんなふうに思いながら、鳳は静かに微笑んだ。 [090315 T6日誌 Volume.X にて初出 / 120217 一部修正・加筆の上、再公開] |