大切なものはいつの間にか。 「瑞希君?ホントに寝ちゃったの?」 頭上から響く声は甘く柔らかく、瑞希は微睡みながら、声の主に気づかれないように笑った。 返事がないことで眠ったと確定したのか、は瑞希の髪をそっと撫で始める。 ゆっくりと、一定のリズムで髪を撫でる手の動きがとても心地好い。時折、桜色の唇から零れ落ちる笑い含みの小さな吐息は、まるで子守唄のように優しく響いて鼓膜を震わせる。 瑞希の頬に寄り添うようにして眠るトゲーが、気持ち良さげにくるりと寝返りを打った。細く白い尻尾が鼻先を掠める、そのくすぐったさに笑い出しそうになるのを堪えることも楽しい。 こんなふうに誰かと過ごすことを心から幸せに思える日が来るなんて、少し前までは思いもしなかった。 砂糖菓子のようにふわふわと甘い幸福感に満たされながら、瑞希の意識はゆるゆると融けていった。 眠りの底から意識が引き戻されたのは、それからいくらも経たない頃。 靴底が床を擦る音に薄く瞼を開けると、霞む視界の中に見慣れたインナーの青が見えた。 眠っている間も休まずに髪を梳いてくれていたらしいの手が離れていく。背後の窓から差し込む弱い光がちらちらと揺れて、が足音の主を招き寄せていることがわかった。 さっきよりもはっきりしてきた視界の中で、足音の主――― 一が一歩踏み出して、そこで瑞希の視線に気づいた。咄嗟に口を開いて短い言葉を投げつける。 ―――来ちゃダメ 反射的に滑り出た言葉だった。 とトゲーと、三人だけの幸せな時間をもう少し楽しみたいという、ささやかな欲求が言わせた言葉。 けれど、には気づかれないように発したその言葉を受け止めた一が一瞬見せた表情は、瑞希の心に深く突き刺さった。 キッチンへ続く扉の向こうに一の背中が消える。極力音を立てないように扉が閉じられた後、一拍置いての手がまた瑞希の髪に触れた。先程までと変わらない優しい感触なのに、そこにさっきまでの心地好さを感じることは出来なくなっていた。 再び閉じた瞼の裏に、先程の一の表情がちらつく。はっきりと傷ついていた顔。 そんなつもりじゃなかった。心の中でそう言い訳してみても残影は消えず、穏やかな眠りに落ちることを許してはくれない。 目を覚ましたばかりを装っての膝から起き上がると、何も知らないは優しい笑顔で「おはよう、一君がお茶を淹れてくれてるわよ」と告げた。悪気のないその言葉が、またしても瑞希の心に刺さる。 あんなことを言った自分の為にお茶を淹れるなんてしてくれるはずがない。 無言で俯くと、が不思議そうに声を掛けてきた。 「瑞希君?」 「……手伝って、くる」 「ああ、そうね。じゃあ私も」 「先生は、いい。座ってて」 腰を上げようとするを静かに制して、キッチンの扉へゆっくりと近づく。 一に言わなければいけない言葉がある。でもがいるところで言えば、一を傷つけた嫌な自分を知られてしまう。身勝手だけれどそれだけは嫌だから、だからキッチンに一がいるうちに。 そう考えながらドアノブに手を伸ばして静かに扉を開いた途端、ドアの陰で小さな声が上がった。 「うおっ」 「……」 聞き慣れたその声にびくりと肩が揺れる。すぐ目の前で、両手に三つのカップを持った一が立っていて、瑞希を見上げていた。 一の手の中のカップは何度数えても三つある。どうして、と言う呟きは一の言葉にかき消された。 「なんだ、起きたのか、瑞希」 「……カップ、みっつ?」 「三つだろ。先生と俺とお前で三つ」 屈託ない笑みと共に胸元に押し付けられたカップは温かく、紅茶の優しい芳香が鼻をくすぐる。 二度目の『どうして』は今度こそ届いたようで、一は浮かべた笑みはそのままで聞き返してきた。 「何だよ、いらなかったか?」 「……もらう」 「んじゃ、自分の分は自分で持ってくれな。ほら」 瑞希がちゃんとカップを持ったことを確認してから手を離す、そういう気遣いもいつもの一と変わりなく、そのことがますます瑞希を困惑させた。 一はさっきのことを怒っていないのだろうか。だとしても、言ってしまった言葉が消える訳ではないのだから、言うべき言葉はきちんと言わなければ。ああ、でも自分は何と言うつもりだったんだっけ。 「……あとで、トゲー触っても、いい」 ぽつりと呟いた言葉は、元凶になった言葉と同じく、ほとんど無意識に滑り出た。 口に出してから唖然とする。なんて捻くれた台詞だろうか。言うべき言葉は謝罪の言葉なのに、言うに事欠いてトゲーに触っていいだなんて。 こちらを振り向いた一も驚いたような顔をして、けれど次の瞬間、小さく吹き出していた。 しかし、その笑い方は瑞希の言葉がツボに入ったという訳ではなさそうで、不思議に思って首を傾げていると、笑顔と共に一が小さく呟いた。 「そんな顔すんなって。別に怒ってねーからさ」 そんな顔とはどんな顔だろう、と考えている間に、一はさっさとの元へ行ってしまった。 一が差し出すカップを受け取って嬉しそうに笑うと、笑い返す一を交互に見つめながら、温かい紅茶にそっと口をつける。 喉を通り過ぎる熱が心の奥まで暖かくしてくれるような感覚は、が髪を撫でてくれた時の優しい感覚とどこか似ていた。 きっと永遠に手に入らないと思っていたもの。 いつの間にかそれが自分の手の中にあることに、今更のように気づいた。そんな午後。 [080701] |