もうとっくに恋なんかしていなかった。































「……ええっ?」



小さな叫び声が上がり、翼は傾けていたカップの縁越しに声の主へと視線を送った。
いつもはぴしりと伸びているスーツの背中は、今はちょっと丸まり気味だ。翼たち生徒に対する時とはまた違うくだけた言葉遣いから、携帯の通話相手はどうやら学生時代の友人らしいと当たりをつける。
手のひらで包み込むように持った携帯を耳元に押し当て、更には翼に聞こえにくいように声を小さくしているつもりのようだが、元々の声が高い所為で会話内容はほとんど筒抜けだった。
それでも本人が聞かれないようにしているのだからと、翼は出来得る限り聞こえてくる内容から気を反らせる為に、紅茶の味に集中した。
卒業後、に会う為に職員室や語学準備室へ足繁く通うようになってから、ティーバッグの紅茶にも随分慣れた。が自分の為に用意してくれたと思えば、それだけで極上の甘露にも勝る。
教師としてのを生徒として尊敬しているだけでは、こんなふうには思うまい。
さりとて、心の内に巣食ったへの感情を恋と決めつけるには違和感が感じられて断定出来ず、翼はもやもやとした思いを抱えたまま、もう一口紅茶をすすった。



「……変更って、こんなギリギリで?それでいつから?…………えっ!?」



僅かな沈黙の後、更にの声のトーンが跳ね上がった。
そのおかげで、聞くまいとしている翼の努力も空しく、声は否応なしに耳に飛び込んでくる。
どうやら会う約束をしていたのが、向こうの都合で予定が繰り上がってしまったらしい。その後、更に二言三言交わしてから、は通話を切って翼を振り返った。



「ごめんね、翼君。せっかく来てくれたのに悪いんだけど、私もう出なくちゃ」
「何か急用か?」
「えっと、今日の夜にね、友達と食事の約束をしてたんだけど、お店の予約が変更になっちゃって」
「それで、『もう出ないと間に合わない』か」
「やだ、聞いてたの?」
「聞こえたんだ。先生は声をひそめていたつもりかもしれんが、はっきり言って丸聞こえだったぞ」



言いながら腰を上げ、空にしたカップを作りつけのシンクへ片付ける。
せっかく会いに来たというのに、こんなにも早く一緒に過ごす時間が終わってしまうのは残念でならなかったが、友人と会うのを邪魔する訳にもいかない。
我ながら聞きわけが良くなったものだと心の内で苦笑しながら、翼はジャケットのポケットから車のキーを取り出しての目の前で軽く揺らして見せた。



「急ぐんだろう?ラッキーだったな、今日は車だから送ってやる」
「えっ……わ、悪いわよ、そんな。まだ時間もあるし大丈夫」
「そんな台詞は迷子にならなくなってから言え。いいからさっさと来い、荷物はこれだけだな?」
「ちょっと、翼君ってば!……もう、強引なんだから」



問答無用とばかりに言い放ち、机の横に置かれていたのバッグを取り上げて扉に向かう。
背後で観念したように小さなため息が響き、軽やかな足音が追いかけてくるのを聞きながら、翼は僅かながら傍にいられる時間が伸びた、そのささやかな幸せを噛みしめた。




















店まで送るという翼の申し出をやんわりと断って、は目的地の最寄り駅前で車を降りた。
何度も振り返っては翼に手を振り、その所為ですれ違う人とぶつかりかけたり、段差に引っ掛かって転びかけたりしながら、華奢な背中が遠ざかっていく。危なっかしいその姿が人混みに紛れて見えなくなるまで見送ってから、翼は運転席へ戻ってゆっくりと車を発車させた。
ロータリーをぐるりと回って駅前を抜け、大通りに出たところで信号に引っ掛かる。
目の前の横断歩道を横切っていく人々に何気なく視線を投げると、右から左へ横切っていく人の中に、先程別れたばかりのの横顔が見出された。
車を見て気づきはしないかと期待する翼に目もくれず、は真っ直ぐ前を見て走っていった。
ささやかな期待を裏切られて嘆息しつつ、まだ信号が赤なのをいいことにハンドルに凭れるように身体を預け、再びその背中を視線で追いかけた翼の表情が不意に強張った。

歩道を渡りきった先に瀟洒な雰囲気のバーがあり、そこの前にたむろっていた数人の男女が、に気づいてひらひらと手を振る。
笑顔で手を振り返し、そのグループへと小走りに駆けよったは、合流する直前にまたしても何かに足を引っ掛けて盛大に前方へつんのめった。
反射的にハンドルから上半身を起こした翼の目の前で、見知らぬ男がを抱き留める。その腕に縋りついたが、恥ずかしそうに笑って男を見上げたその瞬間、全身の血が沸騰した。



――――――笑うな、そんなふうに無防備に。

――――――笑いかけるな。触れさせるな。視線を送るな。

――――――俺以外の誰にも、そんな顔を見せるな……!







一気に脳内を埋め尽くした思考の波を断ち切ったのは、激しく鳴り響くクラクションの音。
気付けば信号は青く変わっていて、翼の苛立ちを煽るように後方の車が続けてクラクションを鳴らす。
煽られるままに発車させた車を、すぐさま歩道に寄せてブレーキを踏む。車が完全に止まるのを待たずにもどかしい手つきでシートベルトを外し、翼は車外へと飛び出した。勢いよく開けたドアがガードレールにぶつかって耳障りな金属音を響かせたが、頓着している余裕などない。
先程の店の前まで人混みを一気に駆け抜けると、目指す背中が視界に映る。
その隣にさっきの男が当然のように立っているのがひどく癇に障った。



言葉も行動も、無意識の内に表れた。






―――!」
「えっ……」



大きな歩幅で歩み寄り、呼び掛けた声に振り向きかけたその腕を掴んで引き寄せた。
バランスを崩して倒れ込む身体を強く抱きしめると、一拍置いて腕の中で驚き上擦った声が上がる。



「つ……翼君!?なっ何々々、どうしたの、ちょっと何で私翼君に抱きしめられてるのーっ!」
「来い」
「へぁっ!?」



お世辞にも可愛いとは言えない叫び声を発したの肩を抱いたまま、身を翻して元来た道を早足で歩き出す。唐突な状況に呆気にとられていたの友人たちが何事か声を上げていたが、今の翼には雑音にしか聞こえない。
車まで戻って、半ば強引に助手席にを押し込む。自分も運転席に腰を下ろすと、翼はシートベルトも締めずに車を発車させた。状況についていけずにされるがままのは、飛ぶように流れていく窓の外の景色をしばし呆然と眺めていたが、やがてゆっくりと翼の方に向き直った。
戸惑いに満ちたの視線を横顔に受けながら、真っ直ぐにフロントガラスの向こうを睨みつけてハンドルを切り、アクセルを踏む。駅近辺の繁華街を抜けてひたすらに走るうち、駅前についた時はまだ暮れかけだった空の色はすっかり夜の闇に覆われてしまった。
更に走っていくと、やがてどこかの河川敷の道に出た。通行人の影も他の車も進めば進むほど減っていく中、目に映る光はぽつぽつと点在する家々の灯りと道路沿いに一定間隔で並ぶ街灯、そして白々とした月の光だけ。
そのささやかな光が、苛立っていた翼の心をゆっくりと宥め鎮めていく。
ほとんど惰性でハンドルを握っていた翼の腕に、その時不意に何かが触れた。覚えのあるその感触に、自分でも驚くほど大きく肩が揺れる。
静かに、けれど底に確かな強さを秘めた声が鼓膜を打った。



「翼君」
「なんだ」
「何かあったの?駄目よ、こんな無茶なことしたら。事故になったりしたらどうするの」



生徒としての翼を慈しみ愛しみ、教師として心から心配して優しく宥め諭す、もう幾度となく聞いたことのある声音。いつもならば素直に心に染み入ってくるはずのそれは、やっと凪ぎ始めていた翼の心に新たな波紋を起こした。
考えるより先に、足がぐっとブレーキを踏む。いきなりのブレーキに驚いてシートに沈み込んだの驚愕に満ちた顔が間近に迫る。

一瞬、シートベルトを締めていなくてよかったな、としょうもない思考が頭の片隅を掠めた。






「……翼く……っ!」



ガクンと大きな揺れと共に、の声が途中で途切れる。
シートを倒し、諸共に後ろに倒れ込んだの上に覆い被さって唇を重ねた。
反射的に身を庇うように持ち上げたの手のひらが翼の肩に触れ、ジャケットをぎゅっと掴んだ。深く割り入って口腔内を犯してゆく口付けに、応えることこそしないが抵抗もしない。
僅かに唇が離れた瞬間、泣き声にも似た甘い吐息が漏れて、翼はやっとキスを中断した。
濡れて潤んだ眼差しが真っ直ぐに翼を見上げる。いきなりの行為を詰る色はそこにはなく、ただただ静かに『何故』と無言で問い掛けてきた。
そんな意識はなかったのに、絞り出した声は泣き出すのを堪えるかのように震えていた。



――――――お前が好きだ」



言葉にした瞬間、自分の中に渦巻く感情の意味を知る。
それはもう、恋なんて甘く綺麗なばかりのものではなかった。



「愛してる」



低い呟きと共に落とした、触れるだけのつもりだった二度目の口付けは、おもむろに背中に回されたの腕の所為で、最初よりも濃密さを増した。















[080715]