ほんの僅かなひとかけらでも私のものであるのならば、それだけで。































やたらとデコラティブな、しかしお世辞にも趣味がいいとは言い難いデザインのドアノブに手を掛けたところで、は眩暈に襲われて咄嗟に目を瞑った。
続いて下腹部に鈍い痛みが走る。月に一度必ずやってくる馴染み深いその感覚に辟易しつつ、ゆっくりと息を吐いてやり過ごそうとするが、痛みも眩暈も治まるどころかますます酷くなっていき、とうとう耐えきれずにはその場にへたり込んだ。
ランチの時に忘れた補習用のノートを取りにバカサイユに来たことを知っているのは、現在教室で渡したプリントと睨み合いの真っ最中であろう翼だけだ。しばらくすれば教室に戻って来ないことを訝しんで探しに来てくれるかもしれないが、生徒とは言えれっきとした異性に『生理痛』でぶっ倒れたところを見られるのは、流石に恥ずかしすぎてご免こうむりたい。
何よりそれ以上に、受験を間近に控えた一番大事なこの時期に、自分の所為で翼の貴重な時間を一秒たりとも無駄にさせたくはなかった。
だが、そうは思っても貧血を起こした身体は思い通りに動いてくれず、倒れた場所がバカサイユの前であることも災いして、助けを求められそうな人影も一向に見当たらない。目的のノートをどこに置いたかは覚えていたので、すぐに戻るのだからと携帯電話も教室に置いてきてしまった。
八方塞がりの状況に困り果てたところへ、不意に聞き慣れた声が響いた。



―――先生?どうかなさいましたか?」
「……な、がた、さん……?」
「はい」



鉛のように重たい瞼をのろのろと上げると、跪いてこちらを覗き込む永田と目が合った。
普段は淡々として感情の読みにくいその表情と声に、ほんの僅かだが驚きが滲む。が、それはすぐに探るような表情へと切り替わり、更に何か納得したようなものになった。
しかし、今のにその一連の変化を気にかける余裕などなかった。とりあえず最優先事項は翼への伝言だと、止まない痛みを堪えながら口を開きかけた、その時。



「失礼致します」
「え?」



短い呟きが耳元で聞こえ、同時に視界が大きく揺れた。背中と膝裏に触れたものが永田の手のひらだと貧血の所為で鈍った頭が理解した時には、の身体は完全に抱きかかえられて宙に浮いていた。
を抱えたまま、器用にバカサイユの扉を開いて中に踏み込んだ永田は、人一人を抱えているとは思えない素早さで広い邸内を突き進み、を今まで入ったことのないエリアへ連れていく。
見慣れない通路、その左右の壁にずらりと並ぶ扉の一つを開けて中に入ると、そこはクイーンサイズのベッドが二つ並べられたゲストルームらしき部屋だった。
されるがままだったを扉に近い方のベッドに静かに横たえると、永田は先程と全く同じ言葉を残して風のように姿を消した。バカサイユの玄関先からここに連れてこられるまで、2分とかかっていない。
目まぐるしい展開についていけず、は腹部に走る痛みを束の間忘れて、仰向けに横たわったままで首から上だけを動かして室内を見渡した。
落ち着いた雰囲気の部屋ではあるが、明らかに翼の趣味とわかる微妙なセンスの調度がそこかしこに置かれていたりして、確かにそこがバカサイユの中であることをに教えてくれる。
背中に感じるベッドのスプリングも、柔らかすぎず硬すぎず、流石の寝心地の良さだ。肌触りのいい枕やシーツからは仄かに石鹸の香りがして、緊張と痛みに強張っていた身体が解れた。
柔らかい羽毛枕に頭を沈ませて目を閉じ、浮かんだ考えを何気なく声に出す。



「……ここで休めってことなのかしら」
「左様でございます」
「……っ!」



唐突に響いた声に目を開くと、いつの間に戻ってきたのか、永田がベッド横に佇んでいた。その手には水差しとグラス、小さな箱の乗ったトレイと、何かを包んだタオルを持っている。
反射的に起き上がろうとしてまたしても眩暈と痛みにやられ、の後頭部は再び枕に沈んだ。サイドテーブルの上に静かにトレイとタオルの包みを置いて、自由になったスーツの腕がの手と背中を支えて起こしてくれる。情けなさと気恥ずかしさとで目を伏せたまま、が小さな声でお礼の言葉を呟くと、笑み含みの穏やかな声が返った。



「どうぞお気になさらずに。翼様には既に御連絡致しましたので、ご安心下さい」
「えっ、あの、いつの間に?」
「私も携帯電話は持っております、先生」
「そ、そうですよね……」
「急に御気分が悪くなられたようですとお伝えしたところ、お休みいただくように申しつけられました。先生が用意して下さったプリントを終わらせたら車でご自宅までお送りするので、それまでこちらでお待ち下さいとのことです」
「え、そんな、大丈夫です。少し休めば一人で帰」
「因みに、『具合が良くなったと言われても絶対一人では帰らせるな』との御命令も承っております」



穏やかな口調を微塵も変えずにの言葉をぶった切る。反論など一切聞く耳持たないと言わんばかりのにこやかな笑顔の壁は、今のの状態では到底突破出来そうにない。元から翼の命令が絶対優先されることもわかっている。抵抗を諦めて同意の印に頷くと、永田はベッド脇に跪いてテーブルの上のグラスと、例の箱から取り出した小さな包みを差し出した。
透明なプラスチックの包装に入っている錠剤は、もよく知るアスピリン系の鎮痛剤だった。いくつか種類がある中でも、特に生理痛に特化した効能を謳っている薄いピンク色をした糖衣錠が、永田がの不調の原因をしっかり見抜いていることを告げている。
いや増す恥ずかしさに深く俯いたの手のひらに用量通りの数の錠剤が転がり落ち、いつもと全く調子の変わらない永田の声が響く。



「どうぞ」
「あ……ありがとう、ござい、ます……」



そんなにわかりやすかっただろうか、翼にもバレているのだろうか、と複雑な気持ちで小さな錠剤を飲み下し、グラスの中に残った水も全て飲み干す。冷たい水が喉を滑り落ちる感覚を心地好く感じながら目を閉じたところへ、永田が新たな爆弾を投下した。



「翼様は単なる体調不良と思っておられますから、ご安心を」
「……っそ、そうです、かっ」
「女性の方は大変ですね。僭越ながら、ご苦労お察し致します」
「…………どうも……」



日頃から常々疑問に思っていることだが、この有能秘書の読心術はいったいどういう仕組みになっているのだろうか。ただ単に、自分が感情を表にはっきり出し過ぎているだけなのか、考え出すと下腹部よりも頭が痛くなってきて、は再び横になって柔らかな枕に頭を預けた。
すると永田が立ち上がり、失礼しますという囁きと共にの頭を軽く持ち上げ、テーブルの上に置いたままだったタオルの包みをその下に滑り込ませる。首筋に触れるひんやりと冷たい感覚に、それがアイスノンだとわかった。行き届いた細やかな気遣いは流石と言うしかない。
そんな至れり尽くせりの看病のおかげか、それとも早くも薬が効いてきたのか、痛みが和らぎ始める。
ベッド脇にあったオットマンチェアに腰掛けた永田を見上げると、穏やかな笑みが返った。
間に漂う沈黙は決して嫌なものではなかったが、先程から引きずっている気恥ずかしさに背中を押されて、は何か話題をとまだ本調子ではない頭を巡らせた。



「……あの、いろいろ、ありがとうございます」
「先生にお礼を言われる程のことはしておりませんが」
「でも、あの、ここまで運んで下さったりとか……本当にすいません。重かったですよね……」



自分で言った言葉に、今更のように新たな恥ずかしさがこみ上げた。翼専属シェフ・山田の特製ランチのご相伴に預かるようになってからこっち、順調に増加の一途を辿っている体重をダイレクトに知られてしまったのだ。いったいどれだけ恥をかけばいいのやらと泣き出したい思いに駆られるに向かって、永田はまたもにっこりと笑って口を開いた。



「そうですね」
「〜〜〜!」
「御幼少の砌の翼様よりは若干、という程度ですが」
「…………」



からかわれている。
見なくとも伝わってくる微かな笑いの波動。そこに悪意は欠片も感じられず、寧ろ好意的な空気を感じては文句を言う気力を失くした。



しかし、常に翼の傍にあって、何よりも翼を優先するこの永田智也という男に、少なくとも嫌われていないというわかるのはにとっては嬉しいことだった。
同じように翼を大切に想っている同志として認められたい、と思うようになったのはいつからだったか。
翼が少しずつ心を開いてくれるのに伴って、永田の自分に対する態度も変化していったと感じたのは、決して自惚れではないと思う。折に触れて永田が見せてくれる笑みは、翼の態度の変化と同じくらい、に頑張る力をくれた。
ただ、彼に対する感情が純粋に同志としての好意なのか、それともそれ以上のものを含んでいるのかは、自身、自分でも掴みかねていた。
己の全てを翼の為に捧げていると言っても過言ではないその姿勢は尊敬するが、例えば自分の気持ちが恋愛感情と呼べるものだった場合、自分の中の永田の存在が特別であるように、永田の中に自分の存在が特別なものとして入り込む余地はあるのか。
明らかになさそうよね、とは思う。
あの永田が翼以外の誰かを、例えば自分を翼以上に大事に扱う、という状況が想像出来ない。
愛の言葉を囁き、抱きしめて、キスをして。そういう、翼相手でもしないようなこと(されても困るが)を。
我ながら馬鹿なこと考えてるわ、と小さく笑ってしまう。



「有り得ない、有り得ないわ〜……」
「……そう思いますか?」
「えっ」






ぐるぐると思考の海を彷徨っていたは、横合いから掛けられた言葉に視線を動かした。
一分の隙なく着こなしたスーツの足を優雅に組み合わせ、その上に肘をついての方に軽く身を乗り出して、永田が微笑んでいる。
その微笑みがいつもとは少し違う気がして、は無意識に身体を硬くした。
柔らかな、しかしどこか得体のしれない笑顔のままで、永田が同じ問い掛けを繰り返す。



「本当にそう思われますか」
「え…っと、あの?」
「思ったことを正直に声に出し過ぎるのもどうかと思いますよ」
「……ああーっ!私ってばまたっ!」
「はい。……大変興味深いお話でしたが」



するりと組んでいた足が解けて、の視線を捕えたまま、眼差しの高さが変わる。
底の読めない笑顔と感情の起伏の少ない口調は変わらず、けれど何かがはっきりと変化していた。
一度は遠ざかった眼差しが、今度は一気に距離を縮めて、の顔のすぐ近くに降りてくる。
耳元に囁かれた声はこれまで聞いたことがない程、甘く淫靡で蠱惑的な響きに満ちて、の鼓膜を震わせた。






「有り得ないこともない、と申し上げましょうか?―――』さん」
「…………っ」
「優先順位は変わらない、というのは認めますけれども、他に特別な方を一人二人増やすくらいの余裕も持てない程、無能ではないつもりですが」
「そう、ですか」
「ええ」



いつもはきっちり整えられている前髪が流れ落ちて、端正な面差しに影を作り出す。
低く囁く声と共に落とされた唇はひんやりとして心地好かった。






「それでもよければ、差し上げますよ」










[080728]