振り回されたり振り回したり、しょっぱかったり甘酸っぱかったり。
慌ただしくて目まぐるしくて、けれどとても愛しい日々。















         
















細い指がキーボードの上をなめらかに滑る。ノートパソコンの画面から視線を動かさないの顔を、一は面白くない気分で見つめていた。
高等部に赴任したその年に上げた華々しい功績―――言わずもがな、B6の相手を一手に引き受けて一年間面倒を見切った件だ―――が仇となり、は一たちの卒業後も毎年のようにClassXの担任を任されている。
最初こそ「今年もなの!?」などと嘆いていたが、年数を重ねるにつれてそんなこともなくなった。一たちが在学していた頃と変わらず、補習だ何だと忙しそうに、けれど楽しげに日々を送っている。
今日も夕食の片付けを終えると、すぐさまパソコンを立ち上げて補習用のプリント作成に取り掛かった。
翌日は土曜、しかも一のサッカー部も活動予定が入っておらず、この週末は二人でのんびり出来ると思っていただけに、ほったらかしにされている今の状況が面白い訳はなかった。
一の発する不機嫌オーラに気づきもせず、一心にキーを打つの顔は真剣そのものだ。教師と生徒という関係だった頃を思い出させるその顔はなかなかに凛々しくて、そんな表情も魅力的でいいなと思う反面、それが自分の為のものではないと思うと、素直に見惚れるのは何だか癪だった。
傾けたマグカップの縁越しに見えるの顔からテーブルの上に視線を流す。一が持っているものと色違いのカップは、数十分前にそこへ置いた時から1ミリも動いていない。の為に淹れたコーヒーは疾うに冷めてしまっていて、そのことが更に一の気分をマイナス方面に追い立てる。
やはり既に冷めきっている自分のコーヒーを一気に呷った一は、空になったカップをテーブルに戻して立ち上がり、の背後に座り直した。
反応を見せない華奢な背中をじっと見つめて静かに口を開く。




「…………」
ー」
「…………」
「……先生」
「えっ、何、なに?」
「…………」



懐かしい呼び方に切り替えた途端、それまでは無反応だったがパッと顔を上げた。きょろきょろと左右を見回した後、正面にいたはずの一がいないことに気づいて慌てて後ろを振り向く。
その呼び方になら反応したことが、また一の癇に障った。恋人よりも生徒が大事かよ、と心の中でぼやいてやさぐれる。
そんな一の心中にも気づいた様子のないは、目が合ってやっと教師の顔からプライベートの顔へと戻った。
小さく首を傾げた顔の中で、大きな目が不思議そうにくるりと動く。



「どうしたの、いきなり先生なんて呼ぶからびっくりしちゃった」
「名前呼んでんのに気付かねえから」
「えっやだ、そうだったの?ごめんなさい」
「コーヒー、淹れ直すからちょっと休憩すれば?」
「コーヒー?」



そこでやっとパソコン横に置かれたマグカップの存在に気づいたらしい。あっと声を上げ、次いで申し訳なさそうに両手で包み込んで持ち上げて口元に運んだ。
淹れ直すって、と手を伸ばす一に、柔らかい笑顔で首を横に振る。



「これでいいわ。せっかく一君が淹れてくれたんだもの」
「コーヒーくらいで大袈裟だって」
「そんなことないわよ。……うーん、甘くて美味しいー」



の好みに合わせて淹れたそのコーヒーは、ミルクと砂糖たっぷりの甘いカフェ・オ・レだ。温かいうちはいいかもしれないが、冷めてしまうと甘さばかりが際立って飲めたものではないだろうに、そんなことはおくびにも出さず、は美味しそうに飲み続ける。

―――ほんの僅かでも「本当は冷めてて美味しくない」と思っているのが見えたならば、思いきり拗ねてみせて困らせてやろうと思ったのに。
どうせこの後また仕事に没頭してほったらかしにする癖に、不機嫌なままでいさせてもくれない。

ふーっと大きな溜息を吐き出した一に、がどうしたの?とさっきとは反対側に首を傾げた。
何でもないと首を振ってみせ、のカップが空になるタイミングを見計らって抱き寄せる。
華奢で柔らかい身体は出会った頃から変わらない。高校卒業後に一が成長した分、余計に小さく感じられるようにさえなった。なのに、いつだって一はに勝てない。
抱きしめたまま、その手から空になったカップを取り上げながら、大きく音を立てて頬に口付ける。驚いてぎゃあっと色気のない悲鳴を上げたの顔は、瞬く間にピンク色に染まった。



「いっいきなり何するの!」
「したくなったからしただけー」
「理由になってないわよ一君……」
があんまり可愛いからさ」
「っななななな何言ってるのよっ!」



一の発言を受けて顔色が更にピンク色から真っ赤に変わる。一が笑いながらその様子をじっと見下ろしていると、その視線に耐えきれなくなったのか、はあからさまに視線を逸らして、がっちりとホールドされた一の腕の中でじたばたともがき始めた。



「あの、もうそろそろ離して。私仕事の続きが」
「もーちょっとこのままでもいいじゃん」
「かっ、可愛く言ってもダメっ!…………せっかく一君も週末お休みなのに、今日中にこれ終わらなかったら明日からゆっくり過ごせないじゃない。二人の時間の為よ、ここは心を鬼にするのよ、頑張れ私!」
「…………」



言葉の後半は明らかに一に聞かせようとしたものではなかった。お得意の思考垂れ流しだ。
吹き出しそうになるのをすんでで堪えて、わざとらしく溜息などついてみる。それを聞いた途端に、の表情が気遣わしげに曇った。


「……一君?」
「わかった、仕事、していいよ」
「あ、あのね、別に一君より仕事が大事とか思ってる訳じゃないのよ?来週の補習に必要なプリントだから、月曜日までには終わらせないといけなくって」
「大丈夫、もう邪魔しねえから」
「ホントにあとちょっとなの、だからね」
「わかったって。『二人の時間の為、心を鬼にして』頑張ってくれよな」
「う、うん……って、ええ!?なんでそれっ……」



先程のの呟きを繰り返して、一はを抱きしめていた腕の力を緩めて立ち上がった。解放されてほっとしたように頷いたの顔色が再び真っ赤に染まる。
それを見た途端、抑え込んでいた感情が爆発した。先程は何とか堪えた笑いの発作は今度は抑えきれず、お世辞にも広いとは言い難い部屋の中に一の笑い声が響き渡った。笑うなー!と怒鳴るの声にますます笑ってしまいながら、一は空のマグカップを二つ持ってキッチンに向かう。
赤い顔をもっと赤くして憤然とPCに向き直ったは、まるで親の仇か何かのようにディスプレイを睨みつけて、力任せにキーを叩き始めた。わかりやすすぎる照れ隠しに、一の笑いはますます止まらなくなる。
それでも何とか笑い声を収めて、一はコーヒーを淹れる準備に取り掛かった。
二杯目のカフェ・オ・レが出来上がる頃には、の気分も落ち着いているだろうと当たりをつけて。










[080909]