その執着さえも愛故だと知っているから。 ダン!と大きな音が響き、衝撃に一瞬息が詰まる。 一拍置いて背中に感じた強い痛みに、の唇からは悲鳴とも呻き声ともつかない声が漏れた。 痺れるようなその痛みを堪えて視線を上へ動かすと、だだっ広い室内にわだかまる宵の闇の中、窓から差し込む幽かな月明かりに照らされて、こちらを見下ろす白皙の美貌が浮かび上がる。 極上の宝石を思わせる赤い瞳の中に苛立たしげな光が揺れて、の両手首を壁に縫い止めている大きな手に、更に力が籠もる。骨が軋み、締め付けられる痛みに涙が零れた。 涙で滲んだ視界で翼の瞳の赤が揺らめき、いつもは傲岸不遜な笑みを浮かべる形の良い唇が苦しげに歪んだ。吐き出された掠れ気味の声はひどくやるせない響きに満ちていて、は一瞬自分の置かれている状況を忘れかけて、気遣うように声を掛けていた。 「翼、くん?」 「……クソッ……」 「つ」 繰り返し名前を呼ぼうとした声は、強引に重ねられた唇に奪われた。 随分な時間夜気に晒されていた所為か、ひやりと冷たいその感触に背筋がぞくりと竦む。そんなの反応を別な意味に取ったのか、翼の表情が一際暗く淀んで、無理やりのキスが一層激しさを増した。 声も吐息も、力任せに捩じ込まれ、執拗に絡められる舌先に全て奪い取られていく。理不尽な目に合っているのに、先程の切ない声音と眇めた目で捉える苦しそうな顔が、抗う力までもから奪い取る。 キスは一向に終わる気配を見せず、あまりの息苦しさに全身から力が抜けていくのを、ぼんやりと霞み始めた意識の中で感じる。だが、翼の腕にしっかりと抑え込まれた手首の所為で、床にへたり込むことすら出来ずに、されるがままになっていく。 まるであやつり人形のように吊るされて、指先ひとつ、自分の力では満足に動かせない。 ―――そのまま、どのくらいの時間が経ったかもわからなかった。 不意に唇が離れて息苦しさから解放された。 肺が酸素を求めるままに荒い呼吸を繰り返しながら、拭うことが出来ずに流れるままになっていた涙でぼやける視界で、翼の赤い瞳と見つめあう。そして。 「―――やっ……!」 白い顔が俯いたと思ったら、銀色の髪が頬を撫ぜた。 首筋をなぞった生暖かい感触に、反射的に上擦った声が上がる。 上手く力の入らない四肢を無理やり動かして、反抗するようにぎゅっと肩を竦めると、首筋に寄せられていた翼の顔が僅かに動いて、上目遣いの赤い眼差しがの瞳を鋭く射抜く。 未だ手首を捕えたままの腕が力任せにを引き摺って、弱々しい抵抗をあっさりと封じてみせた。 表情や眼差しとは裏腹に、怖いくらい感情の起伏が感じられなくなった声が短い呟きを紡ぐ。 「無駄だ」 「つばさ、く」 「嫌だと言われても、もう止まらん」 その言葉を契機としたように。 再びの嵐のようなキスと共に、手首の拘束を解いた翼の手がを一気に蹂躙した。 目が覚めると、そこは柔らかなベッドの中だった。 肌触りのいい枕カバーに頬を埋めたまま、ゆっくりと視線を動かしていくと、じっと見下ろしてくる赤い瞳と視線が交わった。 先程までの荒んだ光は欠片も見えず、はホッとして、知らず強張っていた身体から力を抜く。半ば無理やりの行為の名残であちこちが重く痛んだが、それを押し隠して腕を宙に伸ばすと、大きな手がそっと包み込むように受け止めてくれた。 それと同時に、チュ、と小さな音をたてて指先にキスが降ってきた。眼差しは穏やかに落ち着いたのに、手の向こうに見え隠れする表情はやはり暗く哀しげに歪んでいて、の胸を締め付ける。 「―――つ」 「すまな、かった」 「翼君」 「最低だな、俺は。……自分が嫌になる」 「そんなふうに言わないで」 触れあったままの手の指先をそっと曲げて引き寄せ、先程翼がしてくれたように指先にキスを落とした。そのささやかな触れ合いが慰めになればと思うの心に反して、翼はますます苦しげに眉間に皺を寄せて俯いてしまった。 ――――――発端は些細なことだ。 が待ち合わせの時間になっても現れなかった。補習の時間が押してしまっただけなのだが、心配した翼が学校まで迎えに行ったところへ、ちょうど帰り支度を整えて出てきたと並んで出てきた生徒が、去り際、の頬にキスをしたのだ。それが引き金。 帰国子女であるその生徒にしてみれば何てことはない挨拶のつもりだったろうそのキスが、翼の激情に触れた。 「……俺は、あいつのようにだけはなりたくない」 蚊の鳴くような声で、ぽつりと零れ落ちるような独白。 その言葉で翼の父親を思い出す。多忙さ故に愛する人の傍にいて守ることが出来ず、結果閉じ込めることでしか愛を注げなかった人。 その所為で淋しい想いを抱えたまま亡くなった母親を一番間近で見ていた翼が、父親と同じように相手を縛り付けることで愛情を示すような真似はしたくないと思っていることはわかる。 それだけに、激昂した感情に流されてにした振る舞いを、誰よりも翼自身が許せないのだろうと言うことも。 「ね、翼君。聞いてね」 「…………」 「翼君が私にお母様のような思いをさせたくないって思ってくれるの、すごく嬉しいわ」 「思ってるだけだ。やってることはあいつと変わらない」 「聞いて」 強い口調で翼の言葉を遮って、俯いたままのその頬にそっと手を伸ばすと、びくりと小さな震えが指先から伝わって、怯えた眼差しがに向けられた。 その眼差しがの心を切なく疼かせる。好きだから守りたいと思っているのは翼だけではないんだと伝えたかった。 「翼君が私を閉じ込めようとしたら私が止めるわ」 「――――――」 「大人しく閉じ込められてなんかあげないから、安心しなさい。それに私は翼君が好きだから、閉じ込めたりしなくても離れたりしないわよ」 「……本当に、無茶苦茶だ、お前は」 「それとね」 指先で翼の髪を軽く引っ張って、やきもち妬いてくれて嬉しかったよ、と耳元に囁くと、翼はますます泣きそうな顔をして、ありがとうと呟いた。 [080909] |