「―――先生?」 日曜日の午後、賑わう繁華街の一角で。 呼び掛けてきたその声は、記憶の中のそれよりも少しだけ柔らかく響いた、気がした。 振り返ったの視線の先、路肩に停められた見慣れない車からスーツ姿の男が姿を現す。 優雅な身のこなしで軽く会釈すると、きちんと撫でつけられた黒髪が僅かに揺れた。 「ああ、やはり。ご無沙汰致しております、先生」 「永田さん!お久しぶりです。偶然ですね、今日はお一人なんですか?翼君は?」 「本日は休日ですので、翼様には別の者がついております」 「永田さんにお休みってあったんですか!?」 「無論です。流石に365日丸々仕事はしておりません」 「……そ、そうです、よね……」 穏やかな微笑みではっきり肯定され、はそれ以上何も言えなくなってしまった。 その場にいないと思っていても翼が一声呼べば風のように現れる人だったので、休日などないのではと勝手に思い込んでいたのだが、よくよく考えなくてもロボットではないのだから、365日働き詰めなんていくらなんでも無理に決まっている。だがしかし、今目の前に立っている永田は相変わらずのスーツ姿で、そんな格好で休みなんですと言われても今ひとつ信憑性に欠ける気がしてならない。 あんな格好では休まるものも休まらないのではとが考えていると、久しぶりに顔を合わせた教え子の秘書は、相変わらず底の読めない笑顔でさらりと話を切り替えた。 「先生はお買い物の帰りですか?」 「え、あ、はい、そうです。久しぶりに時間が空いたので」 「随分とたくさんお買いになられたのですね。かなり重たそうですが、大丈夫ですか?」 「見た目ほど重くはないんです、ほとんど服とかアクセサリーだし」 「しかし、そちらの紙袋は持ち手の付け根が破れそうですよ」 「えっ!?」 淡々とした口調での指摘に慌てて身体を捻った瞬間、肩に引っ掛けていたショップバッグの一つが音を立てて破ける。買ったばかりの服や小物が歩道に転がり落ちる光景をが想像した瞬間、おもむろに伸ばされた腕が破けたバッグをしっかりと抑えた。 腕の主は無論永田だ。状況についていけずに呆然とするの腕から破けたバッグを受け取り、中身が零れないように慎重に抱え込んでから、端正な顔ににっこりと笑みを刻む。 「間一髪、ですね」 「あ……ありがとうございます」 「これくらい大したことではございません。―――では、参りましょうか」 「……はい?」 「お荷物がこの状態では徒歩でのご帰宅は大変でしょう。ご自宅までお送り致します」 「ええっ!そんなの申し訳ないです!」 いきなりの申し出に驚いてはぶんぶんと首を横に振った。せっかくの休日、貴重なプライベートの時間を単なる知人でしかない自分の為に潰させる訳にはいかない。荷物だって破けたバッグの代わりにその辺のコンビニで紙袋を買えば済むことなのだから。 だが、当の永田はそう言い募るの言葉など耳に入っていないかのようにさっさと停めた車まで戻って、持っていた荷物を後部座席に放り込んでしまった。追いすがって尚も断りの言葉を口にしようとしたの腕から残りの荷物も取り上げて先に乗せた荷物の横に置き、文句のつけようもない優雅な仕草で助手席のドアを開けてをエスコートする。 気がつけば乗り慣れない車の助手席に座って、エンジンのかかる音を聞いていた。 そのあまりの手際の良さに唖然としているの横で、永田は静かにアクセルを踏み込んで車を発車させる。車が動き出してしまったらもうどうしようもなく、は素直に永田の厚意に甘えることに決めてシートベルトに手を伸ばした。 ベルトを締めて一息つくと、は軽く緊張しながら車内を見回した。 以前、翼が在学中に何度か見かけたことのあるリムジンではなく、普通の乗用車だ。ただし右ハンドル。 車には詳しくないので、車内をぱっと見ただけではメーカーなどわからない。結構なスピードで走行中にもかかわらず振動をほとんど感じないところからして、そこそこのレベルのものではありそうだった。 ダッシュボードにはありふれたデザインのカーナビとカーステレオ。その周囲は綺麗に片付けられていて、眠気覚ましのガムやMDといったありがちな小物も見当たらず、神社で見るような交通安全のお守りがフロントガラスにぶら下がっていたりすることもない。無駄なものは一切置いてないすっきりした空間は、永田らしいと言えばらしい感じがする。 どこが「らしい」と断言出来るほど永田のことを深く知っている訳ではないけれど、と思いながら窓の外に目をやる。翼との一年間の付き合いの中でそれなりに関わりは持ったが、永田はとかく謎の多い人物だった。職場の同僚である衣笠とは違った意味で得体が知れないというか。 そういう人物がいったいどのように休日を過ごすのか、なんとなく興味が湧いた。 真っ直ぐに前を見据えてハンドルを捌く永田の横顔に視線を送りつつ、会話の口火を切る。 「永田さんは、今日は何をして過ごされてたんですか?」 「特にこれということは何も。暇を持て余してしまいまして、特に目的もなく走っておりました」 「はあ」 「あとは、外出したついでに食事でもしようかと」 「あ、あの辺って美味しいお店多いですよね。どちらのお店に行かれたんですか?」 「いえ、それが……適当な店を物色していた時に先生をお見掛けして、お声を掛けさせていただきましたので」 「……えっ!」 自分のお気に入りの店を思い浮かべながら何気なく訊ねたは、返ってきた言葉の意味するところに気づいて思わず声を上げた。 食事する店を探していて見掛けたに声を掛け、今こうして送ってくれているということは、つまりまだ食事を摂っていないということだ。咄嗟にダッシュボードの時計に目をやると、デジタル表示はちょうど14時になったところだった。今からのマンションまで行ってからでは、昼食ではなく早めの夕食になってしまう。 「それじゃおなか空いてるんですよね!?私やっぱり一人で帰りますから、どこか適当なところで降ろして下さい!それでお食事行って下さい!」 「適当なところと申されましても、もう駅からは大分離れておりますし……それにお困りの先生を放り出したと翼様に知れましたら、お叱りを受けてしまいます」 「ああっ!でも、あの、じゃあタクシー拾いますからっ」 「―――先生は、ご昼食はお済みですか?」 「え、私?いえ、朝がゆっくりだったので、お昼はまだで」 「では、もしよろしければご一緒していただけませんか。一人での食事というのも味気ないので、是非」 「え!?あの、でも、えっと」 「和食はお好きですか?」 「好きですけど。って、そうじゃなくて」 「それは良かった。良い店を存じておりますので、そちらへ向かわせていただきます」 「ええっ!ちょっ、待ってくださ」 「申し訳ありません、そろそろ空腹を堪えるのも限界のようです。少し速度を上げますね」 その言葉の通りに、窓の外の景色が後ろに流れ去るスピードが早くなる。 視界の端に映った道路標識に見逃せない単語を確認して、は更に慌てふためいた。 「なっ永田さんっ、そっち行くと高速乗っちゃうんですけど!」 「はい、高速で行った方が早いので。先生のご自宅からは少し遠くなってしまいますが、責任を持ってお送り致しますのでどうぞご心配なく」 「そういう問題じゃないですうぅぅっ」 情けない声を上げるその間にも、いくつもの道路標識が視界に映っては消えていき、車はどんどんの家とは違う方向に進んでいく。 料金所の手前で少し道が混み、スピードが落ちた。それに合わせて前を向いていた永田の視線がの方を向く。いつもは感情の制御されたあまり動かない表情が今までにないほど柔らかく和んでいて、正面からそれを受け止めたの心臓は大きく音を立てた。 彼の主人の華やかさの陰に隠れてしまいがちだが、永田も十分に人目を引く容姿をしている。しかし自分のミーハーぶりは理解しているが、永田に対して今のような反応をしたのは初めてだった。受け持ちの生徒の身内という認識が強かったからかもしれない。 なかなか治まらない胸の動悸に戸惑っていることに気づいているのかいないのか、永田は再びからフロントガラスの向こうへ視線を動かしながら口を開いた。 「すいません」 「―――え?」 「プライベートだからと言って、少し悪ふざけが過ぎましたね。次の出口で高速は下りてご自宅に向かいますので、ご安心下さい」 淡々と告げた横顔が何故か少し寂しそうに見えたのは気の所為だろうか。 そう思った次の瞬間、反射的には聞き返していた。 「で、でも、お昼ご飯まだなんですよね?」 「……ええ、それは」 「じゃあ、高速下りなくていいです。その和食の美味しいお店、お付き合いします」 「いえ、ですが」 「せっかく誘っていただいたんですし。それにさっきも言ったように私もお昼まだなんです。ご一緒させて下さい」 「…………」 自分でも何をそんなに剥きになっているのかはよくわからなかった。 ただ何となく、今の時間を終わらせてしまうのが惜しいような気がしたのだ。 それに悪ふざけが過ぎたのは確かだとしても、困っていたを助けてくれたことに変わりはない。その返礼に食事に付き合うくらいのことはしてもいいだろう。寧ろお礼として食事を奢る程度のことはすべきではないか。 そんなふうに心の中で自分に言い聞かせるを横目で見て、永田はまた少し表情を和らげた。 「では、改めて。――― 一人では味気ないので、食事にお付き合い願えますか」 「はい!」 永田曰くの『良い店』がTVで紹介されたこともある有名な料亭で、一介の高校教師には敷居の高すぎる豪華な懐石を奢るどころか結局奢ってもらう羽目になるのは、それから2時間ほど後の話。 [081130] |