荒い息遣いと不規則な足音が廊下の白い壁にぶつかって跳ね返ってくる。
ふらつきながらも走ることを止めない華奢な背中は、もう少し手を伸ばせば届くところにある。
捕まえてしまったら本当にもう戻れない。そう、一瞬躊躇って。
生じた迷いを次の一瞬で振り切って、一は力強く床を蹴った。































―――好きです。付き合ってくださいっ……」



必死に縋るような声と、同様の感情を湛えた眼差しを受け止めて、一は心の中で盛大に溜息をついた。
卒業後、OBとしてサッカー部の指導に来るようになって一年余り、こういった状況に陥ったことは一度や二度ではないが、いつまでたっても慣れることが出来ない。
向けられる好意を受け止めることも、同じものを返してやれないこともわかっているから、ただひたすらに心苦しく、居た堪れない気持ちばかりを感じてしまうのだ。
差し込んでくる夕焼けの朱に染まる廊下に彼ら以外の人影はない。視線を彷徨わせる振りをしてこっそり腕時計の文字盤を盗み見ると、後10分足らずで下校時刻になろうという時間だった。
自分の記憶が確かならば、そろそろ校内見回りの教師がこの辺りにやってくるはずだ。今日の担当が誰だったかまでは流石に憶えていない。鳳や衣笠あたりに見られて後で散々ネタにされるのも嫌だが、万が一にも『あの人』に見られて妙な誤解をされるのもご免被りたい。
目の前で一縷の望みを抱いて返事を待つ少女に申し訳なく思いながらも、一はもう幾度となく口にした台詞を喉の奥から押し出した。



「気持ちはありがたいんだけど、ごめん。あんたとは付き合えない」



この手の場面での断り文句としてはかなり在り来たりな台詞を受け止めて、少女の見開いた大きな目から大粒の涙が零れ落ちる。
ますます膨れ上がっていく罪悪感にかられながら、それでも言葉を続ける。
想いを受け入れられない以上、相手の為にもはっきりと断ち切らなければいけない。



―――好きな人がいるんだ。だから、ごめんな」



短くきっぱりとした拒絶の言葉を受け、これ以上食い下がっても無駄と悟ったらしい少女は、ありがとうございました、と涙混じりの呟きを残して、逃げるようにその場を走り去った。
誰もいない廊下に一人取り残された一は、小さく溜息をついてから少女が走り去ったのと反対の方向に向かって歩き出した。向かう先は職員や来客用の昇降口。
サッカー部の指導が終わった後、この時間まで居残っていたのは、あの人―――先程の少女に告げた『好きな人』である南 悠里を送っていくつもりだったからなのだが、何となく気が削がれてしまった。落ち込んでいる時など、うまく隠したつもりでも彼女には不思議と見抜かれてしまうこともあって、顔を合わせるのは躊躇われた。
特に今日は事情が事情だけにどうしたのかと聞かれても答えづらいし、と逢いたい気持ちを抑えて今日は一人で帰ることに決める。が、L字廊下を曲がったところで一の足はぴたりと止まってしまった。
目の前には背中を壁に貼り付けるようにして立ち尽くしている、見覚えのありすぎる人影。



「……ッ先生、何してんだ」
「……えっ、えーと、えっと、その……見回り中で」
「あー……そっか……」



ご免被りたかった『万が一』に見事に当たってしまったらしい。一体どの辺りから聞かれていたのか気になるが、下手に聞くと藪蛇になりかねないと思うと問い詰めることも出来ない。
淡い色のスーツの胸元で細い指を組み合わせ、南 悠里は申し訳なさそうな気まずそうな、何とも言えない表情であーだのうーだの唸っている。
曖昧な相槌を返した一は、視線を明後日の方向へと投げながらぐしゃりと前髪を掻き上げた。中途半端に会話が途切れ、気まずい沈黙が二人の間にわだかまる。
何とも言えない居心地の悪さを感じつつも、どうやってこの場を取り繕うべきか思いつかないでいると、悠里が複雑そうな表情でぽつりと呟いた。



「一君、好きな人が出来たの……」



その一言で、一番聞かれたくないところをしっかり聞かれてしまっていたことが判明した。がっくりとその場に膝をつきそうになるのを何とか堪える。
そんな一の内心の動揺には気づいていない様子で、悠里はぽそぽそと言葉を続けた。



「そうよね、一君だって男の子だものね。好きな人くらい出来るわよね」
「あ、あのさ先生」
「一君が好きになるくらいだもの、きっといい子なのね……」
……先生?



喋りながら少しずつ俯いていった悠里の言葉の語尾が掠れて消えた。
その不自然な声の調子に引っ掛かりを感じた一がそっと呼び掛けると、悠里は何かを振り切るようにぱっと勢いよく顔をあげて、いつものようににっこりと笑った。
いつもと同じはずのその笑顔に妙な違和感を感じて、一は落ち着かない気分になる。
不自然な声調、違和感を感じる微笑み。何かがおかしいと本能が訴える。
胸の奥にわだかまるもやもやを必死に探る一の耳に、悠里の上げた声が飛び込んできて、顕わになりかけていた違和感の正体は再びその輪郭を失ってしまった。



「私、見回りに戻るわね。一君ももう帰らなくちゃダメよ」
「あ、じゃあ俺も付き合うよ」
「そんな、悪いわ。一君、部活の指導で疲れてるでしょ?早く帰ってゆっくりしてね」
「あの程度で疲れるほど柔じゃねーって。付き合う」
「いいってば!」
「……先生、どうしたんだよ」



それは今までにも何度かあったやり取りで、そしていつもならば「仕方ないわねえ」と折れるはずのところで、しかし今日の悠里は頑なに首を横に振った。
思いもかけない反応に戸惑いながら一がその肩に手を伸ばした、その瞬間。



「やっ……」



ばしっと音をたてて、悠里の手が一の手を思い切り振り払った。
手の甲に痺れるような痛みを感じて呆然とする一の視界に、一以上にショックを受けた表情で呆然としている悠里が映る。その表情が見る見るうちに歪み、見開いた目に一気に涙が湧き上がる。
その涙を見た途端、一の中で最後のパズルのピースが嵌まった。
先程感じたあの違和感が何だったのか、心の中のぼやけていたものが瞬く間にはっきりとした形を成していく。



「……先生」



呼び掛る声は自分でも驚くほど上擦っていた。
その声に反応して悠里の肩が大きく震える。
確信と期待が綯い交ぜになり、弥が上にも昂る感情を必死に抑えて、一はその問いを口にした。



「俺のこと。好き、なのか?」






一瞬の沈黙の後。
悠里は弾かれたように身を翻して走り出した。






























――――――躊躇ったのは一瞬。
思い切り床を蹴りつけて、一は一気に距離を縮めて悠里の腕を捕まえた。
勢いのままに引き寄せて無理やり腕の中に掻き抱く。抗うことなど出来ないように、強く強く、けれど抱き潰してしまわないように、そっと。
走っている間にぐしゃぐしゃになってしまった髪に頬を埋めて、低い呟きを落とす。



「俺から逃げられると思ってんのか?」
「っ!」



腕の中で薄い肩がびくりと竦んだ。それでも一は抱きしめる力を緩めようとはしなかった。
回した腕にかかる吐息が熱い。全身を通して伝わってくる鼓動は、心臓が壊れてしまうのではないかと思うほど酷く乱れている。その全てが愛おしかった。
密やかに抱き続けてきた想いの全てを込めた囁きは、たった一言。



「好きだ」
「……え……?」



万感の想いを込めた告白に返されたのはそんな呟き。
俄かには信じがたいのか、驚きよりも不信の色が濃いその呟きに、一は低く笑って。



「信じられるまで何度でも言ってやるよ」



そう言い置いて、二度目の告白と共に、柔らかな耳朶へキスを送った。










[090520]