その一言が形を得るまで、きっとあともう少し。
待つことは苦ではない。貴方の心を信じることをもう迷わない。

心から欲したものは、今、確かにこの手の中にある。































人気のない廊下に一定のリズムで足音が響く。
足音の主である二階堂 衝は、ふと校内見回りの足を止めて、窓の外に目をやった。
白い壁がそこだけ四角く切り取られたように、濃い藍色に塗り潰されている。すっかり日が沈んだ空の片隅に掛かる、糸のように細い月を眺めて、二階堂は深い溜息をついた。
真田に聞かれたら、『らしくないよ先輩!』などと突っ込まれそうだ、とぼんやり思う。鳳や九影、衣笠あたりの面々は何かと敏いから、溜息の理由を感づかれて、遠回しに慰めたり励ましたりされそうだ。それはそれで有難いことだが、どうにも情けない気がする。葛城は……考えたくもない。



くだらない思考を二度目の溜息と共に打ち切って、止めた足を再び動かし始める。
空の色が示すように、もう大分遅い時間だ。さっさと見回りを終わらせて、警備員に後を任せて帰宅しよう、と歩くスピードを上げた時、真っ直ぐに伸びる長い廊下の先に、微かに明かりが見えた。
僅かに開いた扉の隙間から漏れる光が、薄闇に黒く染まる廊下に細い一筋の線を描いている。その扉が何の部屋か、二階堂にはすぐにわかった。
自分には直接関係ないのだが、何かと出入りすることも多い部屋
―――語学準備室。
その部屋をよく利用しているのは、大学時代からの腐れ縁である同僚か、彼と同じ英語担当教諭である『彼女』だ。そしてその彼女こそ、二階堂の溜息の理由そのものでもある。
今、こんな気分で彼女に会いたくはなかったが、さりとて人が残っているかもしれないのをスルーする訳にもいかず、二階堂は自分を叱咤するようにグッと背筋を伸ばし、扉を軽くノックしてノブに手をかけた。



「失礼
―――



室内から返る声はなく、扉は静かに内側へと開いた。部屋の中から溢れた明るい光に、廊下の薄闇に慣れた目が眩む。眼鏡の奥で細めた目でぐるりと室内を見回した二階堂は、並べられたデスクの一つに突っ伏して眠る人影を確認するや、三度目の溜息を零した。
きちんと片付けられたデスクの上に、亜麻色の柔らかな髪が拡がっている。その髪に縁取られた白い顔に浮かぶのは安らかな表情。然程広くない室内に、軽やかな寝息が響き渡る。
昨年赴任してきた同僚であり、自身の恋人でもある女性。無防備に眠る のその姿に、二階堂の肩ががくりと落ちた。



「……無用心にも程がある……」



目を覚ます気配のないを見て、二階堂は思わずぼやきながらも、少しホッとしていた。
付き合い始めてまだ日が浅いこの恋人とは、最近どうもギクシャクしていた。どうにも会話が弾まず、ちょっとしたやり取りすらひどくぎこちない。
やはり告白と同時にプロポーズしたのは、あまりにも早計だっただろうか。彼女も自分を憎からず思っていてくれたからこそ、気持ちを受け入れてくれたのだと思っていたが、本当はあの時の自分の勢いに負けて、断りきれなかっただけなのかもしれない。
考えれば考えるほど、の気持ちはわからなくなっていった。
そして、一度マイナス方向に傾いた思考は、簡単には浮上してくれない。ひとりで悶々と思い悩むだけでは、何の解決にもならないとわかっているけれど、本人に問いただす勇気が出なかった。
そんな自分を情けなく思いつつ、二階堂は今までで一番重い溜息をついて、未だ眠っているの傍らに歩み寄った。頬の下に敷かれてしまっているのは、今年の受け持ちの補習用プリントのようだ。何となくそのプリントに視線を落としながら、を揺り起こそうとして細い肩に手を伸ばす。
が、指先がの肩に触れる寸前、二階堂の手はぴたりと動きを止めた。



――――――



眼鏡の奥の眼差しが、ゆっくりと見開かれる。
一面に見慣れたの字が踊るプリント。その余白部分に書き込まれた、たくさんの文字。
『衝』というその文字を瞳に映した二階堂は、ゆっくり持ち上げた手で口元を抑えた。
そうしないと、際限なく表情が緩んでしまいそうだったのだ。
自分のものとは違う、女性らしい丸みのある文字で書かれた、無数の自分の名前。そこから感じられる想いが、二階堂の中に巣食っていた不安を、瞬く間に消し去ってしまった。



―――何故彼女の気持ちがわからないなんて思ったのだろう。
望んだものは確かにそこにあったのに、気づかないで一人で悩んでいた自分は本当に大馬鹿者だ。
すべらかなの頬をそっと撫でて、二階堂は声なく笑った。






その一文字に込められた、貴方の心を信じることを、もう決して迷わない。










[070620]