微かな金属音をたててベルトが引き抜かれた。 ベッドの縁に腰を下ろして、片手で器用にシャツのボタンを外しながら、空いた片手で立ち尽くしていたを引き寄せる。 いつもはレンズ越しに見つめてくる眼差しが、今は何も通さずに直接の姿を映し出す。眼鏡がない所為なのか、いつもより視線が柔らかく感じられた。 細い腰に回した腕に力が籠もり、二人の距離が一層縮まる。シャープなラインを描く顎が軽く反って、薄く開いた唇がのそれに重なり、すぐに離れた。一瞬置いての二度目の口付けは深く強く、一度目の口付けと同じ相手とは思えない激しさで、の吐息を奪い取る。 ゆっくりと背筋を辿る手のひらの感触に、意外に手が大きいんだわ、とはぼんやり思う。 手だけじゃない、腕や肩や肌蹴たシャツの胸元も、思っていたよりずっと逞しくて、今更のように男の人なんだと実感させられた。 不意に経験のない子供に戻ったような感覚に襲われて、急激に不安が募る。それを察したように、背中に添えられた手が一際強く、の身体を抱きしめた。 無言の抱擁は、どこまでも優しく。 それだけで嘘のように安心している自分に気づき、は声なく笑って、その腕に全てを委ねた。 白い光が瞼の裏に隠れた眼球を刺激する。 微睡みの中で、すぐ傍らにあった温もりが離れていくのを感じ、言葉にならない淋しさに襲われて、は慌ててそれにしがみついた。 夢現に、行っちゃ嫌、と子供が駄々をこねるように呟くと、戸惑うように空気が揺れた。僅かな間の後、光が翳って柔らかい感触が額に落ちてきた。ぎこちなく瞼や頬に触れて、最後に唇。とても優しく触れるその感触に安堵を覚えて、はやっと腕の力を緩める。 温もりの主はやはりぎこちなくの髪を撫でて、静かに離れていった。 再び浅い眠りを彷徨っていたの耳に、微かな物音が聞こえてきたのは、それから少し経った頃。 シュンシュンとお湯の沸く音が響き始め、それに硝子や陶器が触れ合う音が重なる。やがて覚えのある香りが鼻先へと漂ってきて、の意識を覚醒させた。 そろりと開いた視界は薄いブルー。それがベッドのシーツの色だと思い出すまでに数秒かかった。 自分のベッドとは違うその色に、今どこにいるのかわからなくなって、まだぼやけ気味の視線をあちらこちらへと彷徨わせる。少し皺になっているシーツの上を滑り、ベッドの縁を飛び越えた視線が、その先にあるものを捉えた時、は自分がどこにいるのかをやっと思い出した。 大きく開け放たれた扉の先に続くリビング、その奥に見えるキッチンカウンターに見慣れた人物が佇み、手際良くコーヒーを淹れていた。 昨晩は外していた眼鏡が、今はきちんと定位置に収まっている。いつもよりラフな服装で、マグカップを傾けながら広げた新聞に視線を落とす、そんな何気ない仕草が、やたらと様になっていた。端正なその横顔にしばし見惚れた後、は小さな声で二階堂先生、と呼び掛けた。 吐息と言っても良さそうな、控えめ過ぎる囁き声は、だがしっかりと届いていたらしい。が起きたことに気づいた二階堂は、自分のものともう一つ、二つのマグカップを手に、テーブルを離れた。 自分に向かって歩いてくる姿を見て、は慌てて上半身を起こす。 「おはようございます」 「……あ、は、はい……」 「コーヒーを淹れたんですが、飲みますか?」 「えっと、いただきます」 そう言って腕を伸ばしかけた時、肩から布団がするりと滑り落ちた。ひんやりした空気が剥き出しの素肌を撫で、自分が何も着ていないことを思い出したの顔が、一気に朱に染まる。 あたふたと布団を胸元に引き寄せてから、上目遣いに様子を伺うと、二階堂はマグカップを差し出す腕を中途半端な位置で止めて、気まずそうに視線を反らした。頬が僅かに赤い。 「……み、見えました、よね」 「……いえ」 「嘘!じゃあ何で顔が赤いんですか!」 「ふ、不可抗力でしょう!それに今更、……あ、いや」 「…………!」 不自然に途切れた二階堂の言葉の意味するところに気づいた瞬間、更に頬が熱くなった。 反射的に伏せた視線が捉えた光景が、ますます心の余裕を失わせていく。皺になったシーツや、ベッド脇に置かれた椅子の背に掛かる自分の服、それから。 思い出すほどに深く俯いていくの視界に、不意に差し出されたのは仄かに湯気を立てるコーヒーのカップ。それを受け取りながら見上げた二階堂の顔は、さっきまでと同様に赤かった。相手も自分と同じで余裕がないのだと気づくと、緊張が一気に解れる。 ギクシャクした仕草でマグカップを差し出す姿は、昨晩自分を翻弄した人と同一人物とは思えず、は口をつけたカップの影で微かに笑った。 付き合い始めて少し経つけれど、ふとした瞬間に知らなかった彼が垣間見える。そんな些細なことが、何だかやけに嬉しい。 ベッドのスプリングが軋んで、ふっと身体が沈む感覚に視線を上げると、自分の分のカップを手に、二階堂がベッドの縁に腰掛けていた。 覗き込んでくる眼差しの優しさに、きゅうっと胸が苦しくなった。それは決して嫌な感覚ではなくて、とても温かくて幸せなもの。 顔がゆっくりと近づいて、そっと目を閉じた瞬間に、柔らかく唇が重なる。 コーヒーの苦味が舌先を痺れさせる、そんな感覚すら心地良くて。 「……おはようございます」 「おはよう」 他愛ない挨拶にも幸せを感じながら、は心から微笑んでみせた。 [070924] |