耳元で響いた小さな呻き声が、瞬の意識を浅い眠りから引き戻す。 傍らに感じた温もりに、知らず安堵の溜息が漏れる。片肘をついて半身を起こして、ヘッドボードに備え付けの読書灯のスイッチを入れると、仄かな灯りがすぐ隣で眠る年上の恋人を照らし出した。 白い面に浮かぶ表情は、安らかな、と称するには少し険しくて、それを見つめる瞬の表情も僅かに陰りを帯びる。 少し間をおいて、瞬は静かにに覆い被さると、寄せられた眉間にそっと唇を落とした。 触れるか触れないかの口付けに、瞬く間にの表情が柔らかく解け、口元に安堵の笑みが浮かぶ。 それを見た瞬はホッと息をつくと、読書灯を消そうと腕を伸ばしかけて、スイッチのすぐ横にある目覚まし時計の文字盤に映る自分の顔に気づき、動きを止めた。 湾曲した透明なプラスティック板の表面で、僅かに歪むその鏡像を睨みつけて、微かな溜息を零し。 一瞬の後、ふつりと灯りは消えた。 悲 劇 に 安 住 「―――何だ、まァた来やがったのか、お前」 「何か文句があるのかハゲ」 当たり前のような顔をしてそこにいる元教え子を見て、九影は呆れた口調で呟いた。 放課後の職員室に、他の教師の姿は見えない。部活の指導やら何やらで、全員出払っているらしい。 それをいいことに、デスクの一つを占領して悠々と寛いでいた瞬は、見下ろしてくる九影を上目遣いに睨んで、淡々とした口調で言い返す。次の瞬間、軽快な音が鳴り響き、軽い衝撃が後頭部を襲った。大して痛くもなかったが、瞬はわざと叩かれた部分を押さえて後ろを振り返った。 淡い色のスーツに身を包んで仁王立ちしているのは、瞬の座っているデスクの正当な使用者。 明るい色の前髪の下で、細い眉がきっと釣り上がっている。 「何をする、」 「何をする、じゃないでしょう!先生に対してその口の聞き方は何ですか」 「もう教師じゃないだろう」 「卒業しても、先生は先生です!もう……九影先生、すいません」 「お前が謝るこっちゃねえだろ。それにそいつの憎まれ口なんざもう慣れっこだ、気にしてねえよ」 「だ、そうだが」 「しゅ・ん・く・ん!!」 「お前も苦労すんな、」 反省の色が見えない瞬に向かって声を荒げたを見て、ヒュッと口笛を吹き鳴らして楽しげに笑った九影が、何気ない仕草で手を伸ばし、頭を撫でようとする。その途端、の表情が強張った。 大きく肩を震わせ、まるで叱られる子供のように首を竦める。 あからさまなその反応に、九影は微かに目を瞠った後、すぐに元のように笑って手を引っ込め、反対の手に持っていた書類の束をに差し出した。 「おっと、忘れてたぜ。これのコピー頼むわ」 「あ……は、はい。さっき言ってたものですよね」 「ああ、20部ずつな。悪ィな、七瀬の面倒は俺が見といてやっからよ」 「アンタに面倒見てもらう必要はない」 「瞬君ったら!すいません、九影先生」 「気にすんなって」 ひらひらと手を振る九影に軽くお辞儀して、は受け取った書類を手に、職員室と続きになっている小部屋へと姿を消した。 扉が閉まる音が聞こえると同時に、九影は笑みを消して瞬に向き直った。 瞬の隣、真田のデスクの椅子を引き寄せて座り、軽く頬杖をつく。僅かな沈黙の後、その口から零れた声はいつもより更に低く、真剣そのものだった。 「おい」 「……何だ」 「がああいう反応するようになった原因、お前知ってるか?」 「ああいう反応?」 聞き返されて小さく頷き、が入っていった小部屋に視線を転じる。強面、と評するに相応しい顔立ちの中で、一見鋭いその目には優しい光が宿っていた。 その手の職業に間違われることが日常茶飯事の見た目に反して、九影がとても優しい人柄であることは、よくわかっている。何かと憎まれ口を叩きはしても、と同様に何かと自分のことを気に掛けてくれるこの教師が、瞬は決して嫌いではなかった。 黙り込んだ九影の次の言葉を待つ間、瞬は椅子から立ち上がって、職員室に備え付けのポットでお茶を淹れる。自分の分はの湯呑みを借りた。 湯気の立つ湯呑みをデスクに置くと、九影は瞬を見上げて鋭い目元を和らげ、小さな声で礼を言うと、ごつい手のひらで湯呑みを包み込んだ。 緑茶の芳香で顎を湿らせながら、途切れていた話を続ける。 「―――今年入ってすぐくれえからよ、怯えるようになったんだよな、男に」 「アンタに対してビビッてるだけなんじゃないのか」 「阿呆、俺相手だけじゃねえから気にしてんだろうが」 「俺に対してはない」 「他の奴らはどうだ?」 「……俺の知る限りでは特にない」 「そうか」 ふう、と小さく息をついて、九影は瞬から視線を外し、ゆっくりとお茶を口元に運んだ。 ぎしりと音を立てて椅子の背がしなる。 短いのか長いのかよくわからない沈黙が続き、二人の湯呑みの中身が大分減った頃、再び響いた椅子の背が軋む音に、低い笑い声が被った。 「悪ィな、変な話してよ」 「いや……」 「ま、一番傍にいるお前さえ平気なら問題ねえやな」 「……何かあって、俺の手に負えなくなったら、その時はアンタに相談する」 「おう、そうしろや」 大らかな笑顔と共に、瞬の頭に九影の手が乗る。いつもは振り払うその手を、瞬は素直に受け止めた。 二人の会話が途切れ、瞬が胸の奥にちりっと小さな痛みを感じた時、小部屋の扉が開いてが姿を見せた。瞬の頭を軽く叩いて九影は席を立ち、の傍へと歩いていく。 コピーしたプリントを手に話し込む二人を見つめる瞬の胸に、先程と同じ微かな痛みが走った。 の変化の原因は誰でもない瞬自身。 相談すると言ったけれど、九影には決して言えない、言いたくない、事実。 夢に魘され、心許したはずの同僚すら反射的に恐れる、そんなの姿を目にするたび、瞬はかつての自分の浅はかな行動が、今も彼女を苦しめていることを思い知らされる。 なのには決してそのことで瞬を責めない。 意識がある時も無意識でも、瞬のことだけは恐れない。夢の中で怯えても、瞬が抱きしめれば安心してくれる。 その傷も苦しみも、瞬が与えてしまったものなのに、それを一時でも消せるのも、瞬だけ。 そのことがとても嬉しくて、そう感じるたびに、そんな自分を厭わしく思う。 けれど離れられない。決して。 愛しい恋人が恩師に向ける、どこかぎこちない微笑みから視線を反らせた瞬の小さな溜息は、誰にも聞かれることなく、静かな職員室の空気に溶けた。 [070828] |