誘惑 を らない















補習用のプリントを手にソファの方へと戻ると、小さな寝息が聞こえた。
背もたれ越しに覗き込めば、参考書を膝に広げたまま、こっくりこっくりと舟を漕ぐ担任の姿。



「……補習にイソしむ生徒をよそに堂々と居眠りとはな」



呆れたようにぽつりと呟いた翼の声が聞こえたのか、スーツ姿の眠り姫は「んン……?」と小さな呻き声を上げたが、目を覚ます様子はない。
足音を忍ばせて近寄り、静かに隣に腰を下ろす。見下ろした横顔は、子供のように無邪気な寝顔……かと思いきや、時折眉間に微かなしわが寄り、何か良くない夢でも見ているかのようだ。
受験勉強も最後の追い込みに入るこの時期、高校三年のクラスを受け持つ教師にとっては、心休まる暇もないだろう。特に今、翼の隣にいる は、去年までは中等部勤務。高等部勤務になったばかりでいきなり三年生の担当、しかも受け持ちのクラスがおちこぼれや問題児だらけのClassXと来れば、蓄積された疲労の度合いも半端ないに違いない。
そう言えば、元々細面だったが最近更に細くなったような気がする、と翼は眠るを見つめた。
特に苦労をかけていたのは自分だという意識が、今の翼にはある。
それを思えば、偶の居眠りくらい許してやらねばなるまい、と溜息をついて、何か掛けるものの用意を、と永田を呼ぼうとした時だった。



視線を外した、そのほんの一瞬に。
ぐらりと大きく傾いだの上半身が、翼に向かって倒れ込んだ。
突然膝の上で跳ねた重量に驚いて、声に出しかけていた永田の名前を飲み込み、無言で俯いて自分の膝を見下ろした翼の視線の先には、先程よりも更に深いしわを眉間に刻み込んだ、可愛らしいと評するには少し険しすぎる寝顔が転がっていた。



「…………」
「ぅ……」



柔らかな頬の感触が、微かに零れた声の震えが、制服の布越しに伝わる。翼の足を枕にソファに横たわるの身体は、寝返りのひとつも打ったが最後、床に転がり落ちそうな状態で。
下手に身動きすることも出来ず、翼は思わず心中で、これは一体何の拷問だ、と呟いた。






―――への特別な感情を自覚したのは、今からほんの数ヶ月前。
下手な小細工もせず、真正面からまさに全身で体当たり、と言いたくなるような勢いで自分と向かい合うその姿勢が小気味好く、好印象を抱いた。
翼を始めとするB6や、問題児だらけのClassXの生徒たちに注いでくれる愛情は、どこまでも真っ直ぐで純粋で、温かなその感情に触れて、ゆっくりと気持ちは変化していく。
そして芽生えた二つの感情は、教師としてのに対する信頼と、女性としてのに対する恋慕。
教師と生徒と言う関係上、何ら問題のない前者に対し、後者の感情はなかなかに厄介だった。
彼女自身の、翼に対する気持ちがどうなのかはともかくとして、の立場を考慮すれば、あからさまに表に出す訳にはいかないもの。
そして翼にしては珍しく、考えに考え抜いて出した結論が、『自分の卒業を待つ』だった。
教師と担当クラスの生徒という立場が、形式として過去のものになるまで、それまでは彼女の言うところの『大切な生徒』でいてやろう。誰でもない、彼女の為に。
そう心に決めて、面倒な補習も真面目に受け、言われなくても復習もし、受験に備えた。実を言えば、勉強するのも割と面白いと思えるようになっていた。それもが自分を見捨てず、辛抱強く付き合ってくれたからなのだと思うと、彼女の為に自分の気持ちを抑えることも、決して苦ではなかった。






――――――が。



そんな翼の健気な気持ちを根底から揺るがすかのような、現在の状況。
年上の想い人が零す、規則正しい寝息が膝がくすぐる。ほんのりと温かでこそばゆいその感覚に、翼は本気で眩暈を覚えた。
これを神様の悪戯と言うなら、随分と性質の悪い神様である。それこそ清春ばりに性質が悪い。



「……大体、ヒザマクラと言えば男のロマンだと永田が言っていたぞ。女がしてもらってどうする」



少しでも気持ちを紛らわせようと、ぼそぼそと呟いたその一言を聞くものは誰もいない。ここに一か瞬あたりがいれば、『膝枕は女が男にしてやるもの』という、翼の勝手且つバカな思い込みにツッコミの一つも入れたのだろうが、生憎といるのは眠り続けるだけ。
そのは一向に目を覚ます様子を見せず、相変わらず微妙に険しい寝顔で小さく呻いた。首が微かに揺れて僅かに上向き、ちょうど見下ろす翼と真正面から向き合うような形になる。
淡いピンクに彩られた唇がうっすらと開いて、誘うように甘い吐息が零れ落ちた。



「ぅん……」
「……っ」



旅の恥は掻き捨て。後は野となれ山となれ。据え膳食わぬは男の恥。
ぐらつく翼の頭の中を、最近覚えた諺がぐるぐると回る。理性の糸はもう焼き切れる寸前。
はまだ眠っている。先程翼の方に倒れ込んだ時の衝撃でも目を覚まさなかったくらいだ、ちょっとやそっとでは起きないだろう。多分、きっと、ちょっとキスするくらいなら。
ばれない。きっとばれない。大丈夫、ばれやしない。
心の中で繰り返すたびに、上半身がゆっくりと前屈みになっていく。
翼が作り出す影がの上にかかり、重力に従ってさらりと落ちた前髪がの頬を掠める。
唇が重なりかけた、その時。



「……つ、ばさ、く……」
―――!!」



途切れ途切れに名前を呼ばれ、翼は思いっきり仰け反った。あとほんの僅かで触れ合うはずだった唇との距離が一気に遠くなる。
爆発しそうな心臓を押さえて、恐る恐る視線をに戻すと、瞼は閉じられたまま。
目を瞠る翼の耳に、先程と同じ、途切れがちの声がそっと飛び込んできた。



「……まちが…おぉすぎ、る……」
「……………………」



どうやら夢の中でも補習中らしいの寝言に、強張っていた翼の肩ががっくりと落ちる。自分の夢を見てくれていることを喜べばいいのか、間違いが多過ぎるなどと失礼なことを抜かすなと怒ればいいのか、はたまた寝言でせっかくの好機をふいにされたことを悲しめばいいのか。
大きく息を吐き出すと、少しずつ気持ちが落ち着いていった。同時に、自分のしかけたことへの後悔と、愚かな行為を寸前で止めてくれた(の寝言)への感謝が沸き起こる。



「……Sorry, 先生……」
「…………」



謝罪の言葉を呟いて、指先で目に掛かる髪を横に流す。起こさないように、慎重に。
寄せられたままの眉間にも、そっと指を這わせて、優しく撫でる。これくらいは流石に許されるだろう、と考える翼の視界で、緩やかにの表情が変化した。険しさが消え、一転して穏やかなものへと。
先程無意識に翼を翻弄した唇に、ふわりと浮かんだのは優しい笑み。



「……に、がん、ばろ、ね……」
――――――



すう、と穏やかな寝息をたてて、は眠り続ける。
その寝顔を静かに見つめて、翼は指先での髪をひと房掬い取り、そっと口付けた。
愛しむように、祈るように。今はまだ告げられない想いをこめるように。










[ 070610 ]