「―――出掛ける?」 「うん」 眉をひそめて聞き返した翼の言葉に、はあっさりと頷いた。 翼の放り出したジャケットを手に、華奢な身体がウォークインクローゼットの中へ消える。ネクタイを緩めながらその後を追いかけた翼は、クローゼットの入り口を塞ぐように仁王立ちになった。 広いクローゼット内を動き回る年上の恋人に不機嫌な視線を向け、翼は再び口を開く。 「おい、」 「なあに?翼君」 「明日は俺の二週間ぶりの休日だぞ」 「あら、三日前にゼミが休講になった時、半日お休みが取れてたじゃない」 「……二週間ぶりの、朝から晩まで空いている休日、しかもweekendの、だ!」 揚げ足を取られて律儀に言い直すと、は小さく吹き出した。ネクタイやタイピンを片付けながら、先程から同じ姿勢で立ち塞がっている翼を振り返り、だから何?と言うように小首を傾げる。その仕草はひどく愛らしく、翼は危うく怒りを殺がれてしまいそうになった。 何とか気を取り直し、わざとしかめっ面を作って20センチ程下にある顔を睨む。訳もわからず睨まれて流石にカチンときたのか、も笑みを消して睨み返してきた。 「もう、何なの?」 「そのせっかくの休日に、俺を置いて出掛けるとはどういうことかと訊いている」 「その二週間前の休みに話したでしょ。大学の同窓会があるって」 「class reunion だと……?」 ぽつりと復唱した単語が、二週間前の会話を脳裏に蘇らせる。そう言えば確かにそんな話を聞いた気もする。だが、しかし。 「……次の休みがいつになるかわからんのに、俺を放って出掛けるのか」 「そんなこと言ったって、前からの約束なのよ。すごく久しぶりに会う友達だって大勢いるし」 「知らんな。明日は俺と一緒にいろ!めいれ」 「そんな命令は聞けません!」 じろりと上目遣いに睨まれ、翼はぐっと言葉に詰まった。強い口調ときりっと眉尻をあげた表情は、有無を言わせない迫力に満ちている。先程の愛らしい表情と同一人物とは思えない。 しかし素直に折れるのは癪で、拗ねてついとそっぽを向いた。その顔を見て仕方ないとでも言いたげに小さな溜息をついたは、優しく微笑んで宥めるように翼の頬を撫でた。 「同窓会って言っても、ホテルのレストランでランチして、その後ちょっとお茶するくらいなのよ。夕方にはこっちに来るから、夕飯は一緒に食べましょう、ね?翌日は日曜日で休みだから、泊まっていくわ」 「……それなら俺も一緒に行く」 「ええ!?何言ってるの、無理よ!もう予約人数の変更は出来ないし、それに同窓会に同窓生以外が参加するなんて、普通はしないわよ」 「つまらん!一人でどうやって暇を潰せと言うんだ!?」 「そんなの、大学のレポートとか、友達と遊びに行くとか、いくらでもあるでしょー!?とにかく駄目!」 子供じみた我儘に呆れた顔で言い返し、未だクローゼットの入り口を塞いだままだった翼を押し退けて、さっさと居間へ歩いていく。翼が再びその背中を追いかけて居間へ戻ると、はソファにおいてあったスーツのジャケットに袖を通し、カバンを手にして振り返った。それが帰り支度とわかってはいたが、翼はあえて声に出して問い掛けた。 「どこに行くんだ」 「帰るのよ、もう22時だもの。明日の支度もあるし」 「泊まって、ここから行けばいいだろう」 「もう、無理言わないの。着替えも持って来てないのに」 「spare clothesならうちにも何着か置いてあるだろうが」 「置いてあるのは全部普段着じゃない。着ていく服はちゃんと決めて用意してあるんです!他にも、友達に持ってくものとか色々家にあるのよ」 「永田に取りに行かせればいい」 「いくら永田さんでも、私がいない間に勝手に家に上がり込まれるのは嫌です!」 「〜〜〜ッ」 「明日の夕方にはちゃんとこっちに来るから!終わったら電話するから待っててね?」 「ちょっ……待て、ッ」 「待てない!じゃあね、おやすみなさい」 捕まえようと伸ばした手は届かず、指先10センチのところで、重い音を立てて玄関扉が閉まる。 無情な恋人のつれない仕打ちに憤慨しつつ、翼は彼女のもの以上に呼び慣れた名前を唇に乗せた。 「―――永田!」 「―――はい、翼様」 「あいつの大学はわかっているだろう。急いで調べて手配しろ」 「……了解致しました」 どこからともなく現れた永田が、再び静かに姿を消す。居間に戻った翼は、テーブルの上に放り出していた携帯を手に取り、リダイヤルで通話ボタンを押した。 コールは三回、やがて聞こえてきた声に応えながら、窓の外へと目をやる。濃紺の闇に浮かび上がる無数の灯りの中、家路を急ぐ恋人の姿を思い起こしながら、翼はそっと瞼を閉ざした。 「―――俺だ。明日は暇だな?」 明けて翌日。 新調したワンピースに身を包んだがホテルに入ると同時に、明るい声が響いた。 「ー!こっちよ、こっち!」 「!しーちゃんも、キャー久しぶりー!」 「ホント久しぶり!早いじゃない」 「アハハ、道に迷って遅れるのが怖くて、かなり余裕持って出てきたの」 「相変わらず方向音痴なのね」 より先に来て、ロビーにあるティールームの一席に陣取っていた友人たちに、笑顔で手招かれる。 土曜の昼間という時間帯の所為か、広いロビーには人影が多い。は人の間を縫ってそのテーブルに歩み寄り、空いた椅子に腰を下ろした。 「元気してたの?最近、声かけても全然誘いに乗ってこないから心配してたのよ」 「ごめんね。去年、高等部に赴任になって、三年のクラスを受け持っちゃったりしたもんだから」 「ああ、それで!受験生の担任じゃ忙しいわよね」 「うん。……まあそれだけじゃないんだけど……」 「え、何?何かあったの?」 おちこぼれクラスの担任になり、その中でも更に大問題児の超絶美形六人と、一年間に渡って真っ向ガチンコ勝負(と言う名の補習)を繰り広げ、挙句の果てにその内の一人と恋人同士になりました……なんて言って、果たして信じてもらえるかしら……とは遠い目をして、運ばれてきた紅茶のカップに口をつけた。 しかもその六歳下の恋人は、世界でも屈指の財閥の跡取り息子です、などと。荒唐無稽な作り話としか思えないその真実を、どのように友人たちに伝えればいいものかと悩むの耳に、その時複数の別の声が賑やかに飛び込んできた。 「お、何だ早いな、お前ら」 「あー久しぶりー!そっちこそ」 「俺らが一番乗りだと思ったんだけどなあ」 「あれ?もしかして?うおっ、マジで久しぶり」 「お久しぶりー」 三、四人の男友達が、ひらひらと手を振って近づいてきた。懐かしい顔ぶれに、表情を綻ばせて手を振り返す。たちの隣のテーブルに座った男性陣は、学生時代と変わらない調子の良さで、朗らかに会話に加わった。 「すげー久しぶりだよなー?」 「去年の集まりには来てなかったろ、」 「うん、仕事が忙しくて」 「頑張ってガッコの先生やってんだ」 「まあね。去年はちょっと大変だったけど、今年はやっと余裕が出て来た感じかな」 「ふーん。あーでも、確かにちょっと痩せたんじゃねえの?」 一番近い席に腰掛けていた男友達が、何気ない仕草で手を伸ばし、の頬をぺしりと叩く。学生時代にも似たようなじゃれあいはしょっちゅうだったので、は特に気にも掛けず、やめてよと笑って軽口を叩いて、その手を押し返そうとした―――時だった。 「うおっ!?」 背後でがたがたっと大きな音が響き、の手が押し返すはずだった友人の手が、高々と掴み上げられた。驚いたや他の友人たちが声を上げるより早く、艶のある美声がロビーに響き渡る。 思わず聞き惚れてしまいそうな、しかし含まれた不機嫌の要素の所為で、どこかひび割れた、声。 「―――こいつに触れるな!」 「…………!」 台詞と同時に、友人の腕が乱暴に振り払われる。続いての身体が勢いよく後ろに引っ張られ、気がつけば有無を言わせず唇を奪われていた。 大きく開いた視界いっぱいに、癖のないプラチナブロンドと、その間に見え隠れする伏せられた双眸が映る。見覚えのありすぎる稀有な美貌。同様に憶えのありすぎるキス。 引き寄せた腕の力は一向に緩まず、深い口付けはたっぷり30秒近く続いた。 唇は開放されたが、抱きしめる腕は未だ緩まない。が、が真っ赤な顔を上げて睨みつけると、翼は少し怯んで視線を横にずらした。 「……つ〜ば〜さ〜く〜ん〜!一体ここで何してるの!!て言うか何するのよー!!」 「……お前に言われたように、友人と遊んでいた」 「はああ!?」 「今はここでteatimeの最中だったんだ。そうだろう、お前ら!」 その言葉に嫌な予感を覚えて、無理やり翼の腕の中から抜け出し、その背後を覗き込む。 少し離れた八人掛けのテーブルで、手を振ったりニヤニヤと楽しげに笑っている、見慣れた顔を五つ見つけ、は思わず眩暈を覚えた。 よりにもよってB6が勢揃いしているのだ。これだけ目立つ集団なのに、何故気づかなかったのかと自分を責めるの前で、若干開き直ったらしい翼が、やたら偉そうに顎を反らせた。 「ほら見ろ、俺はあいつらと茶を飲んでいただけだ。入ったtearoomにお前がやってきたのは、全くの偶然、accident だぞ。Is there an objection?」 「…………異議があるか、ですって?」 「……な、なんだ」 「あるに決まってるでしょうが!大有りよーっ!!」 「What!?お前が言った通りにしてやっただろうが!場所が被ったのは偶然だと……」 「こんな出来すぎた都合のいい偶然がありますかっ!」 「俺が偶然と言ったら偶然なんだ!」 「〜〜〜っ!」 「まあまあ、ちょっと落ち着けって二人とも」 あまりに無茶苦茶な言い分に、呆れて言葉が出ないの視界が不意に翳る。翼との間に割って入った一の背中の所為だ。続いて、腕に誰かがしがみついてくる。右側で柔らかな金髪が揺れ、左で響いた耳慣れた独特の笑い声が鼓膜を震わせた。 「セーンセ!あんまり翼のこと怒っちゃダメー!翼がポペラ可哀想でしょっ?」 「ちょっ、ちょっと、悟郎君!あのねえ」 「つーかァ、ブチャにもわかりやすいように妬いてくれてンだロ、カベはよォ!こんだけ愛されてりゃ、女冥利に尽きるってモンじゃねェ?許してやれヨ、キシシッ」 「そーいう問題じゃなーい!」 「っ別に妬いてる訳じゃない!それより離れろ、悟郎、清春!」 からかう清春の言葉に、と翼の声が綺麗に重なった。 悟郎は面白がってますます強くしがみつき、清春も悪ノリしての頬に唇を寄せる。ヒートアップする翼を抑える一に、瞬が面倒そうな表情で加勢する。テーブルで眠りこけている瑞希を起こそうと、トゲーが躍起になって髪を引っ張る。一年前を髣髴とさせる大騒ぎに、とうとうは完全にキレた。 「いい加減にしなさあぁぁい!!」 『―――!』 ぴたり、と騒ぎが止み、瑞希を除くB6は揃っての傍から一歩退いた。 てんでバラバラに視線を反らしてとぼける5人を睨みつけ、は真っ直ぐホテルの入り口を指差した。 「お説教は後日改めてしてあげるから、今日は皆もう帰りなさい!」 「……なんで俺まで叱られなきゃならん……」 「何か言った、瞬君!?」 「別に何も言っていない」 「、俺はだな!」 「問答無用!即刻ホテルから出るっ!!」 「…………」 「……素直に言うこと聞いといた方が良さそうだぜ、翼」 「……クッ、止むを得ん……永田!」 ぼそりと呟いた一の言葉を受け、苦々しげに呟いた翼が永田を呼ぶ。 まだ何かあるのかと思わず身構えたの前で、いつものようにどこからともなく現れた永田に、翼は不本意そうな表情を崩さぬまま、短い一言を投げかけた。 「撤収させろ」 「全員撤収で宜しいのですか?」 「……一人は残せ」 「かしこまりました。では、翼様さえ宜しければ私が」 「構わん。俺たちは家に戻る」 「では、後ほどお部屋までお連れ致します」 「任せる」 よくわからない会話に、そこはかとなく嫌な予感を憶えたが、翼に声を掛けるより早く。 ロビーにいた人々が一斉に出入り口に向かって歩き出し、と事の成り行きを呆然と見守っていた友人たちは、驚いて目を瞠った。 溢れていた人があっという間に消え、一気に閑散としたロビーに、能天気なB6たちの声が響く。 「あんだけの人数が一気に動くと流石に壮観だなー」 「チッ、下らんことに人手を割きやがって……」 「ヒャハハッ、ナーナァ!お前も時給計算してもらったらいーンじゃネェ?」 「ねえねえ翼ぁー、パピッとセンセに謝っといた方がいいよぉ?」 「どうせ後で説教されるんだ、その時でいいだろう」 「えっとね、センセにって言うか、先生のお友達に?さっき、腕掴んで捻ってたでしょ?」 「…………おい、そこのお前!」 悟郎の言葉を受けて忌々しげに足を止め、振り返った翼に指差された友人が、びくっと肩を震わせる。 反射的に「人を指差すんじゃありません!」と叫んだの前で、翼は不本意そうな表情で友人を睨みつけ、口を開いた。 「さっきは悪かったな。……だが、は俺の恋人だ!今後一切、触れることは許さん!」 「ちょっと、翼君!」 「次に少しでも触れた時は、南極あたりまで飛ばしてやる。覚悟しておけ!」 「いい加減にしなさいって言うのに!……って、ちょっと、瑞希君もちゃんと連れて行ってあげなさい!」 テーブルで未だにぐっすり寝こけていた瑞希を、半ば引き摺るようにしてB6が去り、ロビーにはと友人たちとホテルの従業員、そして永田だけが残った。 ぐったりと疲れ果て、椅子に座り込んだの前に、冷たい水の入ったグラスが一つ置かれる。どこかずれた気遣いをする永田を見上げ、は力なく呟いた。 「……ありがとうございます、永田さん。でも、出来れば翼君を止めて欲しかったんですけど……?」 「翼様のなさることを全力で補佐するのが秘書の務めですので」 「そうですか……ところで、さっきロビーを出て行った人たちは?」 「真壁財閥の所有する警備会社より派遣させた警備員です。様の警護の為、翼様に用意するよう申し付けられました」 「…………」 「ところで、様」 「……なんですか?」 グラスの水を一気に煽って息をついたに、永田は常と変わらぬ笑顔で穏やかに問い掛ける。 挨拶ついでに天気や調子の良し悪しを聞くような感じで、至極あっさりと。 「ご友人の方々に、状況をご説明なさらなくて宜しいので?」 「――――――!!」 がばっと顔を上げたの目に、自分をぐるりと遠巻きにしている友人たちの顔が映った。 明らかに引きまくっているその表情に、再び眩暈を覚えながらも、ホテルを去る直前の翼の拗ねた様子を思い出して、は少しだけ愉快な気分になった。 そして、この短時間で友人たちに植え付けられたであろう、恋人と元教え子たちの悪印象をどうフォローするか、必死に考えている自分に気づいて、密かに嘆息したのだった。 [070703] |