所詮自己満足でしかないとわかっていても、それくらいしか、貴方にしてやれることがない。
寧ろそれすらも、自分の為でしかないのかもしれない。そうすることでいつか、あの日の別離をなかったことに出来るかもしれないと、そんなふうに。
今でも俺は、貴方の存在に甘えているだけなのかもしれない。

どこまでも不甲斐ない自分を嘲笑うように、灰色の空が落とした冷たい雫が、涙の代わりに頬を伝った。












 ただあいしているだけでいい世界求む












「では、失礼します」



丁重にお辞儀をして永田が部屋を出て行き、広い執務室に翼は一人きりになった。
ガラス張りの壁面に寄り掛かり、遥か下方に広がる歴史が刻み込まれた街並みを眺める。もうすっかり見慣れた、どこか懐かしい匂いのするその景色が、吐き出した溜息に一瞬うっすら白く染まった。

―――この景色を一緒に見たい相手は、傍にいない。






デスクに戻り、先程永田が持ってきたコーヒーに口をつける。
舌先に感じた苦味に、こめかみが軽く疼いた。このところ何かと忙しく、ただでさえ短い睡眠時間が更に削られて、大分疲労が溜まっているようだった。
それでも仕事をしない訳にはいかず、カップを手にしたまま、広いデスクの上に散らばる書類に目を通していく。そのうちのいくつかを片付け終えた時、紛れていた見慣れない封筒に気づき、翼は訝しげにそれを手に取った。
どこにでもあるような、大判の茶封筒だ。何気なく封を開けて中身を確かめた途端、翼の眉間に深い皺が寄った。
眉間の皺はそのままに永田を呼ぶ。瞬く間に姿を見せた永田に無言で封筒を投げ渡すと、素早く中身を確認した有能秘書は、やれやれと言わんばかりに溜息をついた。



「こちらの目を盗んで紛れ込ませたようですね。確認を取りますか?」
「いい。目立つところに捨てておけ」
「かしこまりました」



永田は来た時と同じように瞬く間に退出し、また一人になった途端、先程も感じた疼きが再びこめかみに走り、軽い眩暈が翼を襲った。さっきまで見ていた書類の細かな文字が、瞼の裏でぐるぐる回り、気分が悪くなってくる。
椅子の背もたれに深くに沈み込み、外した眼鏡をデスク上に放り投げて、手のひらで目元を覆う。日々酷使している所為か、元々悪かった目はここ数年で更に視力が落ちた。



『そんな姿勢でいたら、もっと目が悪くなっちゃうわよ』



いつか聞いた声が脳裏に木霊する。少し呆れた風情で、優しく嗜めるメゾソプラノ。
あれはいつだったか。B6たちが遊ぶ声を聞きながらの補習が気に食わなくて、わざとテーブルに突っ伏してノートに板書していたら、そんな台詞と共に、細い指が眉間に触れた。



『そんな仏頂面しないの。もうちょっとでしょう?』



そう言って笑って、でも結局、その日の補習はいつもより早めに終わらせてくれたのだ。
失礼な態度も、無茶苦茶な甘えも我侭も、全て受け止めて許容してくれた。他の教師のように、翼やB6たちを見捨てなかった、たった一人の先生。
―――

記憶の中で優しく笑うその人の名前を、声には出さずに呼んだら、少しだけ気分が落ち着いた。






と、B6の仲間たちと過ごした一年は、それまで生きてきた中で一番充実していた。
その中で恋をした。いつでも真っ直ぐに自分に向き合ってくれたに。ずっと傍にいて欲しいと思った人。
けれど母のような思いをさせたくなくて、離れることを選んだ。そんな身勝手な言い分を、は静かに受け入れてくれた。
さようなら、と告げたあの時、もう二度と会うまいと思っていた、その決意に嘘はなかったのに。
少し心が弱くなるたび、それはいとも容易く揺らいでしまう。
彼女に甘えたくなる。
会いたい。会って、声を聴きたい。抱きしめて、二度と離さないで、傍にいて欲しい。
今そう願ったら、は何と言うだろう。あの優しい笑顔で頷いて、翼の望みを叶えてくれるだろうか。






自分勝手で都合のいい考えに、翼は自分を嘲るように低く笑った。
通じあっていた想いを断ち切ったのは自身だと言うのに、どこまで彼女に甘えれば気が済むのか。

痛む頭を軽く振ると、翼は眼鏡を掛け直して、椅子から立ち上がった。きっちりと締めていたネクタイを緩めながら執務室を出る。隣室で仕事をしていた数人の秘書が、慌てたように腰を上げて口々に意味のない問いを投げ掛けてきたが、全て無視して足早にエレベーターへ飛び込んだ。
秘書室に永田がいなかったことに、少しだけホッとしながら、一階に到着したエレベーターを降り、人のあまりいないロビーを早足で通り過ぎる。
外へ通じる回転扉まであと少しのところで、誰かが翼の名前を呼んだ。



「翼様、どちらへ?」
「……お前には関係ない」



翼を呼び止めたのは、グループ内ではそれなりの地位にいる男性だったが、翼は頓着しなかった。短い一言だけを返し、止めた足を再び動かそうとしたところへ、嫌味たらしい声が背後で響く。



「そう言えば、たった今、永田がこれを捨てたのを見掛けて拾ったのですが」
「…………」
「処理するにしても、やり方を選ばれるべきではありませんか?このような扱いが先方に知れれば、何かと面倒なことになります」



男性の手には、先程永田に捨てるよう命じた茶封筒がある。それと男性の顔を交互に見やり、翼は不意にそれまで無表情だった顔に、冷ややかな笑みを浮かべた。



「たった今拾ったのなら、封を開ける暇も無かったろうに、中身がわかるのか。大した千里眼だな」
「経験の差と言うものですよ」
「言っておくが、お前がどんな手を使おうと、俺はそんな話を受ける気はないぞ」
「グループの後継者としての義務を怠るおつもりで?」
「別に俺自身の子供でなくとも跡は継げる。真壁の血を引く子供は他にもいるんだからな」
「……!」
「お前に都合のいい縁談など、受けてやる義理は俺にはないな」


翼の言葉に、それまでは決して余裕を失わなかった男性の顔が、初めて歪んだ。
永田に捨てさせた茶封筒に入っていたのは、妙齢の女性の写真とプロフィール。その写真の女性が、目の前にいる男性と縁戚関係にあることを翼は覚えていた。
青褪めて立ち尽くす男性に嘲笑を投げ掛け、翼は今度こそロビーを出て行った。










先程、執務室から眺めていた街並みを、当て所なく歩いていく。どんよりと雲が垂れ込めた空は、今にも泣きだしそうな灰色で、道行く周囲の人々は皆、手に傘を持っていた。
ぼんやりと歩いているうちに、古ぼけた教会の前に来ていた。結婚式でもあったのか、辺りに落ちていた花が風に吹かれて翼の足元へと飛んできた。名前もわからない白い花。
それを目に留めた瞬間、懐かしい声がまた脳裏に蘇る。



『翼君が作ったこのお花が一番なの』



不恰好な作り物の花を髪に飾って、嬉しそうに言ったその一言が、どれほど翼を幸福にしたか、は知っているだろうか。
自分自身の力でにしてあげられたことなんて、数えるほどしかなかった。
が翼にしてくれたことは、数え切れないほどあるのに。彼女が与えてくれた有り余る倖せの十分の一、百分の一も返せないまま、最後まで振り回すだけ振り回して幕を引いたのは、自分で。

だからせめて心だけでもにあげたかった。
だけを想い続ける。他の誰かを見たりは決してしない。彼女一人の為に、独りきりで、ずっと。
今の翼にはそれくらいしか、にしてやれることがなかった。



―――――― そんなことをが望むはずがないと、わかっていても。






冷たい雨が、静かに降り注ぐ。
一瞬強く吹いた風が、足元の白い花をどこへともなく運び去って、翼はまた独りになった。










[070911]