決して手に入らないことが分かっているのはアンタじゃない、私だ。















 
















書きかけの論文との睨めっこに疲れ始め、溜息と共にノートパソコンを閉じて窓の外を見やった時、タイミングを見計らったように窓の外に白い欠片がちらついた。
いつの間にかすっかり夜の色に塗り替えられていた空をキャンバスに、小さな雪片がひらりと舞う。
立ち上がってカーテンを閉めようとしたは、ふと思い立って手を止めると、代わりにデスクの片隅に追いやっていた電話を手に取った。
短縮メモリの一番最初に入っている番号に掛ける。5回の呼び出し音の後、受話器の向こうで不機嫌の塊のような声が響いた。



『俺だ。くだらん用なら速攻で切るぞ』
「……翼。電話に出る時はまず『もしもし』って言うのよ、そんなことも知らないの?」
『相手がわかっているのに、何故そんなroundaboutな対応をする必要がある』
「私の番号だからって私が掛けてるとは限らないでしょうが」
『知ったことか。大体、お前にcommon senseを説かれる筋合いはないぞ。今何時だと思っている!』



苛立たしげに言われて時計に視線を投げる。
いつもならば、そろそろ夕食の準備でも始めようかと言う時間帯だ。



「夕方5時を過ぎたところ」
『イギリスの時間など聞いていない!俺が言っているのはこっちの時間だ、日本は』
「午前1時過ぎね」
『……わかっているならあと7時間後に掛け直せ!』
「嫌よ、その頃にはもう寝ちゃってるもの。夜更かしはお肌の大敵って言うでしょ」
『もう一度言うが、くだらん用なら切るからな。切るぞ!……早く用件を言え!』



切る、切る、と言いながらも結局話を促してくる辺りが翼らしい。
受話器を片手に窓枠に寄り掛かって外の景色を眺めながら、はゆっくりと言葉を紡いだ。



「雪が降ってきたの」
『snow?』
「そう。こっちじゃ滅多に降らないじゃない?」
『……それだけか?』
「そう」
『それを知らせる為だけに真夜中に電話を寄越して、この俺の眠りを中断させた訳か、お前は』
「何となく翼の声が聞きたくなったのよ」
――――――
「翼からは滅多に電話してくれないし。少し前までは毎日のように顔を合わせてた友人がいないって、結構淋しいんだからね?たまにはそっちから連絡してきなさいよ」
『……
「友達でしょ?」



の短い問い掛けに、翼は数秒間の沈黙の後、『そうだな』とやはり短く答えた。
先程までよりも優しく響いた声は、小さな針のように胸の奥をちくりと刺した。自分で口にした言葉の所為で傷ついてるなんて本当に馬鹿みたいだと、翼に気づかれないように声なく笑って、は途切れた会話を再開した。



「そっちはどう?前に話してくれた面白い友達とは再会出来た?」
『仕事が忙しいが、合間に時間を見つけて会っている。揃って相変わらずだった』
「そっか。……彼女とも会った?」
『……いや』



二つめの問いに応じた翼の声のトーンが、ちょっと聞いただけではわからないくらい微妙に下がった。
その声に切り裂かれたように、胸の奥に新たな傷が口を開ける。見えない傷から溢れる痛みを振り切るようには軽く首を振って、殊更明るく言葉を続けた。



「情けないわね、まだうじうじ悩んでるの?」
『……うるさい』
「うるさくて結構。いい加減、覚悟を決めて会いに行って来たら?」
『…………』
「試してもいないうちから父親と同じ轍を踏むのが嫌だとか言って、結局アンタは逃げてるだけよ。前にも言ったけど、自分は仕事と家庭きっちり両立させてみせる、万難排して彼女を幸せにしてやるってくらいの気概を持ったらどうなの。普段は無駄に自信過剰なくせに、いざとなると弱腰なんだから」
『……やってみて出来なかったらどうするんだ。俺は先生を……悠里を、母のようにしたくない』
「出来ないかどうかなんて、やってみなきゃわからないじゃない」
『……もう他の誰かと幸せになっているかもしれないだろう』
「そしたらそれはそれですっぱり思い切れていいんじゃない」
『鬼かお前は!』



電話の向こうの声が少し裏返る。端正な顔を情けなく歪ませている翼の姿が目に見えるようだった。
『彼女』が絡むといつもこうだ。普段の尊大で自信に満ち溢れている彼は消えて、知らない場所に一人ぽっちで放り出された迷子のような、頼りない少年の素顔が覗く。
たった一人の女性を想う時だけ見せる姿。
目の当たりにするたび、『彼女』が特別なのだということを嫌というほど思い知らされる。
翼にとっての特別。この先、どれほど長い時間を一緒に過ごしても、誰よりも近くにいることが出来たとしても、その立場だけはきっと永遠に手に入らない。

拗ねてしまったのか、黙り込んだままの翼の息遣いが、受話器を通して鼓膜を震わせる。
かつて、同じ息遣いを間近で聞いていた頃を思い出しながら、は努めて明るく声を張り上げた。



「冗談だってば!きっと大丈夫よ、思い切って会ってきなさいって」
『……どんな根拠があって、そう言い切れる』
「女の勘」
『一番当てにならん!』
「万が一残念な結果になっちゃった時は、責任持って自棄酒でもなんでも付き合ってあげるから」
『……お前は俺のやる気を煽りたいのか、萎えさせたいのか、どっちなんだ』



翼は深い溜息をひとつついて黙り込み、ややしてほとんど吐息のような、掠れた声で短く告げた。



『お前の女の勘とやらを信じてやる』















通話の切れた受話器を静かに置いて、は再び椅子に腰を下ろした。
背もたれに寄りかかって目を閉じると、先程の翼の息遣いが耳の奥に蘇ってくる。
それをもっとずっと近くで聞いていた時期があった。隙間なく肌を重ねて、吐息を交わらせて、そうしていればいつか心も全て手に入れられるかもしれないと思っていた頃。
忘れられない人がいると言われて、それでも構わないと強引に押し切って始めた恋だったのに、一向にゴールが見えないことに疲れて、結局最後は自分の手で幕を引いた。
――――――がどんなに想っても、どれほど望んでも、翼が『彼女』を忘れる日は永遠に来ないのだと、気づいてしまったから。






閉じたままのの目にじわりと熱いものが滲んで、音もなく頬を滑り落ちた。
ゆっくりと唇を開き、さっきの電話で言うことの出来なかった言葉を、声なく呟く。



どんな結果に終わろうが、彼女を忘れるなんてアンタには出来ないんだから、いい加減観念しなさい。
―――そうしてくれたら、私のこの絶望的な恋も、きっと出口を見つけられるんだから。










[080325]