初めて『好き』と言ってくれたひとと、
初めて『好き』になったひと。


























すーっと意識が戻る感覚。
閉じた瞼の裏は白く明るい。もう朝?
あれ、私いつの間に寝たんだっけなんてぼんやり考えながら目を開けたら、そこにいる筈のない人の顔がこっちを覗き込んでいた。


「よう、目ェ覚めたか」
「……も……桃先輩?」
「何だよ、化けモンでも見たような面すんなよ。起きれるか?」
「え?あ、はい、多分……」
「とりあえずコレ飲んで水分取れ」


そう言ってベッドの上に身体を起こした私の手の中に、ミニサイズのペットボトルが投げられる。
咄嗟に手を伸ばしたけど見事に受け取り損ねて、ベッドから転がり落ちそうになるボトルを慌てて掴んだ瞬間、くらりと世界が回った。


(……あれ……)


真横に身体が傾いで、ヤバイ、と思った、その時。
温かい腕がしっかりと私の身体を抱きとめた。
ボコン、とペットボトルが床に落ちた音を、その腕の中で聞いた。
聞き慣れた優しい声も、一緒に。


「あ……っぶねー」
「桃、先輩」
「悪ぃ、俺がボトル投げたりしたからだな」
「そんな、桃先輩の所為なんか、じゃ」
「でも、風呂でのぼせたのは俺の所為だろ」
「――――――」


返す言葉が出ない私の顔を覗き込んで、桃先輩はなんだから先輩らしくない、ちょっと困ったような、少し淋しそうな、不思議な笑い方をした。


「……ンな顔すんなよなー。襲いたくなるだろ」
「お、襲うってどういう」
「そりゃお前、言葉通りの意味だって。こんな美味しいシチュ、そうそうねぇし?好きな女と二人っきりで、しかも場所は保健室、ベッド完備!」
「…………」
「……マジに取るなって。何もしねぇよ、ホント、冗談」


冗談なのはわかってた。
でも、一つだけ、冗談って言葉で聞き逃してはいけない言葉も混じっていた。
いくら鈍感な私だって、そのことに気がつかないほどバカじゃなかった。
私の眩暈が治まったのがわかったかのようにするりと離れていこうとした腕を、咄嗟に掴んだ。
桃先輩の表情が、ほんの少し、強張ったのがわかった。


「おいコラ。マジで襲うぞ?」
「桃先輩はそんなことするような人じゃないでしょう?」
「……ったく……」
「私、桃先輩のこと好きです」


さっきよりももっとはっきり、桃先輩の表情が変わった。
私を見返す目が、続きを聞きたくないと思っているのは、わかったけど。
とても残酷なことをしているってわかっていて、でもそれでも、言わない訳にはいかなかった。
その結果、優しいこの人を失うかもしれないとわかってても。


「私ホントに手が掛かったのに、優しくしてくれて、ずっと見捨てないでくれて……お兄ちゃんがいたらきっとこんな感じなんだろうなって、そう思ってました」
「…………」
「……ごめんなさい……」


言いながら、もっと上手く言えたらいいのにと思った。
自分の気持ちをもっとちゃんと伝えたいのに、それを表す言葉は出てこなくて、馬鹿みたい何度もごめんなさいと繰り返すしか出来なくて。
俯いた私の頭に大きな手のひらがそっと乗った時には、怖くて思わずぎゅっと目を瞑った。
次に来る言葉を想像して泣きそうになる私の耳に、落ち着いた、低い声がそっと滑り込む。


「謝るようなことじゃねぇだろ」
「…………」
「……ちゃんと答えてくれて、サンキューな」
「桃先輩」
「コレ飲んで寝て、明日もまた、頑張ろうな」


そう言ってさっきのペットボトルを、今度はしっかりと私の手に握らせてくれた。
大きな手が、もう一度私の頭を撫でる。
とても優しい仕草で。太陽みたいな笑顔で。


「明日の試合で、俺の足引っ張るんじゃねーぞ?」
「……はい」
「ンじゃな。おやすみ」


間仕切り代わりのカーテンに半分くらい隠れてしまったジャージの背中を映す視界が、ぼんやりと霞んだ。引き戸の閉まる音が聞こえるのとほぼ同時に、涙が零れた。
頬を濡らす涙が熱くて、知らず知らずのうちに握り締めていた布団の上に落ちたそれが、たくさんの染みを作ったけど、今はそんなことどうでもよくて。
ただ胸が痛くて、泣けるだけ泣いてしまいたかった。
カタリとドアが小さな音をたてても、聞き覚えのある二人分の足音を耳にしても、私は涙を拭かずに深く俯いたままでいた。


……?」
「……ちゃん」


名前を呼んだ二人の声に、掠れた声でゴメンねと返すと、見覚えのあるチェックのハンドタオルとポケットサイズのウェットティッシュが私の手の上に乗せられた。
那美ちゃんのお気に入りの赤いチェックと、巴ちゃんが常備してるメーカーのブルーのパッケージ。
ありがとうと返す声も、掠れて殆ど音にならなかったけれど、二人はまた明日ね、とだけ言って、それ以上は何も言わずに静かに部屋を出ていった。


独りきりになった保健室はとても静かで、壁に掛かった時計の秒針の音と涙混じりの自分の息遣いだけが聞こえていた。
泣いても泣いても、あとからどんどん涙は溢れてきて、一向に止まらなかったけれど。
部屋に満ちる静かな空気が、少しずつ哀しみを癒して心を落ち着かせてくれる感じがした。
しばらくしてから、不意に響いたからりと扉を引き開ける音が、その静けさを破った。
さっき桃先輩の背中を半ば隠していたカーテンの向こうに、今度は背の高い人影が見えて。
それから。


「―――さん?」


優しい声が、名前を呼んでくれた。


「……鳳、さん?」
「その、倒れたって聞いて」


お見舞いに、と続けた言葉の最後は、何だか空気に溶けたように声が掠れた。
それと同時に止まった足音が、数秒間の間を置いてから再び静かな室内に響く。
那美ちゃんが置いていってくれた小さなタオルで目元をぎゅっと押さえてから顔を上げると、まだ少しぼやける視界の中で、心配そうに覗き込んでくる優しい目と視線がぶつかった。


「大丈夫?」
「……平気です」
「何かあったの?」


いたわるように優しく見つめられて、少し落ち着いたかと思った涙腺がまた緩んで、ほろほろと涙が零れて布団を濡らした。
桃先輩がくれた優しさ以上に、鳳さんのくれる優しさを嬉しいと感じる自分に気付いて、また少し胸が痛んだ。
どうしてこんなに好きになったのか知らない。
まだ出逢ってほんの数日なのに。過ごしてきた時間は、桃先輩との方がずっと長いのに。でも。


だけどこんなにも。


「私」


心が。
声に、表情に、視線に。
貴方の全てに反応するから。





「鳳さんのこと、好きになりました」





部屋の中はとても静か。
鳳さんは、驚いたように目を瞠って、じっと私を見た。
言葉と一緒に、また涙が零れた。





「逢ってまだ、本当に間もないのに、こんなこというのおかしいのかもしれないけど」
「鳳さんを好きになったんです」





ふ、と。
空気が揺らいで。
ごわごわしたジャージの袖がそっと私の頬を掠めた。
一段色を濃くした袖の向こうに見える鳳さんの顔が、どこかぎこちなく、緊張した笑顔を作って。
初めて聴いた時からずっと同じ、優しい声が。
囁くように、温かな一言を。
くれた。





「―――ありがとう」










この恋が叶ったかどうかは。
それは、まだもう少し、先の話。





















「恋」シリーズ(とでも命名してみる)完結編です。相互リンクサイト『光と闇の間に…』企画参加作品。
またしても締め切りギリギリ……で、本当に毎回申し訳ないです歌穂ちゃん_| ̄|○il|||li
最後、ちょっとぼかした感じで締めてしまったのですが、好きになったからってほんの数日で簡単に両想いになれる確率なんて、ホント低いと思うので、こんな終わり方にしてみました。
私が書かないだけで(笑)、このあとヒロインちゃんとチョタの間にはまだ色々あると思って下さい。

05/10/13UP