頬を濡らす雪の冷たさが、今はとても愛しい。
あの日の君を思い出させてくれるから。
初雪
はぁ、と漏らした溜息が視界を白く染めた。
今にも降り出しそうにおもく垂れ込めている空の灰色とは対照的に、街は間近に迫ったクリスマスのイルミネーションでキラキラ輝いている。
赤や緑がメインの鮮やかな色彩の渦の中で、目の前を過ぎる人は皆とても幸せそうに見えた。
店頭に所狭しと並んだクリスマスツリーのオーナメントを選ぶ親子連れ、綺麗にデコレーションされたディスプレイに見入るカップル、ケーキの予約券片手に嬉しそうに駆けていく子供。
楽しげで、見ているだけで心が浮き立つようなそんな光景のはずなんだけど。
今の私は、自分でも怖い程冷めた目でそれらを眺めていた。
―――まるで周りに見えない壁があるみたい。
カラフルなイルミネーションも楽しい雰囲気も、私の目には味気ないモノクロームに映る。
世界中にただ一人、私だけが取り残されているような。
――――――サミシイ。
その一言が頭の中をよぎった瞬間、一気にこみ上げたものが視界を揺るがせた。
頬を滑り落ちる熱いものの感触に慌てて下を向く。
堰を切ったように溢れて止まらない涙が、黒々とした冷たいコンクリートの上に点々と染みを作った。
もう随分と前から、あの人の気持ちが自分の方を向いてないことはわかってた。
わかっていたけど、認めたくなかった。
そんなことしたってあの人が私のところに戻って来てくれるはずもないのに、目を逸らして、耳を塞いで。
そうしてずるずると今日まで来て。
でも、もう、駄目。
もう自分を誤魔化せない。どんなに目を逸らして耳を塞いでも、もう自分を騙せない。
ほんの数分前に見たばかりの、瞼の裏に焼きついた光景が。
見知らぬ女の子と幸せそうに歩いていたあの人の姿が、新たな涙を溢れさせた。
止まる気配のない涙を乱暴にコートの袖で拭って、少しクリアになった視界に、不意に白いものが過ぎった。
泣き顔を他人に見られるのは嫌で、深く俯いたままちらりと横に目を走らせる。
さっきと同じ白い欠片がちらちらと上から下へ落ちてゆく。
下を向けば、次々に舞い落ちる白い欠片はふわりふわりと溶けて私の涙の染みを消していった。
「……雪……」
降り出した雪は瞬く間にその勢いを増して、大きくなった雪片が次から次に視界を過ぎり、視界を白く染め替えた。
イルミネーションに更に鮮やかさを添えるように色とりどりの傘が街を埋めていく。
降りしきる雪とたくさんの傘が、周囲の人の目から私と私の泣き顔を隠してくれた。
見上げた空から落ちてくる冷たい欠片が、涙で濡れた頬に触れて瞬時に溶ける。
涙の所為で火照った頬に冷たい雪の感触はひどく心地よくて、だけど溶けてしまうとまるで流れる涙の量が増えたかのように感じられて、余計に哀しくなった。
涙でぼやける視界の中で、白く染まってゆく景色はとても綺麗で。なのに。
―――雪が嫌いになりそう。
雪が降るのを見るたびに今日のことを思い出しそう。
重苦しい気持ちを吐き出すように、そっと目を閉じて溜息を一つついた、その時。
不意に、頬に触れる雪の感触が途絶えた。
不思議に思って瞼を上げた私の視界に映ったのは、舞い落ちる白い雪片でも灰色の空でもクリスマス色の街並みでもなく。
深い、深い、青い色。
そして聞き覚えの無い男の人の声が、そっと耳を打った。
「―――――-あの、良かったらこれ、使って下さい」
男の人のと言うより男の子のと言った方がいい、少し高めの声。
ゆっくりと声のした方を振り向くと、随分と高い位置からこっちを見下ろしている眼差しにぶつかった。
背の高い、男の子。
視界を染めた青はその子が差しかけてくれた傘の色で、傘の柄を握っているのとは反対の手は綺麗に折り畳まれたハンカチを私に向かって差し出していた。
銀色の髪、褐色の目。優しい顔立ちの、知らない男の子。
でも着ている制服には覚えがあった。
二年程前まで彼と私が着ていたものと同じ白いブレザーは、傘の青を映してうっすらと水色に染まっていた。
ああこの子、氷帝の生徒なのか。
何だか酷く鈍くなってる頭の片隅で、ぼんやりとそんなことを思った。
何を言うでもなく見つめる私を、その子は少し困ったような表情で見返して、手にしたハンカチをもう一度差し出した。
「濡れたままだと風邪を引きますから。……あんまり役に立たないかもしれないけど」
見ず知らずの、しかも雪の中で一人で泣いてるような女に話しかけたばかりか、心配までしてる。
何てお人好しな子なんだろう、そう思ったけど。
こっちに向けられた眼差しは、とても優しくて温かくて、本当に心から心配して言ってくれてる言葉なんだとわかって。
私は寒さに凍えた指先を伸ばしてそのハンカチを受け取った。
「……どうもありがとう」
「いえ。傘もどうぞ」
「傘まで借りる訳には……貴方が濡れちゃうでしょ」
「俺は大丈夫です。知り合いの傘に入れてもらいますから」
どうぞ、と空いている方の手に傘の柄が押し付けられる。
反射的に受け取ってしまったそれはまだその子の手の温もりが残っていて、冷え切ってかじかんでいる私の手にじんわり染みた。
私が傘の柄をしっかり握ったのを見て、その子は嬉しそうに笑った。
その笑顔に思わず目を瞠った時、少し離れたところから呼びかける声が響いた。
声のした方に目をやると、目の前の彼と同じく氷帝の制服を着ている男の子たちが数人、「いつまで待たせんだ」とか、「鳳ー、いつまでナンパしとんのや」とか、「長太郎、先行っちまうぞ!」とか口々に叫んでいる。
その中の、黒髪に眼鏡の子が口にしたナンパという単語に、「おおとり」「ちょうたろう」と呼ばれたその子は顔を真っ赤にして「違いますっ」と叫び返してから、恐る恐るといった風情で私の方を見た。
こっちを向いたその表情はさっきまでの彼よりも随分と幼く見えて、私は一瞬泣いていたことも忘れて笑ってしまった。
笑った私を見て彼は一瞬目を丸くして、それからまだ赤い顔で照れたように微笑んで。
そして小さく会釈をすると、くるりと身を翻した。
「じゃあ、失礼します」
「え、あっ……」
呼び止める間もなく、白いブレザーの背中は雪の中をあっという間に遠ざかっていって。
何やかや言いながらちゃんと彼を待っていた男の子たちは、自分たちより背の高いその子を小突いたり背中を叩いたりしてから、その場を歩き去った。
止まない雪の中、それからしばらくの間、私はその場に立ち尽くしていた。
何だか夢か幻でも見ていたような気分で、でもまだ仄かに温かい傘の柄の感触と握り締めたままのハンカチが、あの優しい「おおとり」「ちょうたろう」君の存在が現実のものだったことを私に教えた。
そして彼が貸してくれたハンカチをそっと頬に当てた時、いつの間にか涙が止まっていたことに気がついた。
頬に触れる雪の冷たさもいつの間にか気にはならなくなっていて。
さっきまで感じていた『淋しい』と言う感情の代わりに、優しくて温かい何かが心の中を満たしていた。
――――――鮮やかに街を彩るクリスマスイルミネーションにふと魅入った時、背後から伸びた腕がふわりと私を包み込んだ。
すぐ傍で聞こえたのは穏やかで優しい声。
「さん?どうしたんですか、ボーっとして」
声と同時にふわりと耳元にかかった暖かい吐息のくすぐったさに目を細めて、肩越しに抱きしめる腕の持ち主を振り返る。
目の前で揺れた銀色の髪は、たった今思い出していた記憶の中のものと同じ色。
その下で柔らかく微笑む褐色の瞳も一年前と同じ。
微笑みを返して、回された腕にそっと自分の手を重ねた。
「――― 一年前のことをね、思い出してたの」
「ああ……そっか、ちょうど一年前でしたっけ」
「うん」
私が彼と出逢った日。
あの日彼と出逢えていなかったら、今の私もあの日の私と同じように、たった一人取り残されて幸せそうな光景に冷めた視線を返していたかもしれない。
淋しくて、淋しくて淋しくて。
その淋しさに囚われて一人ぼっちで泣いていた私に、優しさをくれた男の子。
彼が着ていた懐かしい制服を頼りに、貸してくれた傘とハンカチを返しに行った。
それから一年。
「さんと初めて会ってからもう一年も経ったなんて、実感わかないな。時間が経つのって早いですね」
「うん、あっという間だったね」
「ホントですね」
ぽつりぽつり、言葉を交わして、見つめあって、微笑みあう。
抱きしめてくれる腕は温もりと一緒に安心を与えてくれる。
何も言わなくても確かに気持ちは通じ合っているとわかる、不思議な安堵感。
その心地よい感覚に浸りながら、再びカラフルなイルミネーションに魅入っていた私たちの視界を、不意に白いものが過ぎった。
一瞬顔を見合わせて、それから二人一緒に灰色の空を見上げる。
次々に舞い落ちる雪が、一年前と同じように色鮮やかな街を白く染めた。
「やっぱり降り出した」
「予想的中ですね。―――冷たくないですか?」
ふわり掠めた雪の感触に反射的に頬に指を這わせた私の顔を、彼がそっと覗き込む。
前髪が擦れあうほど近いその顔に、ときめきと安心感を半々くらいに感じながら、私はそっと首を横に振った。
「全然平気。雪、好きだもの」
「でも冷たいでしょう?」
「大丈夫。長太郎君と一緒にいれば、全然気にならないよ」
貴方がいたから。貴方とあの日出逢えたから。
今もこの白くて冷たくて綺麗な氷の結晶を好きだと思えるの。
ささやくように告げた私の言葉に、長太郎君は嬉しそうに微笑んで。
抱きしめる腕にそっと力を込めて私を引き寄せて、こめかみにそっと口付けた。
相互リンクサイト「リズムにHIGH!」2005年クリスマス企画参加作品。
素敵な企画に参加出来て本当に幸せです。ごうごうさん、これからもどうぞ宜しくお願い致しますv
素晴らしい機会を与えて下さって、本当にありがとうございました!
05/12/24UP