小刻みに震える手が、まるで自分のものではないようで。
どうしたらいいかわからない、という感情を、初めて味わった。
理 由
「やだ……なんでいるの」
目が合った瞬間、俺に向かって口を開いたあいつは、いつもと同じだった。
ただ、投げかけた言葉に含まれた水分と、夕日の朱とは違う赤い色に染まった目の色だけが、いつもと
違っていた。
人気のない、放課後の教室。
小さく息を吸い込むと、今は物置代わりになっている空き教室の乾いて埃っぽい空気が、喉に嫌な
引っ掛かりを残した。
「……それは俺の台詞だぜ。こんなところで何やってやがる」
「関係ないじゃない。跡部こそ何してんのよ」
「物音がしたから気になって覗いただけだ」
「ああ、そう。じゃあもう気が済んだでしょ、行けば?」
「お前に指図される謂れはねえよ」
こ憎たらしい口調は普段と変わらないように聞こえたが、よくよく耳を澄ませば、やはり僅かに水分を含んで不明瞭に響く。
……泣いていたのだとわかる、響き。
後ろ手に扉を閉めて一歩踏み込むと、は微かに眉間にしわを寄せた。
それ以上近寄るな、と言う無言のサイン。
従ってやる義理はないと思いながら、もう一歩を踏み出して、そこで一旦足を止めた。
日が沈む寸前の弱い光が差し込むだけの薄暗い教室内で、中途半端な距離を保って向かい合う。
が、すん、と小さく鼻を鳴らす。
さっきまではわからなかった、頬の上に残る涙の跡には、あえて気がつかない振りをした。
今、それを言うべきではないと思った。
「……今の教室と対して変わらねえ広さのはずなんだが、やけに狭く感じるもんだな」
「……この教室にいた頃のアンタ、今より20センチは小さかったもの」
「お前だって人のことは言えねえだろうが」
「でも、あの頃は私の方が高かったわよ、身長」
「男より女の方が先に伸びるのはよくある話だろ」
「そうね。いつの間にかみんな私より大きくなっちゃって、ムカつくわ」
そう言った後に零した掠れた笑い声が、埃っぽい床に落ちて力なく響いた。
かれこれ10年ぶりに足を踏み入れた教室は、机と椅子こそ昔と変わらず並んでいたが、それ以外はこれと言って何もない所為か、酷く殺風景だった。
少し乱れた並びの机の一つにそっと指を這わせる。
その低さにらしくもなく驚いて、そんな自分が少しおかしくて少しだけ笑う。
懐かしさと同時に、妙な余所余所しさと違和感を感じた。
絵柄は合っているのに形が合わないパズルのピースのような。
今の自分を当て嵌めることは出来ない場所。
――――――今よりもずっとガキで、今よりも多分、いろいろな意味で自由だった頃の、居場所。
「こんなに小さかったとはな」
「感傷?らしくないの」
「ほっとけ」
「ふふ。……でもホント、小さい。これに座ってたのよね、私も、跡部も……
宍戸も、忍足も、向日も、ジローも、滝も、みんな」
「岳人とジロー辺りは今でもこのサイズでいけるんじゃねえか」
「さすがに無理だって。あいつらが聞いたら怒るわよ」
「いつもうるさいのが二人してちょっと吠えたところでどうってこともねえよ」
「……本当に俺様っぷりに磨きがかかったわよね。あの頃はもう少し可愛げがあったわよ、アンタ」
「お前もな」
間髪を入れずに切り返すと、軽く唇を尖らせて睨んでくる。
そういう表情はガキの頃と同じだ。
喜怒哀楽がすぐに顔に出るのが面白くて、よくからかって遊んでいたのは俺と忍足で。
と一緒にからかいの的になっていたのが宍戸と岳人で、慰めたり宥めたりはジローや滝の役目だった。
あの頃は、そんなやりとりが当たり前で、一緒に過ごす時間が当たり前で、変化することなど何一つないと思っていた。
酷く単純な、子供であるが故の、純粋さで。
永遠に続くことを疑うことすらしなかった。
変わらないものなどあるはずもなかったものを。
―――変化の兆しは、幼稚舎から中等部へ上がるより少し前辺りから。
自分たちに向けられる他者の、特に女の、視線に含まれる感情に誰ともなく気付き始めて。
中等部に上がるとそれはより顕著になり、俺たちの間の距離を少しずつ変えた。共有する時間が減った。
それと同時に訪れた変化。外側だけでなく、それぞれの内側に。
俺たちはもう、純粋で単純な子供ではなく。
男で、女だった。
突然響いた小さな物音が俺の意識を今に揺り戻した。
音の出所に目を向けると、教壇へ上がったが、俺に背を向けて黒板と向かい合っていて。
差し上げた腕の先、白く細い指が、チョークの粉でうっすらと曇る黒板をなぞり、何か文字を描き出す。
傍に歩み寄って読み取ろうと目を凝らすより先に、広げた手のひらが黒板を撫でて浮かび上がる文字を消した。
斜め後ろから見えたの顔が、一瞬歪んで。
ぽつりと零れた涙が、埃を被った教壇に、一段濃い色でドット模様を描いた。
かき消された文字が示すものがの涙の理由だと、何の根拠もなく思った。
「……跡部」
呼びかける声に、床に落とした視線を上げる。
制服の背中は細く小さく、酷く頼りなく。
それを見た瞬間、一気にこみ上げた何かが、俺の肩を小さく揺らした。
振り向かないの背中に向かって、いつもの自分の声で短く応える。
たったそれだけのことが、今はやたら難しかった。
「……なんだ」
「なんで今日、ここに来たの」
「……ちょっとした気まぐれだ」
「そっか」
「そういうお前は?なんでここに来た」
「……私?」
鸚鵡返しの俺の問いかけに細い肩が揺れて、ゆっくりとが振り向く。
頬に伝う涙を拭いもせずに。
10年前の面影を確かに残しているのに、まるで違う女のようにも思えるその顔に、見たこともないような、
酷く大人びた笑みを浮かべて。
「気まぐれ、かなあ」
「――――――」
――――――身体の一番深い場所から迫り上がってきた、名状しがたい、狂おしいほどの感情が
胸を満たして、物理的なものとは違う息苦しさが俺を襲った。
微かな、小刻みな震えが、肩から腕、腕から手、手から指先へと伝う。
との間に横たわる、複雑で半端な距離を、滅茶苦茶に壊してしまいたいと思った。
腕を伸ばして、捕まえて、抱きしめて、キスをして。
そうしてしまえたら。
そうしてしまったら。
そうしてしまいたい。
出来ない。
壊したい。
壊せない。
失えない。
―――――― うしないたく、ない。
「……」
「…………」
こちらに向けていた眼差しが、ほんの僅か、見開かれたのがわかった。
何年ぶりかに唇に乗せた名前は、思っていたよりも自然に零れ出て、あいつと俺の鼓膜を振るわせた。
「帰ろうぜ」
「……うん」
珍しく素直に頷いて、ゆっくりと教壇から降りて静かに俺の隣に並んだ。
軽く視線を合わせただけで、何一つ言葉も合図も交わしていないのに、踏み出した足は同時で。
ゆっくり歩いて、扉まで来て同時に足を止める。
何も言わず先に廊下へ踏み出したに続こうとして、俺は、一瞬だけ。
濃緑色の黒板を振り返った。
うっすら白く曇った黒板の上でかき消された文字。
の涙の理由。
「―――景吾?」
懐かしい呼び掛けに視線を戻すと、白熱灯の白々とした光の下で、じっと俺を見上げると目が合って、俺は微かに口の端を引き上げて笑った。
「……何でもねえ」
「…………」
「行くか」
「……うん」
小さな音を立てて扉が閉まる。
もう振り向くことはしなかった。
振り向いたところで何が変わる訳でもない。あの頃に戻ることなど出来るはずがない。
この先分かれてしまうそれぞれの道が一つに合わさることもない。
なにより。
消された文字が見える訳もない。
それに。
見えなくても、読めなくても、わかっていた。
かき消された文字が示すもの。
に涙を流させる『誰か』が、自分ではないということだけは。
何故にうちのぼっさまはこうもヘタレorz
相互リンクサイト『リズムにHIGH!』様、2006年クリスマス企画参加作品。
キャラソンをお題として創作しようという企画、初めての試みでしたが楽しかったですv
まるなさん、今年も参加させて下さって本当にありがとうございました!
06/12/31UP