「―――大丈夫ですか?」
頭上で響いた声に顔を上げる。
涙と落ちかけの化粧でぐちゃぐちゃになった顔は結構酷い状態だったはずなのに、それを真正面から直視しながら、動揺の欠片も見せずにタオルを差し出した男の子。
綺麗なその顔には見覚えがあった。
つい先日まで教育実習でお世話になってた高校の生徒。3年C組佐伯虎次郎君。テニス部所属。
受け持ったクラスの子じゃなかったけど、人気者なんだよって懐いてくれた女の子たちが教えてくれた。
「こんなとこに座り込んでたら危ないよ。そこの店にでも入りませんか?―――先生」
いつもの私だったら、結構ですの一言であとは無視しちゃうような科白。
でもその時の私は正直、めちゃくちゃ弱ってて。
その言葉も、そこに付随してきた優しい笑顔と差し出された手も、無視するなんて出来なかった。
片隅の秘め事
駅前のドーナツショップはこの時間帯には珍しく、あんまりお客がいなかった。
店の一番奥、ぽつんと隔離されたような位置にある四人掛けの席で俯いていた私の顔に、ほんのり温かい物が触れる。
微かに顔を上げると、佐伯君が店内の洗面所で絞ってきたらしいタオルを差し出していた。
「一回化粧落としちゃった方がいいですよ」
「あ、りが、と……」
「俺ちょっと何か買ってくるんで。何かリクエストありますか?」
「いえ、特に、何も……」
「じゃあ適当に、俺セレクトで」
にこりと笑って、財布片手にレジに向かう。
その背中をぼんやり眺めながら、自分のバッグから鏡を取り出してタオルで顔を拭った。
元の化粧はほとんど涙で流れてしまっていたので、ぐちゃぐちゃの顔はタオルで擦るだけでも何とか見れるくらいに回復した。
最後に流れたマスカラの跡を拭き取ったところで、お皿やカップの乗ったトレイを持って彼が戻ってきた。
紅茶の優しい香りがふんわり鼻先をくすぐる。
「先生、紅茶好き?」
「うん」
「ミルクと砂糖は?」
「……入れます」
「じゃあちょっと甘めで」
さっきより少し砕けた口調でそう言い置いてティーポットを手に取る。
カップに注いだ紅茶にシュガーポットのザラメをスプーンに一杯半、ミルクも多めに注いで丁寧にかき回してから、いくつかのドーナツを積んだお皿と一緒に私の目の前にそっと押し出した。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
「甘いのばっかり選んできたけど、嫌いじゃない?」
「うん」
「そっか、良かった」
コーヒーカップ片手ににっこり笑ったその顔は、その年の子にしては大人っぽかった。
制服じゃないからかもしれない。
甘いミルクティーを少しずつ飲みながら、ぼんやりとそんな風に考える。
温かい紅茶と店内に流れる穏やかな音楽に、まだ少し波立っていた心が静まっていった。
それと同時に、今の自分の状況を改めて考え直す余裕が生まれる。
……何やってんだろ、私。
教育実習は既に終わってるとは言え、直接担当したクラスの子じゃなかったとは言え、一応仮にも先生だった人間が、生徒だった子相手にこんな醜態見せちゃって。
急に恥ずかしさと情けなさがこみ上げてきて、さっきとは別の意味で泣きたくなった。
そんな私の気持ちに気付いているのかいないのか、佐伯君は私の正面で、さっきと変わらない穏やかな表情のまま、コーヒーのカップを傾けている。
流れる沈黙は彼の表情のように穏やかだったけれど、自分の立場と今の状況故にどうにも落ち着かなくて、あっという間に一杯目の紅茶を飲み干してしまった。
お替りを注ごうとして手を伸ばすと、一瞬早く佐伯君の手がポットを持ち上げる。
「あの、私自分でやれるから」
「いいからいいから。それより、ドーナツ食べないの?」
「さ、佐伯君こそ」
「……なんだ、俺の名前知ってたんだ」
「え?」
ぽつりと呟いた佐伯君の顔に、一瞬さっきまでとは微妙に違う笑顔が浮かんだ。
……なんでそんな嬉しそうな顔するんだろう。
たかだか三週間足らずの、しかも直接受け持たれた訳でもない実習生に覚えててもらったくらいで、そんな喜ぶもの?
思わず首を傾げる私の前で、佐伯君はさっきと同じ過程でミルクティーを淹れながら、視線でお皿の上のドーナツを示して笑って、さっきと同じ質問を繰り返した。
「ドーナツ、食べないの?」
「あ、うん、じゃあ……いただきます」
促されるまま、とりあえず一番上にあったドーナツを手に取る。
エンゼルクリーム。この店で私が一番好きなドーナツ。
パウダーシュガーをまぶしたそれを一口齧ると、ほんのり甘いクリームが口の中で溶けて、ちょっと幸せな気分になる。
自然と綻んだ私の顔を見て、佐伯君は今度は小さく声を上げて笑った。
「すごい幸せそうな顔して食べるね」
「えっ?えーと……これ、好きなのよ」
「―――うん、知ってる」
「え?」
「先生、口元にクリームついてるよ」
「えっ?」
「違う違う。こっち」
いきなりの指摘に慌ててドーナツをお皿に戻して口元を拭った時、視界がふっと翳った。
さっきまで50センチの距離を隔てた正面にあった佐伯君の顔が、一度の瞬きの後には目の前にあって。
温かくて柔らかい感触が唇の端を掠めた。
時間にしてみたらほんの数秒。
―――でもその数秒が、今の私には大問題だった。
ガタン!と派手に椅子が鳴る。
ちょうどコーヒーのお替りを聞いて回っていた店員さんが、何事かとこっちを見た。
慌てる私の目の前で、佐伯君は何事もなかったかのように、すいませんお替り下さい、なんて言ってその店員さんに笑いかけた。
佐伯くんとそう歳の変わらないアルバイトっぽい女の子は、ちょっと赤くなりながら彼のカップに殊更ゆっくりコーヒーを注いで、名残惜しそうにカウンターへと戻っていった。
淹れたてのコーヒーの湯気がふわりと視界を過ぎる中、さっきのことが嘘のように平然とコーヒーを口に運ぶ佐伯君を呆然と見つめる。
ゆっくり手を上げてさっき触れられた部分を指で擦る。
クリームがついてると指摘されたそこには、もう何もついていなかった。
そりゃそうだわ、ついてるはずがない。
だってさっき、さっきのあの感触は。あれは。
佐伯君がクリームを舐め取った、唇と舌の感触、で。
「――――――紅茶冷めるよ、先生」
笑い含みの囁くような声にはっと顔を上げると、いつの間にかカップを置いた佐伯くんが頬杖をついた姿勢でじっとこちらを見つめていた。
大人っぽい表情はさっきと変わっていないのに、さっきと違って真っ直ぐ見つめ返すことが出来ない。
佐伯くんが触れた口元が熱くて、そこから顔中に火照りが伝染していく感じ。
あまりのことに言葉も出ずにただ呆然としていると、佐伯君は不意に私から視線を逸らして。
頬杖をついたまま、壁にかかっているリトグラフをじっと見つめて、変わらない笑顔で口を開いた。
「先生がさっき泣いてた理由ってさ、実習の最中よく迎えに来てたあの男の人?」
「――――――」
「当たり?」
逸らしていた視線をチラッと一瞬だけこっちに戻して悪戯っぽく言った佐伯君に、何で知ってるのって掠れた声で返すのが精一杯だった。
佐伯君はまた視線をリトグラフに戻して、少しだけその表情を変える。
大人っぽい、余裕のある笑顔から、どこか子供っぽい、拗ねたような笑顔へ。
微かだけれど、でもとても大きな変化。
だけど開いた唇から零れた声だけは余裕を失ってはいなかった。
「先生が待ち合わせに使ってた公園、テニス部の溜まり場なんだよ」
「……え!?」
「隣接してテニスコートがあっただろ?女テニが学校のコートを使う日は男テニはあそこで練習してんの。ついでにあの公園のアスレチックは全部ウチの監督の手作り」
「男子テニス部の監督って……あの仙人みたいな……?」
「せ……」
実習中に何度か見かけた、長く伸ばした真っ白いあご髭にアロハシャツという特異な風貌のおじいさんを思い出して、思わずぽろりと零した言葉に佐伯君がくっと吹き出した。
必死で声を殺して肩を震わせて笑い続け、そうしてひとしきり笑った後に笑いすぎてうっすら涙を浮かべた目を私に向ける。
「思ったことなんでも口にしちゃうタイプだね、先生」
「すいませんね……」
「いいんじゃない?俺は好きだよ、隠し事が出来ない人」
「…………生徒にそんなこと言われても嬉しくないです!」
「でももう俺、生徒じゃないけど」
「さっ、佐伯君だって私のことまだ先生って呼んでるじゃないの」
「さんって呼んでいいんだ」
「―――さん付けすればいいってもんじゃないでしょっ」
「じゃあ、」
「…………」
今の話の流れで何で呼び捨てになるのかと思いつつも言い返すことが出来ずに、気まずさを紛らわせようと紅茶に手を伸ばす。冷め始めていたミルクティーはやたら甘くて、飲めば飲むほど喉が乾いた。
呼び捨てにされた瞬間、一気に跳ね上がった心拍数がなかなか治まらない。
ついさっきまでフラレてボロボロに泣いてたくせに、年下のまだ高校生の男の子相手に、ちょっと名前を呼び捨てにされただけで、何でこんなにドキドキしちゃってるんだろう。
重さはないのに微妙に居心地の悪い不思議な沈黙が私の気持ちを追い立てて、何か言わなきゃ、何か言わなきゃ、と頭の中で馬鹿みたいに繰り返した。
訳のわからない焦燥感にじりじりと胸の内を焼かれるほど、言うべき言葉が見つからなくなって。それがまた更に焦りを産む悪循環。
そんな私の状態を察したのか、佐伯君は私の所為で途切れたさっきの会話の続きを口にした。
「まあ、そういう訳で。あそこでさんが待ち合わせしてたことは、男テニのメンバーは全員知ってるよ」
「……そうでしたか……」
途切れた会話が元に戻ったところで、気まずいことに変わりはなかったんだっけ……。
またも発生した気まずい雰囲気に、すっかり空になった紅茶のカップの底へとひたすら視線を注いでいると、その雰囲気を断ち切るように佐伯君が言葉を発した。
「さっき、さんの好きなドーナツ、知ってるって言っただろ?」
「え、あ……うん」
「他にもいろいろ知ってるよ。朝はパン派で好きな飲み物は甘めのミルクティー、服はスカートよりパンツスタイルが好きで、ビビッドな色より淡い色合いが好み」
「……な」
「車の免許は持ってるけどまだペーパーで、大学ではフットサルのサークルに入ってて、大学二年から一人暮らし。実家で犬飼ってる」
「何でそんなに詳しいの!」
「実習中に女子といろいろ話してたのを聞いただけだよ」
……確かに女の子たちにいろいろ聞かれて、馬鹿丁寧に答えてはいたけど。
何でそれを、直接聞いてた訳でもない佐伯君がこうも細かく覚えてるの?
驚きで丸く見開いた目を向けると、佐伯君はさっき見せた子供のように拗ねたあの笑顔になった。
歳相応のその笑顔を見て、落ち着き始めていた心臓が再びスキップする。
更に畳み掛けるように爆弾発言が続いた。
「好きな人のことを知りたいと思うのは、別に変なことじゃないと思うけどな」
「…………は?え!?」
「実習の初日の朝のこと、憶えてない?」
「え?」
「渡り廊下でぶつかったんだよ、さん、俺に。憶えてない?」
「初日の朝の、渡り廊下……?」
佐伯君が口にしたキーワードと、目の前の優しい笑顔がぐるぐる回って。
そして。
カチリと歯車が組み合わさって、三週間ちょっと前の出来事が一気に頭の中に溢れた。
三週間と三日前の月曜日。
実習初日に寝坊して、ギリギリのところで何とか学校に辿り着いたと思ったら今度は最初に顔を出す部屋を間違えちゃって、まだ慣れない校舎の中を全力で走ってた。
職員室のある南校舎から各教科の教務室がある北校舎に繋がる渡り廊下に出たところで、ちょうど正面から歩いてきてた生徒の一人とぶつかって。
思いっきり尻餅をついた私に手を差し伸べてくれたのは学生服の男の子で。
とにかく焦って急いでたのと派手に転がっちゃったことが気恥ずかしかったのとで、ありがとうって一言だけ叫んでダッシュでその場から走り去った。
よく顔も見なかった男の子。
でもその声だけは何となく耳の奥に残ってた。
『大丈夫ですか?』
柔らかなハイバリトン。耳触りが良くて心地よく響く、少し高めの中音域。
そうだ、同じ声で同じ科白をほんの少し前に聞いた。
この店に入る前に。同じように差し伸べられた手と一緒に。
「―――思い出した?」
「――――――」
記憶の中の声と同じ声が別の言葉で私の耳をくすぐって意識を引き戻す。
呆然と見返す私に佐伯君は大人びた笑顔を向けて。
改めて爆弾発言を投下した。
「あの時から、さんのことが好きです」
佐伯くんの告白に、今日何度目か分からない沈黙で答える。
どういう答えを返せばいいのかさっぱり思いつかなくて、さっきまで以上に頭の中が混乱していた。
簡単なことのはずなのに。
一言、ごめんなさいって言えばいい。
それだけでいいのに、その一言が声にならなかった。
その一言が言えないんじゃなくて言いたくないんだってことに、心の片隅では気付いてた。
初めてちゃんと会話したのはほんの数十分前のことなのに、しかもその更にちょっと前に失恋したばっかりだっていうのに、私はこの年下の男の子に惹かれている。
彼の告白を嬉しいと思う気持ちが胸の中に確かにある。
でもそれと同時に、歳の差とかお互いの立場とか自分の現在の状況とか、いろんな要素が頭の中を駆け巡って、素直にその告白を受け入れることが出来なかった。
「さん」
呼び掛ける佐伯くんの声はさっきより一層優しい響きで、否応無しに胸が騒ぐ。
その声を振り切るように小さく首を横に振ってから、私は何とか声を絞り出した。
「……いきなりそんなこと言われても、困るよ」
「何で?」
「……だって一応こないだまでは先生と生徒だったし、歳だって離れてるし、それに」
「さっきも言ったけど、もう先生と生徒じゃなくて単なる一高校生と一大学生。三つ四つの差なんてあと何年か経てば気にならなくなるよ。さんが幾つだろうと俺はさんが好きだし、さんが彼氏と別れてフリーになったんなら、何も問題はないんじゃない?」
「そりゃ確かにフリーになりたてだけど、そんなあっちがダメだからこっちでみたいなのは、ちょっと」
「俺はいいよ、あっちがダメだからこっちで、って理由でも」
「そんな」
「前の彼氏より俺のことを好きになってもらえる自信はあるし。さんを幸せに出来る自信もあるし」
「……こっ、高校生の科白じゃないわよ、それ!」
「あと数ヶ月もしたら高校生じゃなくなるよ」
「…………」
次から次へと論破されて言葉を失くす私に、佐伯君はにっこりと笑って。
「ついでに言うと、涙でぐちゃぐちゃの顔でも化粧を落としたスッピンの顔でも、さんはすごく可愛いと思うので、俺的には全く問題ないかな」
「……!!」
「あとはさんの気持ちひとつ。どうする?」
咄嗟に両手で顔を押さえた私に、今日見せた中でもとびっきりの笑顔で問いかける。
こんな顔でそんな風に言われてNOと言える子なんていないんじゃないの、って思うようなそんな顔で。
―――もちろん、それは私もで。
観念して小さく頷いたら、佐伯君は満足そうに笑って。
ドーナツショップの片隅で、どんなドーナツよりも甘いキスをひとつ、私にくれた。
『海風通信』企画別館テニミュ六角公演特別企画「六角ドーナツ」参加作品。
なんかもうグダグダでホンッッットすーいーまーせーんー!!
て言うかサエの誕生日から軽く二週間経ってるし!!(投稿当時)
ホント毎回毎回遅くてすいませんまるなさん皆さん……!(土下座&割腹コンボ)
06/10/18UP