その日の夜。
いつものように夕飯の片付けを終えて、濡れた手を拭きながらキッチンを出てダイニングテーブルのところまで来た時、私は異変に気付いた。


傷をつけたくなくて、水仕事の時は必ず外している小さな銀の輪。
いつもテーブル端の調味料棚の前に置いているそれが、何故か見当たらない。


「お母さーん、私の指輪知らない?」
「えー?さっきまでいつものところにあったわよ?」


冬ソナのDVDに夢中の母の投げやりな答えに軽く眉をしかめて、目を凝らしてテーブルの下や椅子の上に落ちていないか調べる。
どこいっちゃったのかなぁ、もう……。
と、その時。


がぢゃりっ……ぢゃぎっ……がちっ……。


背後から聞こえてきた、とても不吉なその音にばっと振り返る。
(ラブラドールレトリバー・♂・3歳)が、何やら大変楽しそうに口をもごもごと動かしていた。
耳障りな音はその歯の間から漏れている。
どっと噴き出した冷たい汗がざーっと背筋を流れた。




「―――っ離しなさいこのバカ犬ーーーっ!!!」


大変躾のよろしい我が家の愛犬は、言われたとおりに口の中のものを私の目の前に吐き出して見せ、褒めて?と言わんばかりに得意げに尻尾を振った……。
















いで











待ち合わせは駅前。時間は12時ジャスト。
仕事柄、非番の日の朝くらいはゆっくり起きたいと言う彼の為に、待ち合わせは大抵いつも遅め。
滅多に逢えない分、逢える日は一分でも一秒でも早く長く一緒にいたいと思ってる身としては不満だったりするんだけど、今日に限っては彼が来るのが少しでも遅いといいなぁと祈ってしまう自分がいた。
だけどそんな日に限って。


「おー早いやんか、
「……おはよう……」


待ち合わせ時間よりも大分早く、待ち人はやってきた。
眠たそうに大きなあくびをひとつして、シマ君はすぐにふらりと踵を返す。
慌てて隣に並んで歩き出すと、私とほとんど同じ高さにあるシマ君の目がちらりとこっちを向いた。


「何や珍しいな。が手袋してんの」
「そっ……そうかな?」
「指の間がむず痒くて嫌だとか言って滅多にしないやんか」
「今日寒いし、それに最近ちょっと肌荒れしちゃってて、ね」
「……ふーん」


気のない返事を返してシマ君はまた視線を前に戻した。
うまく誤魔化せてたかな、ワザとらしくなかったかな。
内心ドキドキしながら歩いていたら、注意力散漫になっていた所為か、足元の小さな段差に気付かずに私は見事にたたらを踏んだ。


「ぅわっ」
「あっぶねーな!ボーっとしてんなや、アホ!」
「ご、ごめ……」


シマ君が咄嗟に二の腕を掴んで引っ張ってくれたおかげで、コンクリの地面に膝を強打、なんて痛い目は見ずにすんだ。
一見小柄で細身に見えるシマ君だけど、日々の訓練と仕事によって身体は十分鍛えられている。
いわゆる『脱ぐとすごいんです』ってタイプ。
腕力・握力だって相当なもの。私一人の体重くらい難なく支えてしまう。
その強い力でしっかりと私の腕を掴んでいた手のひらがするっと下に降りてきて、薄い手袋越しに小柄な体格の割に大きなシマ君の手のひらを感じた。


「シマく……」
「またすぐコケそうで離せんわ。しゃっきり歩け、ほれ」
「う、うん」


学生のデートみたいに手を繋いで。
人ごみの中をするすると器用にすり抜けていくシマ君の背中を追っていく。
頼もしい小さな背中と繋いだままの優しい手のおかげでその後は転ぶこともなく、目的のお店に辿り着くまでそれほど時間は掛からなかった。
着いた先はパスタがメインの小さなイタリアンレストラン。
今やすっかり行きつけのその店で、顔見知りのウェイターさんに案内されて窓際の席に落ち着く。
先にジャケットを脱いで腰を下ろしたシマ君に続いてコートを脱ごうとして、はたと手が止まった。


……手袋……どうしよう……。
食事中どころか店に入った時点ではずすのが当たり前(常に手袋してるのなんてスチュ○ーデス物語の片平な○さくらいだ)なんだけど。
はずしちゃったら最後、目敏いシマ君に気付かれない自信はゼロに近い。
そりゃいつまでも隠せる問題ではないけれど、久しぶりのデートでいきなり険悪ムードになるのは嫌だ。
コートの片袖を抜いた中途半端な格好で立ち尽くしている私に、案の定シマ君は不審そうな目を向けてきた。


「何してんねん」
「う、うん……」
「早く脱いだれよ。ウェイター君が待ちくたびれとるぞ」
「あ、ご、ごめんなさい!」


ハンガーを手に辛抱強く待ってくれていたウェイターさんの存在を指摘されて、慌ててコートを脱ぐ。
そして出来るだけ素早く手袋を取ると、それをポケットに突っ込んでからウェイターさんに渡した。
その間、シマ君に見えないように右手の角度にめちゃくちゃ気をつけて。
椅子に座るのと同時に膝の上に手を揃える。もちろん念には念を入れて左手を上に重ねた。
こうすれば、テーブルの影になってシマ君からは見えないよね!!
我ながらうまいこと隠せたかも、と思ったその時、向かいの席で片肘ついてこっちを見ていたシマ君がぼそりと一言。


「指輪、どうした」
「―――ゆ、び、わ?」
「せや。俺が前に買ったったヤツ、今日しとらんやろ」
「え……っとー……」
「手袋したりコソコソ隠したりしても無駄やぞ、バレバレじゃ」


……ば……バレバレですか……。
やっぱり目敏い、シマ君。
真正面からじーっと見つめてくる視線から顔を背けたい気分に駆られる。
でもそんなことしてもシマ君の機嫌を損ねるだけだし、観念して両方の手をテーブルの上に出した。
シマ君の視線が動いて私の右手の薬指を見る。
いつもそこにはまっているはずの指輪はなく、跡だけがうっすらと残る私の指。
そこから私の顔に視線を戻して、シマ君は静かに口を開いた。


「で?どうしたんか言えんのかい」
「…………実は、ね……」
「あ?」
「これ……」


先を促すシマ君の前で、バッグの内ポケットに手を突っ込んで取り出したもの。
手のひらに握りこんだそれをそっとテーブルの上に置く。
またシマ君の視線が動いて、そして少しだけ目が見開かれた。


「……何やこれ」
「……指輪、です」


シマ君の指が摘み上げたそれは、明らかに『輪』とは呼べない金属の塊。
ぺっちゃんこに潰れて、傷だらけで、ついていたはずのムーンストーンも見当たらない。
じっとそれを見つめるシマ君の顔をこれ以上見ていられなくて、私は深く俯いた。
俯いただけで涙が零れそうだったけど、それ以上にシマ君の顔を見るのが辛かった。


「何したらこんなんなるんや」
「……昨日、はずしてテーブルの上に置いといたら、が噛み潰しちゃったの……」
がぁ?」
「飾りのムーンストーンは噛んでる間にはずれて、が飲み込んじゃったみたい、で……」
「…………」


初めて買ってもらった指輪。
ありふれたデザインの、そんなに高くもないシルバーリング。
でもシマ君が買ってくれたってことが本当に嬉しくて、大事にするねって誓ったのに。
よりにもよって飼犬に噛まれてぺしゃんこに潰してしまうなんて。
きっとシマ君だって怒るに違いない。
だけどもうひたすら謝るしかない、そう思って。身体を硬くして、ぎゅっと目を瞑って、私はテーブルにオデコをくっつけるように深く深く頭を下げた。



「せっかくシマ君が買ってくれたのに、ごめんなさ……」
「……っぶわーっはっはっはっはっはっはっ!!」
「…………は?」


…………何……?
思わず顔を上げたら、シマ君は指輪を持ったまま涙を浮かべて大爆笑していた。
ちょうど近くを通り掛かったウェイターさんがびくっと肩を震わせてこっちを見たけれど、シマ君は気にする素振りも見せずにおなかを抱えて笑い続ける。


「し、シマ君?」
「マジでがこんなにしたんか!?すげーなおい!」
「すごいって……シマ君」
「いっや、久々に笑ったわ!はーくるしー」
「…………」


呆然としている私の目の前で、シマ君は笑いすぎてにじんだ涙を拭きながら潰れた指輪をしげしげと眺めてはまた噴き出す。
なかなか笑い止まないシマ君を見ているうちに、ふつふつと湧き上がってきたのは―――怒り。
笑うようなことなの、これって。
昨日の夜からずっと悩み続けてた私がバカみたいじゃないのよ。
潰れた指輪見て大泣きしてた私が、まるっきりバカみたいじゃないの……!


「―――シマ君!」
「あ?」
「それ、返して」
「返してって、もうはめられもせんのにどーする気や」
「いいから返してよ!」
「何怒ってんねん、


きょとんとして言ったその言葉に、更にカチンと来て。
真っ直ぐ前に手のひらを差し出したまま、声のトーンを上げる。


「怒りたくもなるわよ!シマ君が初めて買ってくれたものだからってすごく大事にしてきたのに潰れちゃって、すごい哀しくって、シマ君怒ったらどうしようって散々悩んだっていうのに……それを目の前で笑い飛ばされたら怒るわよっ!」
「……指輪ひとつ潰されたくらいで怒るかい。お前は俺をそんな度量の狭い男やと思っとったんか」
「そういう問題じゃないーっ!」
「じゃあ何やねん、ったく難しい女やなー」
「〜〜〜っ!いいから、もう早く返してったら!」


ぐい、と手のひらをシマ君の目の前に突きつけて。
口を思いっきりへの字に曲げて、涙の溜まった目で彼の顔を睨んだ。
子供っぽいヤツだと呆れているのか、シマ君は深くひとつ溜息をついて。
そして指輪を持っているのと反対の手を、無造作にパーカのポケットに突っ込んだかと思うと、取り出した小さな箱をポンと私の手のひらに押し付けた。


「ほらよ」
「……何よ、これ」
「開けたらわかる」
「…………」


それきり口を閉ざして、視線だけで開けてみろと私をせっつく。
まだ怒りは収まってはいなかったけど、その視線の強さに圧されて私は仕方なくその小さな箱に手をかけた。
包装紙もリボンもかかっていない真っ白いボール紙の箱の中に、ビロード張りの小箱。
その中には。


目を瞠った私の耳に、いつもと変わらない調子の声が聞こえた。


「前言訂正。安モンの指輪ひとつ潰されたくらいなら怒らんけど、それ潰されたら怒るで」
「…………」
「給料三ヶ月分はさすがに無理やけどな。それなりに奮発したんやから、今度はもっと大事にせぇよ」
「……シマ、君」
「それと!そいつは右にすんなよ!ちゃんと左にはめろ、左に」




銀色の輪に、無色透明の小さな石。
きらきらと照明の光をはじくそれを、信じられない想いで見つめる。
シマ君の顔と交互に見比べたら、シマ君はまだ指の間に挟まったままだった潰れた指輪を軽く放り投げてキャッチして見せた。


「つーわけで、これはもういらんな」
「……ううん、それも、やっぱり返して」
「何でや。そっちがあれば十分やろが」


不思議そうに問い返されて。
私はちょっとだけ笑って、空いている方の手を差し出した。


「潰れちゃっても、もうはめられなくても、シマ君が最初にくれた大事な指輪だもの」
「……そか」
「うん」


手のひらにころんと落とされた潰れた指輪を少しの間見つめてから、バッグの内ポケットにしまって。
新しい指輪をそっと台から外して、シマ君の方へ差し出す。


「何や」
「シマ君がはめてくれなきゃ」
「あー……そやな」


照れたように軽く頭をかいてそれを受け取って、シマ君はそっともう片方の手で私の左手を取って、薬指に新しい指輪をはめてくれた。











きらりと光を反射する、その小さな銀の輪が。
きっとこれからも私たちを繋いでゆく。






















支離滅裂のまま終わる。
犬に指輪を噛み潰された話は私の実話です。それを買ってくれた彼氏(現・旦那)に豪快に笑い飛ばされたのも実話です。

05/03/03up