それは、今はもう遠い記憶。

ずっと先を走っていく小さな背中に向かって、置いていかないでと泣いた。
差し出された手のひらも笑顔も、わたしが望んだ。
そしてわたしの望んだとおりに、あの子はずっとずっと傍にいてくれた。
















 〜Girl's Side〜











玄関の呼び鈴が、ひどく遠くで聞こえた。
はっと我に返ったら、もう空は茜色に染まり始めていて。
慌てて水道の蛇口を閉めて、縁側から玄関へと走る。


「はい……!」
、俺だけど」


玄関の引き戸の向こうで名前を呼んだ声は、聞き慣れた男の子の声。
鍵を開けて戸を開けたら、トレードマークの赤いキャップを目深にかぶって亮ちゃんが立っていた。
私服姿なのに、手にはテニスバッグ。
でもそれは、よく見れば亮ちゃんのものじゃなくて。

―――虎次郎の。


?」
「……あ、ごめん。どうしたの……?」
「これはそこに置きっ放しだった。今大丈夫?ちょっと上がっていいか?」
「あ、えっと、夕飯の買い物が……」
「サエなら、夕飯はいいって」


ズキン、と胸に痛みが走った。
亮ちゃんの手からバッグを受け取ろうと伸ばした手に力が入らない。
何を考えてるのか読めないポーカーフェイスで、亮ちゃんは小さな声で「お邪魔します」と言って、自分の身体ごとわたしのことも玄関に押し込んだ。


「これ、サエの部屋に置いてくる」
「ありが、と……」


長い付き合いですっかりうちの間取りを知り尽くしている亮ちゃんは、勝手知ったる何とやらで虎次郎の部屋へと階段を昇っていく。
その後ろ姿を見上げながら、とりあえずお茶でも用意しようとわたしは台所へ向かった。
ほとんど何も残っていない冷蔵庫から作り置きの麦茶を取り出して、氷を入れたグラスに注いでいると階段を下りてくる足音がして、亮ちゃんが台所へ入ってきた。


「居間に持ってくから、座ってて」
「サンキュ。―――ああ、風が気持ちいいからさ、縁側で飲まない?」
「あ、そうだね」


お盆にグラスとお茶菓子の入ったお皿を載せて縁側に出ると、一足先に来ていた亮ちゃんはサンダルを突っかけて庭に下りて、私がほったらかしにしていたホースを片付けてくれていた。


「あ、ごめん!ありがとう」
「これくらい大したことじゃないよ」
「ホントだ、風が気持ちいいねぇ」


やがてきちんとホースをまとめて庭の隅に片付けて戻って来た亮ちゃんは、縁側に腰を下ろして麦茶のグラスを手に取った。
夕方の涼しい風が庭の花を優しく揺らして、私たちの頬を撫でていく。
何も言わずに麦茶のグラスを傾けていた亮ちゃんは、中身が半分くらいに減ったところで、コトンとお盆にグラスを戻した。


「どうして来たの、とか訊かないのか?」
「……どうして来たの?」
「サエに頼まれたから」


落ち着きを取り戻しかけていた心臓が、ドクンと大きく鳴った。
鮮明に蘇る光景。

向日葵の鮮やかな黄色と、陽光を弾いて光った水の飛沫。
濡れた髪の間から真っ直ぐに私を見た、眼差し。


そっと触れた、優しい、唇……。




生まれた時からずっと、誰よりも一番近くにいた男の子。
ひとつのものを2人で分け合って生まれてきた、わたしの弟。
お互いの事で知らないことなんかひとつもなくて、言葉なんてなくても誰よりもわかり合えたはずの。
でもさっき、わたしの目の前にいた虎次郎は。


―――まるで私の知らない人のようだった。






「……?」
「……あ、何でも、ない……」
「何でもないって顔じゃないよな」
「…………」
「回りくどい言い方したって仕方ないから、ストレートに言うけど」


ゆらゆら揺れる向日葵、じっと見つめて亮ちゃんが。


「サエの気持ちは、俺たちはずっと知ってた」
「…………」
「サエは誰にも言わなかったけど、俺たちだって伊達に何年も一緒に過ごしてきた訳じゃないからさ。
あいつがのことずっと見てたの、知ってたよ」
「……わ、たしは」
「知らなかったんだよな。それもわかってる。俺と淳とバネと樹ちゃんとダビデと剣太郎だけだよ、多分知ってるのは。だってそんな噂とか、聞いたこともなかっただろ?」


サエは一生懸命隠してたんだよ、って亮ちゃんは言った。
一度は置いたグラスをまた手に持って、ゆっくり揺らす。
溶けかけた小さな氷が、カラリカラリと音をたてる。


「絶対隠さなきゃいけない気持ちだから、あいつは必死に押し殺してたけど。でもそんな簡単に消し
去れるものじゃないだろ、人を好きだと思う気持ちなんてさ。―――本気なら、尚更」
「……亮ちゃん、わたし……」
「俺、に頼みがあるんだ」


優しくて真摯な眼差しで、亮ちゃんはわたしをじっと見つめた。
とても優しい声で、一言一言ゆっくりと。
『頼み』を口にした。


「サエの気持ちをないがしろにしないでやってほしいんだ。どんなに時間掛かってもいいから、ちゃんと自分の気持ちをサエに伝えてやって。イエスでもノーでも、の正直な気持ちをちゃんと」
「…………」
「これはサエの友達として、同じ男としての頼み」
「…………」
「サエは半端な気持ちでのこと想ってた訳じゃないってこと、わかってやってくれな」


言い終えると、残りの麦茶を小さくなった氷と一緒に一気に流し込んでグラスを置いた。
キャップをかぶり直しながら立ち上がって、座り込んだままのわたしを見下ろしてにっこり笑った。


「じゃあ、俺行くから。戸締り、ちゃんとしとけよ」
「……うん。あ、あのね……」
「―――何?」


一瞬、訊くことを躊躇いはしたけれど。
訊き返す亮ちゃんの目はとても優しかったから、途切れかけた言葉は消えずにすんだ。


「虎次郎、今どこにいるの?」
「バネんとこ。俺も今から行くから、何か渡すものとかあったら持ってくけど」
「じゃあ、着替え……びしょびしょのユニフォームのままで、出て行っちゃったから……」
「オッケ。用意してくれるまで待ってるよ」
「―――ありがとう……」


どういたしまして、とわたしの頭を撫でた亮ちゃんの笑顔は、本当にとても、優しかった。





















翌日、まだ朝早いうちに、今度は春ちゃんが来て。
少しの間、虎次郎は春ちゃんちに泊まるからと言った。


「今は顔合わしたら気持ち抑えられる自信がねぇんだと。『も俺の顔見ない方が落ち着いて考えられるだろうから』ってさ、言ってたぜ」
「……そう」
「お前は、ひとりで大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。おじさんとおばさんに、ご迷惑お掛けしてすいませんって伝えてね?」
「お前らが兄弟喧嘩なんて珍しいって不思議そうな面してたぜ。滅多にしねぇ分1回ぶつかると根深いんだろっつったら納得してたけどな」
「……ありがと……」
「気にすんなよ。俺らの仲だろ」
「……虎次郎のこと、よろしくね」
「おう。お前も、ちゃんと飯食えよな!」


そう言って、練習があるからと春ちゃんは虎次郎のテニスバッグと、当座 の着替えを詰めたバッグを持って学校へ行ってしまった。
中田先生に手伝いを頼まれた図書室の蔵書チェックは明後日からで、家事と宿題くらいしかすることはなくて。
掃除機をかけて少ない洗濯物を干してしまうと、もう暇になった。


2階の自分の部屋でとりあえず教科書は開いて、でも宿題を片付ける訳でもなく、ぼんやりとページをめくる。
数ページめくったところで、有り得ないものが目に飛び込んできて、私は思わず手を止めた。

数学の教科書の片隅、余白部分に、何だかよくわからない、謎の落書き。
しかもその後数ページに渡って、同じような落書きが描いてあって。
その怪しげな落書きをじろじろ見ていて、ひとつのことに思い至る。


「……春ちゃんだ……!」


夏休みが始まる少し前、教科書忘れたから貸してくれって言われて貸した時だ。
人の教科書にパラパラ漫画なんか描いて遊んでたの!?
しかも下手だよ、春ちゃんてば……!

咄嗟に笑いがこみ上げて、その教科書を持って部屋を出た。
廊下を挟んで斜向かいにある部屋のドアを、躊躇いもせず開けて。


「ねぇ虎次郎、これ見て……っ」


―――誰もいない部屋の中に、私の声がむなしく響いた。
男の子の部屋にしては、キレイに片付いたフローリングの6畳間。
教科書と辞書と、何冊かのテニス雑誌が並べられた机はわたしの部屋にあるのと同じもの。
今は主のいない椅子の背に、掛かっていたナイロンパーカーがサラ、と微かに揺れた。




『―――何?
『どうしたの、この落書き?ああわかった、バネだろ』
『しょうがないなぁアイツ。人のものに落書きするなよなー』
『それにもしても下手だなぁ、コレ!』




椅子の上、振り返って笑って。
わたしの話に耳を傾けて、きっとそんなふうに言って笑って。
それできっと春ちゃんのした落書きに手を加えたりなんかして。
―――小さな頃と同じように、2人で笑って。


いつも2人でいた。
楽しいことも哀しいことも、喜びも悔しさも。
どんなことも、2人で分け合って、ずっと。




―――本当は。
いくらだってひとりで走っていけたのに。






不意に階下で、電話が鳴った。
びくっと反応した瞬間に手から教科書がすり抜け落ちて。
一瞬迷って、拾わずにそのまま置きっ放しにして、階段を駆け下りて居間の受話器に飛びつく。


「はい、もしもし佐伯ですが」
『すいません不二ですが―――ちゃん?』
「周、くん!?」
『うん、僕だよ。久しぶり』


幼馴染の不二周助くんは、受話器の向こうで静かに笑った。


「久しぶりー!」
『元気そうだね。佐伯、いる?』
「あ、えっと虎次郎は……その」


咄嗟に言いよどんだわたしの言葉が終わらないうちに、周くんはふっと声のトーンを落として呟いた。


『―――佐伯は、君に気持ちを言ったの?』
「……え……?」
『……そうか、言ったんだ』


……どうして周くんがそのことを知っているの?

言葉が出ないわたしに、まるで今私の顔が見えているかのように、周くんは。
『少し時間をくれる?』と優しい声音で言って。
わたしの返事を待たずに、ゆっくりと話し出した。

虎次郎の気持ちに気付いて、それからずっと虎次郎の話を聞いていたこと。
どんなふうに、どんな思いで、虎次郎がわたしへの気持ちを押し殺してきたかを。


『今の平穏を壊したくないって、そう言ってたよ』
「……うん」
『ああ、そう言えばいつだったかな。ちゃんと約束したんだって言ってた』
「―――約束?」


何の約束?
思い当たることが浮かばなくて首を傾げたわたしの耳に、周くんの柔らかい声が響いた。




『自分の気持ちを自覚するより前、もっとずっと小さい頃に皆と遊んでたらちゃんに泣かれて
「置いていかないで、ずっと一緒にいてね」って言われたんだって。その時ずっと一緒にいるって約束
したから、自分の想いが知られたらその約束が守れなくなるから、絶対隠し通すって』
「―――わたしが……?」
『うん。大切な約束だって言ってたよ。―――だから絶対にひとりにしないんだ、って』






『虎次郎、先に行っちゃわないで』
『わたしを、置いていかないで』
『離れていかないで、ずっと一緒に』
『――― 一緒にいてね』




緑濃い草原。
青い空。眩しい太陽の光。

―――風のように走っていく少年。

どこまでも走っていくその背中に追いつけなくて。
遠ざかる背中が、小さくなる声が、私はひとりぽっちなんだと言っているようで。
必死に泣いて呼んで、呼んで、呼び続けた。

やがて戻ってきた少年に、泣きながら言った言葉。
我儘なわたしの願いを、それでもあの子は優しく笑って。


『ずっと一緒にいるよ、約束する』
『―――約束』


わたしに手を差し伸べて、そう言ったんだ。






ちゃん?』
「思い、出した……」
『――― その約束?』
「うん……」


一緒にいてと。
離れていかないでと、そう望んだのは、わたし。
幼い日のささやかな約束の通りに。


―――虎次郎はずっと、傍にいてくれていたんだ。
















     ◇ ◆ ◇ ◆ ◇















「じゃあ、悪いけどあと頼む!」
「りょーかいです」
「ホントにごめんなー、全部押し付けて!佐伯はしっかりしてるから助かるわ!」


じゃーね!と手を振って、中田先生は図書室を出て行った。
実家のお母さんがぎっくり腰とは……先生も大変だな。


蔵書チェックはもう終わって、あとはちょっとした整理とゴミ捨てくらい。
とりあえず片っ端から片付けてしまおうと、私はまとめておいた古い資料を持って廊下に出ると、資料室に向かってゆっくり歩き出した。




人気のない廊下に、自分の足音だけが響く。
窓の外に見える体育館からは、バスケ部かバレー部のどっちかのものらしいボールのバウンドする音が聞こえてきた。
体育館よりも少し先には、テニスコートも見える。
聞き慣れたボールを打ち合う音と賑やかな声。


虎次郎が春ちゃんちに居候して、もう3日経った。
テニス、ちゃんと頑張ってるかな……。




窓の外を見ながらぼんやりと歩いていた、その目の前がいきなり翳った。
窓枠から勢いよく飛び降りた人影に驚いたわたしの手の中から、持っていた資料がドサドサと音をたてて崩れ落ちて廊下に散らばったけれど。
それを拾うことも忘れて、わたしは目の前の人と見つめ合った。

―――目の前に立っている、虎次郎と。


「虎次郎……」
「…………」

「……こ」
「ごめん」


短い、その一言を残して。
虎次郎はわたしの横をすり抜けて走っていく。
振り向いた先、走っていく赤いユニフォームの背中が。
あの日の記憶の中の背中と、重なって―――。






今、手を伸ばさなかったら、もう二度と戻ってこないと、思った。




「―――虎次郎っ!」
「―――」


去りかけた背中がピタリと止まる。
振り向いたその顔は、よく知っている、でもまるで知らない顔。

―――男の人の顔。


「こじろ……」
「―――俺、行かないと」
「待っ……」


苦しげに顔を歪めて、喉の奥から押し出したような声で。
虎次郎は呟くようにそれだけ口にすると、またわたしに背中を向けた。




「―――虎次郎、待って……!」
「…………」

「置いていかないで!」




日に焼けた肩が、私にもわかるくらいはっきりと大きく震えた。
もう一度、私を振り返ったその顔は、途方にくれて。
こっちに踏み出すことを躊躇っていたけれど。


「離れていかないって……ずっと一緒にいてくれるって約束したよね」
「……っ」
「わたしの傍からいなくならないで……!」




弾かれたように虎次郎が動いて。


伸ばされた腕がきつくきつくわたしの身体を抱きすくめた。
色の薄いやわらかい髪ごと、強く額をわたしの肩に押し付けて。
泣きたくなるほど優しい声が、わたしの名前を呼んだ。


……っ」






その声を聞いた途端、ぎゅっと瞑った瞼の裏に鮮やかな色が映った。


緑の野原。青い空。
どこまでも優しくて懐かしい、遠いあの日の。


あの日の少年はもういない。

もう子供だったあの日には戻れない。

二度と戻れない、それでも。






「―――大好きだよ、虎次郎」
「……俺もが、好きだったよ―――ずっと……」




何よりも望んだものはここにある。


―――だからずっと一緒にいようよ。





















・・・・・・・・・・あとがき?・・・・・・・・・・

男だとか女だとか兄弟だとか関係なく、その人だから好きになった。一緒にいたいと思った。
ただそれだけのことを許されないことだって、誰が決めたんだろうかと。
所詮は人間が決めた価値観でしかないよなぁと。そんなふうに思います。
そんな私は実の弟とは大変仲が悪いですが、仮にヤツが同性愛に目覚めても応援してやれると思います(今のとこそんなケは微塵たりともないが)。