Act.5 Beside you.
生まれてからずっと、ゆっくりと。
今まで、そして今も広がり続ける、お世辞にも広いとは言えない自分の世界。
その中心にいたのはいつだって君だった。
「―――じゃあ行ってくるね」
「飲み過ぎないように気をつけなさいよー」
呑気な母の声に背中を押されるように玄関を出て、駅に向かって歩き出す。
駅までは徒歩だと少し掛かるんだけど、余裕を持って出てきたので問題はなかった。
久しぶりに履いたミュールは少しヒールが高めで、歩いていると自然と背筋が伸びる。
潮の香りに誘われるように、駅までは少し遠回りになる海岸沿いの道に出た。
ほんの数週間前、帰ってきた私とあの子たちが二年ぶりに顔を合わせた、あの海岸沿いの道。
望んでいたのとは違う再会をした、あの道。
二年前、この町を出て行くと決めた時。
ヒカルとの間に距離を置くことばかり考えていた。
苦しくて。
好きすぎて苦しくて。
傍を離れることで、時間が想いを思い出に変えてくれる事を祈りながら。
結局のところ、その祈りは届かなかったのだけれど。
「――――――」
帰ってきたあの日と同じように海を見ながらゆっくり歩く私の視界の隅を、ふっと何かが過ぎった。
それが何か、頭で理解するよりも先に、足が止まった。
背の高い人影。
風に揺れる明るい色の髪。
「……ヒカル」
私の唇の間から零れ落ちた自分の名前に、ヒカルの表情がほんの少し動いて。
次の瞬間、立ちくらみでも起こしたように、がくんと膝を落としてその場にしゃがみこんだ。
深く俯いてしまった所為で顔は見えない。
いきなりのことに動転して、私は咄嗟に傍まで駆け寄った。
「ヒカルどうしたの、大丈夫!?」
名前を呼びながらその肩に手を伸ばしたら。
素早く伸びた手にしっかりと手首を掴まれて驚く私の目の前で、ヒカルは俯いていた顔を上げて。
いつもの淡々とした口調はそのままで、ぽつりとこう言った。
「……捕まえた」
「……な……」
「ごめん。普通に近づいたらまた逃げられそうだったから」
まるで小さな子供のする悪戯。
それにまんまと引っかかってしまって呆然としている私をよそに、掴んだ腕はそのままでヒカルはゆっくりと立ち上がる。
我に返った私が離してと言うよりも先に、ヒカルの手は驚くほどあっさりと私の腕から離れて。
自由になって反射的に距離を置こうとした私の身体を、間をおかずに二本の腕がしっかりと抱き寄せた。
覚えのある体温と鼓動と匂い。
抱きしめる力は昔よりもずっと強く、一回りも二回りも大きくなった身体はすっぽりと私を包み込む。
だけど、全身で感じる温もりは昔のままで、懐かしさと愛しさで身体が震えた。
このままでいたいと思う気持ちを必死に打ち消して、私は腕の中から抜け出そうと力なくもがいた。
「……離して」
「やだ」
「お願いだから、離してよ……」
「の言うことは思ってることと正反対だから、素直に聞いて真に受けるなってサエさんたちに言われた」
「……っ」
背中に回っていた手が持ち上がってゆっくりと髪を梳く。
例えようもないほど優しいその仕草に、抵抗する気力が失われていく。
抱きしめられたまま、それでも必死に喉の奥から絞り出した声は、情けないほど震えていた。
「……どうして、わかってくれないの……」
「…………」
「言ったでしょう、ヒカルの気持ちを信じ切れないんだって……!」
ヒカルが一生懸命に注いでくれた愛情を信じきれない弱い私。
そんな私にヒカルの傍にいる権利なんかない。
その上勝手な言い分で、二年前も戻ってきた今もヒカルを傷つけた。
自分勝手な理由を盾にたくさんたくさん傷つけたのに。
平気な顔して元に戻ることなんか出来ない。
「ヒカルが許してくれても、私は自分が許せないの」
「……」
「元に戻ったって同じことの繰り返しになっちゃうよ……私はまたヒカルを傷つける、きっと……」
私の言葉は最後は消え入るように掠れて。
消えた言葉の代わりのように私の目からは堪えていた涙が溢れて、ヒカルのシャツの胸を濡らした。
不意に抱きしめる腕の力が緩んで、背中を離れた手に強く肩を掴まれた。
鼻先が触れそうなほど近くから切れ長の瞳が私の瞳を覗き込む。
変わらない真っ直ぐな眼差しは、しっかりと私の視線を絡めとって、逸らすことを許してくれなかった。
引き結ばれていた唇がゆっくり解けて、押し殺した声が鼓膜を振るわせた。
「―――許すなんて、俺は言ってない」
予想しなかった言葉に目を見開いた私の視線をしっかりと捕らえたまま、ヒカルはゆっくりと繰り返した。
「許さない。俺を置いていなくなったことも、俺の気持ちを信じてくれなかったことも」
「…………」
「だからこれから償って欲しい」
「……え?」
続けて発した言葉も私の予想の範疇を超えていた。
混乱する私に向かって、ゆっくりと噛みしめるようにヒカルは言葉を紡ぎ出した。
「俺の傍に戻ってきて。これからはずっと俺の傍にいて償って」
「言っただろ、とでなきゃ俺は幸せになれないって」
「傷つけた責任とって俺をちゃんと幸せにしてくれないと」
額を寄せて囁くように紡がれる言葉が、優しく耳に忍び込む。
返す言葉が見つからないまま、止まらない涙はヒカルのシャツに更に大きな染みを作る。
やがて私の肩を掴んでいた手が離れて、包み込むように頬に触れてから、長い指がそっと目尻をなぞって。
涙を拭ったあとに、ヒカルはまるで壊れ物に触れるように微かに熱を帯びた唇を押し当てた。
目尻、瞼、頬、額。
二年前と変わらない、少し不器用なキス。
額を小突き合わせるように寄せて、少し伏せ気味の眼差しでじっと私の瞳を覗き込んで、ヒカルは静かに私に問い掛けた。
「―――、返事は?」
「……の?」
「何?」
「……本当に……」
―――本当にいいの?
風に紛れて消えてしまいそうな、情けないほど弱々しい私の囁きに、ヒカルはちょっと笑って。
前触れもなく軽々と私を抱き上げた。
いきなりのことに思わず肩にしがみついた私の顔を今度は見上げながら、柔らかく微笑む。
「こそいいのか?俺は、一生かけて償ってって言ってるんだぜ?」
「――― 一生、って」
「ずっと傍にいて償ってって言っただろ」
「……だけど私、また……」
ヒカルの気持ちを信じきれなくなって、また同じことを繰り返すかもしれない。
情けないけど、こうなってもまだ私は怖い。
結局またヒカルを傷つけることになったらって考えてしまう。
そんな考えに陥って言葉を濁す私に、ヒカルは優しい笑顔のままで静かに口を開いた。
「それでがまた俺から離れていこうとしても、その時は前みたいに離したりしない」
「……でも」
「が俺を信じ切れなくても、俺はの気持ちを信じてるから」
「…………」
「もう絶対に間違えない。絶対に、離さない」
止まったと思ってた涙が、また零れた。
頬を伝う雫はそのまま滴り落ちてヒカルの頬を濡らした。
そんなことには頓着しないといった風情で、ヒカルは私のウエストに回したままの腕に力を込めて。
耳元に唇を寄せて囁いた。
「がいてくれないと困る」
「……」
「俺にはが必要なんだ。だから傍にいてくれ」
「……っ」
答えようとしたら涙で声が詰まった。
声に出す代わりに何度も頷いた私に、ヒカルはまた、柔らかく微笑んで。
声には出さずに唇を動かしてありがとうと言って。
不器用なぎこちないキスを、唇にくれた。
――― いつだって世界は君を中心に回っていた。
昔も、そしてこれからも、ずっと。
=END=
お付き合いいただきましてありがとうございました!
05/07/14UP
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