7. プロボクサーになるまで 

 

ボクシングジムでのこと

全国250はあるボクシングジムは、運動という健康管理を目的とした入会も歓迎し、僕みたいな中年層にまで広く門戸を開放しています。ボクササイズというものそのひとつです。冒頭でも述べましたが、何かを殴りたいというのは・・人間あるいは動物としての深層心理にあるものと思います。そこでです。もし、自分の体を鍛えたいと思ったら、いろいろな運動が考えられます。ジムワークをする、水泳をする、何か球技をする、等等。僕は実は黙々とトレーニングマシンで体を鍛えるのはシリアスすぎてできなかったのですが、テニスなどで相手がいたり、ボールが動いてくるから、それを追っかけて体を動かすという「対象に対して何かの行動を起こす」というスポーツは喜んでできました。だからこそ、種々の運動メニューのなかに「サンドバッグやボールを殴る」という要素が入ると、先の深層心理の面からもすっきりするのではということは、僕には非常に理解しやすいです。

僕みたいなオッサンの健康上のことではなくて、若い彼らにとっては比較的高い入会金と月謝を払って、練習にかき立てるものはなんなのでしょうか?やはり、何かを成し遂げたいという一念からなのでしょうか?しかし、みんながみんな減量に苦しみ、体を鍛え、痛くても我慢し、怪我にも耐えるプロボクサーに最初からなろうとは思っていないのも事実でしょう。

練習の細かい内容は知りませんし、ジムによってもだいぶ違うようです。一般には、ジムは午後から比較的夜遅くまでオープンしており、みんな仕事あるいは学校が終わってから来るようです。でも、それだけでも大変なのですが、プロボクサーあるいはプロを目指す選手、さらにより上を目指す選手は、朝早くから自転車に乗ったトレーナーなどとランニングなどをジム近くに集まって行っているようです。朝早くからのトレーニングが終わってから仕事や学校です。そして、また夕方からは汗だくだく。これは僕には到底できないメニューであります。

でも、ここで僕の経験談をひとつ。

僕は中学生だったころ東京都の三鷹市に住んでいました。そして勉強ができない僕に勉強の癖をつけるために、家庭教師の先生が自宅にきてくれることになりました。彼は西田さんと言って、富山の名門高岡高校をでて東大の文科1類に入学した方でした。色白で運動とは無縁に見える方でした。あまり近くもない富山県の寮から自転車で来て教えてくれましたが、たまたま自宅の近くに「三鷹拳ジム」というのを見つけ、そこへ先生は通い始めました。どうして、ボクシングを習い始めたかは、よく覚えていませんが、今の僕が想像するのには、「自分をしっかり強くしたい」という気持ちが強かったのではと想像してます。そして、先生はジムでの練習が終わってシャワーを浴びて、色白の顔を赤くポッポしている状態で我が家に来てくれました。そして僕に勉強を教えてくれるわけです。時々、勉強の合間に、せんべい座布団を手に巻いて、二人でボクシングのまねをしたものでした。ですから僕もボクシングの基本スタイルは知っていたのです。ところが先生の練習が進み、ある日からヘッドギアをつけた練習(「スパーリング」という試合を想定した半ば本格的なものではなかったかと思うのですが)が始まりました。その日の練習が終わり、西田先生が僕の家に来たときの顔をまだ鮮明に覚えています。色白の顔が一段と赤くなって腫れ上がっていたのです。いつもと同じように湯気は立っていましたが。でも西田先生もなんだか殴られていても、爽快そうな顔をしていたのを覚えています。西田先生が僕が見たボクシングジムに通う身近な人の最初でした。

ボクサーと言うと、昔はなんだかハングリー精神の塊のようにたとえられることが多かったように思いますが、今は決してそのようなことはないようです。ともかく、経済的問題より、先に述べた「何かに駆り立てられる」と言うことが一番なのではと思います。

僕が想像する範囲での話しで信憑性はありませんが、二つほど感じたことがあります。ひとつは、検診のときにみるボクサーの人たちの下着つまりパンツあるいはトランクスであります。これは、○alvin leinなど、アメリカなどの輸入物を着ている選手が多いです。これは「ボクサートランクス」とも言われているようですが、安売り店で売られているものの倍や3倍の値段はするので僕も買うのに躊躇するのですが・・。もうひとつの僕の想像ですが、日本人も海外もそうかもしれませんが、一般にボクサー全員の平均身長は、ほかの全国的平均より低いのではと思うことです。まったく想像の域を脱しませんが、ボクサーとしてトレーニングを行う動機として、ハングリーよりも、小柄であると言うハングリーさが、きっかけとなっていることが多いいのではと思っています。おとなしい子が多いことを考え合わせると、小さいころにむしろ強くなく、フィジカルに劣等感を持っていたということが、ボクシングを行うきっかけになっている可能性があるのではと思います。

話を戻しますが、一所懸命努力をして技術的にも向上が見られ、ジムのトレーナーやマネージャーや会長さんからプロになることを薦められると、いよいよプロテストでしょう。

ジムに入門して、早い選手で半年くらい、通常はもっと後で受験することが多いようです。しかし、あまりのんびりとしてられません。なぜなら、プロテストを受けられる年齢は17から30歳までの間だからです。

 

プロテストでの健康チェックについて

関東、東日本を中心としたジムは、後楽園ホールで月に2回行われるプロテストを受けることになります。その申請に当たり、受験生の健康チェックはここで一番厳重に行われます。それは、このスポーツの特殊性であり、リング上での選手の怪我の確率を少しでも減らす努力を惜しんではならないからです。ほかのスポーツでは、「あーあ、ついてないことに、こんなことになってしまって・・」という偶発事故として解釈がされえるところが、ボクシングばかりはそうは行きません。「頭を殴るのが目的で、その結果でおきた事だからと・・」となってしまいますから。

健康状態のチェックは、体格検査のほかに、心臓、肺などに病気、怪我などがないか?血圧は大丈夫か?(ボクサーなどスポーツ選手は一般に血圧が低く、そして脈拍も遅く、心臓がドックン、ドックンとゆっくり動いているいわゆるスポーツ心臓が多いです)肝炎などの人にうつる可能性のあるウィルスを血液中に持っていないか?また、網膜はく離になるような兆候はないか、視力は大丈夫か?そして、リング上でもっとも怖い頭の事故の発生を減らすために頭部の断層撮影CT scanというのも行っております。これを行うことで、脳の先天的な異常などを発見することができます。種々ある先天的な異常の中で「くも膜のう胞」と言うものがあります。脳みそは硬い頭蓋骨の中にそのまま入っているわけではありません。お豆腐のように柔らかい脳みそは薄いビニール袋のような「くも膜」というものに包まれています。その中は髄液というほとんど水のような液体に満たされており、その中に浮いているのが脳みそです。要するにケースに入ったお豆腐と同じです。ですから、多少外から揺すられようが、豆腐は壊れないのです。ところが、くも膜のう胞という奇形つまり脳の一部の発育が悪く、水溜りのスペースが余分にあると、頭が揺すられたときに、中のお豆腐は余計に動いてしまい、脳みそが壊れてしまったり、周りに出血したりして、大事故につながる可能性がありえるからです。

このような厳格な健康診断にパスした選手のみ試験を受ける権利を与えられます。重ねて言いますが、何しろ「起きてからでは遅すぎる。起きる前に防がねば・・」という、医学全般の考えと同じかむしろ厳しいスタンスを取らなければ、不幸はなくなりませんので。

 

プロテスト

プロテストが受けられるようになると、月2回あるテストのチャンスを待つことになります。毎回80名あまりの受験生があります。その人数は減ることはなく、むしろ増加傾向にあるとのことです。それだけボクシングの裾野が広がっているのでしょうか?

1時くらいより、1から80番くらいの受験番号を割り振られたのちに、ボクシングの規則、ボクシング技術の基本、などを問う筆記試験が行われます。そして、その試験の一番最後には、自分が目標としているボクサーの名前を書いてもらうことになっています。この名前の推移を見ると、人気ボクサーの変遷がわかるでしょう。

代表的な質問は、以下のとおりです。

@       試合前の食事のとり方

A       試合前の会場への入る時間と準備

B       パンチの種類

C       いわゆる有効と思われる相手の体の部位

D       相手が倒れた場合の、自分の振舞い方

などなどです。

2時からは体重測定といよいよ実技ですが、その前に簡単に健康チェックを行います。普段はみんなスポーツ心臓と言って、普通の人より心臓の拍動などゆっくりのはずなのに、3人に一人くらいは、心臓がバクバクと動いており、ものすごい緊張が伺えます。だって、これから自分の番号が呼ばれ相手が決まるわけです。もちろん当日の体重、アマチュアの経験、過去にテストを受けた経験の有無などを参考に対戦相手が決定されます。ある意味では、これが運命の分かれ道となることがあるでしょう。

ヘッドギアーをつけているとは言っても、今までのジムでの練習と違い、他流試合です。テスト前にリングに上がり、シャドーボクシングを行っているもの、ホールの隅の暗いところでシャドーボクシングを行っているもの、じっと目を閉じ、気持ちを落ち着かせながら座っている者、かと思えば、応援に来た仲間と談笑しているものもいます。

いよいよプロテストですが、テストの基準は基本的技術どこまでできているかということです。ジャブの出し方、ディフェンスの仕方などであります。しかし、わかってはいるものの、相手がいてしまうと、何が何でも倒したいと思って、パンチを振り回しちゃったりするのが人情です。すると相手がそうしてくるなら、こっちだって夢中になっちゃいます。基本のスタイルどころではなく、もうガムシャラです。するとどうでしょう。採点の基準は基本技術ですので、共倒れも起きかねません。また、受験生の中には、妙にしっかりしているものもいますので(圧倒的合格候補)、そんな選手と当たった合否ぎりぎりの選手は、ついてない事になりかねません。攻め込まれ、そしてボコボコにパンチを打たれ、基本のジャブどころではならなくなるからです。

そして、普通プロボクシングでは、最低3分間4ラウンド戦うわけですが、テストでは2分間2ラウンドです。それでも必死に戦うと、後半部分はへとへとになる選手が結構います。基本技術以外にスタミナの有無も重要な合否の重要な判定基準です。

半年間以上ジムでトレーニングを積んできても、合計4分の真剣勝負はとてつもなく体力をすり減らすのでしょう。勿論、僕になどは2分間2ラウンドなど絶望的です。すると、世界タイトルマッチの3分間12ラウンドとは、いったいどういうスタミナなのでしょうか?彼らを見てると信じられなくなります。

二人の審判がリングサイドで採点して60点以上なら合格です。なかなか狭き門で、受験生の50-60%くらいの合格率で、合否は当日の夕方後楽園ホールの4階の片隅に張り出されるのです。小さくですが。

 

こうして合格した選手には、めでたくプロボクサーとしてのライセンスが交付されることになります。毎年、2-300名あまりが、あたらしくプロボクサーとして名乗りをあげることになります。いわゆる4回戦ボーイの誕生です。クラス別けとしてはC級選手ということになります。

さて、海外では同じようなシステムがあるかと言うと、そうではないようです。日本と違って、アマチュアボクシングが盛んですので、各ジムのマネージャーが「これはいい選手だ」と思いピックアップした選手は、そのマネージャーの責任の下に、プロとして登録されます。誰でもどんどん登録できちゃうかと思うでしょうが、あまりいい加減な選手を登録すれば、そのマネージャーのジムにおける信用がなくなるので、おいそれとは登録させられないようです。

何も海外がすべてではありません。この世界まで北米や欧州に右へならえである必要はないでしょう。アマチュアボクシングがそれほど盛んでない日本では、プロボクシングの裾野を広げる意味では、今のシステムは悪いものではないと僕は思います。勿論、アマチュアボクシングの発展は望ましい限りです。ちなみに日本でも、アマチュアでそれなりの戦績をあげている選手は、プロテストが省かれますし、さらに、かなりの戦績の選手はいきなりB級選手(6回戦、8回戦を行える選手)として登録されます。

では、このようにして節制なども重ねてプロボクサーになった選手は、その試合でどの程度のファイトマネーをいただけるのかと言うと、努力と時間とはかけ離れたものであります。大体4回戦ボーイで10-15万円くらい、テレビが入るような試合ができる人気実力ともあるような選手になると50万からいろいろあるようです。

ところで最近の話題ですが、アメリカでプロボクサーがその背中にコマーシャルを書いて、リングに上ることがあるようです。まさに動く広告ですが、これには賛否両論あるようですが、少ない収入の足しになってくれるのなら、僕は少しにぎやかにもなるし、いいのではと個人的に思っているのですが。

 

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