8. 試合前後の選手って 

 

僕自身はボクシングの経験はありませんので、体験談からお話できることは何もありません。でも、自宅近くのジムに顔を出したりして様子は垣間見ることができます。先にも述べた全国的なアンケートの結果を参考に、そしてトレーナーさんたちや選手から聞いた話を中心にお話したいと思います。

 

普段のトレーニング

普段のトレーニングは、アンケートによりますと、ジムが週に6日開いているとすると、A級ボクサーは、平均5.5日トレーニングに通うようです。4回戦が多いC級ボクサーでは、平均5日と言うのが一番多い回答だったと思います。

練習時間もC級では平均1.8時間、A級では平均2.1時間となっており、A級ボクサーは練習時間が多い傾向にあります。これは練習時間が多いから、A級になれた「原因」かもしれませんし、A級ボクサーであり続けるには、練習が必要である「必然性」からくるものかもしれません。

いずれにしても、仕事が終わってから練習後のシャワーその他の時間を入れれば、2時間から3時間近くをボクシングに注ぐわけです。たいしたものですね。時とすすると、その練習時間は、早朝にも割り振られることになります。早朝のランニングメニューのことであります。昔、豊かだったころの、どこかの実業団の運動部見たく、会社は一応来るけど、練習をしていればいい・・と言うような環境とは程遠いものがあります。

また、学生でのアマチュアボクシングが盛んで、そこからプロになる選手が生まれる米国とはことなり、本当にジムでの叩き上げの選手が日本では多いのですね。

 

試合決定から、調整

試合が決定されるのは、これもケースバイケースでしょうが、普通は1ヶ月以上前に決まる場合が多いようです。日本では一人の選手が年間3-4試合こなせば多いほうでしょうから、3-4ヶ月に一回、約一ヶ月間の調整と言うイベント起きることになります。

きっと、この期間は体力的には大変ですが、気持ちの上では充実した期間になるのでしょう。技術的な進歩を要求され、体力特に持久力の養成も必要ですし、体重との戦いもあるわけです。しかし、ここで面白い結果あるのですが、ボクサーたちへのアンケートで、「試合に勝つために一番重要なことはなんですか?」の問いに答えてくれた中で、勿論技術、体力と言うのをあげる選手が多かったのですが、同じくらいあるいはもっと多かったのが、「自分のハート」との答えでした。ですので、体力的消耗をする期間に、気持ちつまりモチベーションを保ち、うまく試合に頂点へ持っていくようにするメンタルコントロールも非常に重要なものなのですね。

技術体力に関しては、選手個々により課題などが異なると思いますが、共通しているのは体重の問題です。選手の体重は種々に渡るわけですけど、通常、減量は体重の10%までがよいといわれています。つまり50kg代の選手では5kgくらいが適当と言うことですね。これを1ヶ月の間に行う場合が多いものと思われます。日本の選手は特にボクシングが盛んな中南米の選手と異なり、試合間隔があきますので、ガードを緩めて増えた体重は減量操作を必要とします。ところが、中南米はしょっちゅう試合がありますので、減量などしている暇がありません。したがって、「適正体重」近くで普段の生活をしている選手が多いと聞きます。

この減量ですが、医学的には、もともとボクサーたちは皮下脂肪などが多くありませんが、減量の第一歩はその脂をそぎ落とすことから始まります。筋力トレーニングも行うわけですので、筋肉つまりたんぱく質が体につけば、体重は少し増えることになります。ですからボクサーたちが最後にできるのは水分を搾り取ることになります。その期間はアンケートでは平均29.5日間であり、平均の減量重量は5.56Kgでした。最後には、「水は飲まない」オシッコでもサウナでも、何が何でも水分は全部出す・・そうして試合前日の3時から行われる計量に向かうわけです。

この減量は本当にきついものと思いますが、アンケートでは約半数が「キツイ」と答えています。ぜんぜん大丈夫という選手も7-8%くらいはいました。しんどいときの症状は、「疲れやすい」「めまい」「発熱」「集中力の低下」などが訴えられていました。辛そうです。その体の消耗の反面、来るべき長丁場の試合では有酸素的持久力の向上は必須であり、スパーリング何ラウンドとか、10日間で200Kmのランニングを行うなどして、鍛えているわけです。聞くだけ、書くだけで大変そうです。

 

試合の前日計量、検診

試合前の計量は一番重要なことです。これをパスしないことには、試合を認めてもらえませんし、ましてや一種の契約違反になるわけです。通常は後楽園では、JBCのスタッフが詰める10畳ほどの部屋で行われます。ときとしてJBCの事務局を使ったり、後楽園ホールにある広い展示会場が使われることがあります。

何しろ、何グラムを争うことですから、選手はみんなトランクス姿で秤の上に上がります。日本の選手は大体しっかり管理していますので、この時点で体重オーバーはほとんどありません。ですけど、海外からの選手で体重オーバーなんていうのがあります。すると、後楽園ホールのあるビルにあるサウナに行って、ホッカホカになってきます。それでもだめなら、タイムリミットまで周囲を走ってきます。そして、トランクスも脱いで、はかりの上に上がるわけです。僕は目撃したことがありませんが、髪の毛まで剃った選手がいたそうです。そんな選手は、その後に行う健康チェック(検診と呼んでいます)では、もう、「体の中から、水が思いっきりなくなり、カラカラだ!!」と言うような状態になっています。つまり、熱中症、脱水症というような人間が立っていられる限界のような状態ですね。何がいけないのかわからないのですが、選手本人を見ていると本当にかわいそうになります。

 

試合当日

計量が終われば、もうほとんど自由の身です。でも、絞りに絞った体を早急に回復するのは並大抵のことではありません。すぐさま多量の食事を取ったりするのは、多量に抜けてしまった水分の補給と言う一番の仕事をないがしろにしています。水分補給そしてミネラルなど含んだバランスのよい食事を心がけるべきでしょう。ご飯、うどんなど、糖質の補充も試合前は必須です。生ものや揚げ物など、消化のよくないものは、直前はよくないのは誰にでも想像できますね。最近はどのスポーツでもそうですが、そのあたりの栄養学は普及してますので、どのジムでもよく選手に指示していると思います。しかし、なかにはその指示とは裏腹に、試合直前まで食事をたっぷり取っちゃう選手もいるようです。すると、試合直前の体重測定で、前日の計量のときより5Kg以上も増えている選手もいます。そのような選手は、本来前日の体重は適正なものには程遠いことと判断され、重量別クラスの変更をJBCより指示されます。ましてや満腹状態から脱却した程度で試合を行っては、試合の後にもどしてしまう選手もいるのです。信じられません。ですので、水分補給と言うのは好ましいことなのですが、食事そのものは、規則で試合開始数時間以内は避けるようにしているのですが。

 

試合後の対応

試合後は、われわれが待ち構える医務室に来ることになります。勿論中にはインタビューなどをこなす選手もおりますが、多くの選手はすぐに来ることになっています。そこで、血圧や脈拍、心臓のチェック、神経系の異常をチェックします。何しろ、たかが医務室ですから、最低限度のものであることは否めません。でも選手が抱える不安や症状に対しては、primary careの医師としては一生懸命対応しているつもりです。すぐさま処置や検査が必要な可能性があるときは、東京では、日大駿河台病院か慈恵医大の救急部へ行って精密検査をするようにしています。こんなことはめったにありませんが、最後に述べる生死にかかわる頭蓋内の出血が生じたときは、最近10年くらいでは、リング上の発生から、手術の開始まで90分以内にできるくらい、迅速な処置と搬送システムが確立されております。

そうでなく、バッティングなどで瞼の周囲を切ったときなどは、先に述べたとおり医務室で縫合と言って縫い合わせちゃう処置まで行っています。

冒頭に述べたとおり、この現場で僕たちは選手と接触することが多いのです。いろんなことが聞けます。今の試合をどのように戦ってきたかとか、どこが大変だったとか。僕は、結果はともあれ、大仕事が終わった彼らと接触できるこの時間が好きです。もちろん、彼らが医務室を出るときには、病院ではありませんので「お大事に・・」ではなくて、心から「お疲れさま!!」であります。これから、苦労をともにしたジムの方々や友人家族と労いの時間が始まるのでしょうね。ときとして、その現場に水道橋界隈の居酒屋で遭遇することがあります。いつも、そっと遠くから見ているのですが。

 

試合後の自己管理

試合が終われば、後は次の試合まで自由の身です。体そしてメンタルな疲れも取れるのに、時間は必要でしょう。アンケートでは、選手は体に異常があることは結構多いようです。頭痛、耳鳴り、めまい、などが多い結果が得られました。通常は時間とともに回復してゆくのでしょうが、頭痛などは慢性的な事柄と答えた選手もいました。

ノックアウトされた選手は少々事情も違います。選手自身の健康管理の自覚もあり、少なくとその夜は、一人でいないようにすることを薦めていますし、実際そうしてくれてます。また、何か頭痛などがあるようなら夜中でも病院への受診を薦めています。彼らの練習再開のスケジュールですが、当然時間を空けることを奨めています。ノックアウトの後つまり脳震盪の時期から回復しないうちに再び打撃をこうむると、second impact syndromeといって、致死的なダメージを脳に生じることが知られています。従ってJBCでは、ノックアウトの選手はその後60日間の出場を停止します。かなり前は30日程度、その後45日と延長し、どんどんと選手の安全に配慮されるようになりました。選手たちはこの間でもトレーニングを行うわけで、ジムにおいてもは気をつけなくいけないことですので、年に一回日本プロボクシング協会とJBCの共同で開催される全国規模の健康管理委員会にて、お話をして、この概念にかかわる安全対策が広まることを願っています。

 

僕のボクサー感

このような厳しい生活をして、経済的に恵まれるチャンスはとても少なく、そして、殴られて痛いのに、なぜボクシングを行うのでしょうか?それは、種々の理由があるでしょうが、ひとつには「何かをひとつ成し遂げたい」という切望があるのではないでしょうか?そうでなくては、述べてきたような厳しい自己管理は到底できません。相対的に身長などでも日本人の平均より低い選手がとても多いのですが、これは「強く、大きくありたい」という願望が基盤にある選手が多いのかもしれません。あるいは小児期のトラウマみたいなものの存在もありえるでしょう。でもともかく、彼らはコマーシャルベースの格闘技とは違い、いつも真剣勝負をして、このスポーツに打ち込んでおり、その姿に感心しています。リング上ではものすごい形相で相手と打ち合う選手も、普段は優しかったり、礼儀正しい青年が多いです。それは試合後に検診に来る選手を見ていると、本当に感じてしまいます。それがあるから、今までいろいろありましたが、自分自身はリングサイドドクターを続けてきたのではないでしょうか?

 

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