河合奈保子さんと私  

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(以下、2004年の文章ですので、どうか稚拙な内容は大目に見てやってくださいませ。8年後に読み直して、顔から火が出ました(苦笑)。
 
私が音楽チャート・アナリスト「つのはず誠」としてさせて頂いている仕事は多くありませんが、それでも歌謡曲ファンの方にしばしばお声がけしていただける理由の一つに

「河合奈保子さんのBOXの解説や監修に関わった人だから」

というのがあります。
これは、本当にありがたいことで、自分でもあの仕事は“宝箱”だと思っています。しかし、私は奈保子さんにファンレターを送ったことはありますが、ご本人に会ったことは一度もありません。そんな私が、なぜあのような仕事を携わったのか?また、そもそもなぜ奈保子さんのことを語りたかったのか?そのあたりをここで、まとめておきたいと思います。(結論から言うと、私は大した人間ではないということなのですが(苦笑)。)

以下、思いつくまま書いていますので、誤字脱字は善良に解釈してください!(苦笑)


1・学生時代
 そもそも奈保子さんを意識し始めたのは、1984年、デビュー5周年に差し掛かったあたりと、この時点で既にファン失格と言われるかもしれません。(笑)もちろん、それ以前も『ザ・ベストテン』ノートをつけていたくらいですので(笑)、ヒット・アイドルとは知っていましたが、奈保子さんの豊満なダイナマイト・バディを助長するような戦略的な歌詞がちょうど微妙な年頃の私には、受け付けなかったのです。
 ですが、信頼できる大親友が、その前年くらいから奈保子さんのアルバムを聞きはじめていて、「あぁ、近くにファンもいるんだな」と先入観は徐々になくなり始めていました。
 そんな中、きちんと歌を聴いてみたのが「コントロール」「唇のプライバシー」なんですね。そうすると、パンチがあるのに、下品にならない。それどころか、切なさや憂いのある伸びやかな声で、実に素晴らしいのです。むしろ、それまでの先入観とは逆のイメージを持ちました。で、その2作後の「ジェラス・トレイン」で一気にノックアウトされました。私は、今でも『自分を変えた10曲』を挙げると、この「ジェラス・トレイン」と「ハーフムーン・セレナーデ」は入るほどです。

 それ以来、奈保子さんの出る番組や雑誌はチェックするようになりました。
ただし、あくまでも音楽から入ったので、歌番組とか音楽雑誌とかでの奈保子さんしか知らないんです。だから、写真集とかバラエティ番組とかの奈保子さんの記憶は今でもほとんどありません。それで、チャートマニアだったので、奈保子さんのもくまなくチェックしていました。ただし、ご存知のように
おニャン子クラブ全盛以降、どうしてもシングルのセールスは下り坂でしたので、セールス以外のラジオリクエストとか有線とかアルバムチャートとか、あるいは地区別だとか、とにかく奈保子さんをきちんと評価しているメディアを見つめるために、複眼的に捉えようとしていました。これが、現在でも「ヒット曲をシングルのセールスのみで評価してはならない」という分析の仕方に大いに役立っています。
 つまり、奈保子さんが抜群の歌唱力や個性ある作曲能力を持ちながら、セールス的に下り坂になってしまったということが、自分のチャートへのこだわりをますます高めていったのです。加えて、プロモーションの仕方次第で、売れ行き改善される、とこの時に反骨精神を学びました。
(つまり、奈保子さんが売れなくなったのは、宣伝方法や発売時期など様々な要因も関わっていると思います。)

 また、関西に住んでおり、加えて学生でお金が限られていたので、奈保子さんの生歌を初めて聴いたのはそれよりも更に遅く89年のミュージカルが初めてなんです。それまで、ライヴ・ビデオは観ていましたが、生で聴くと奈保子さんの歌唱は本当にパワフルで凄いんです。最近、仕事でいろいろなアーティストのLIVEを観に行くと、申し訳ないけど、レコーディングより劣ることが多いのですが、奈保子さんの場合は、レコーディング以上にLIVEで伸びやかでパワフルな歌唱が映えるのです。自分の中で、一番それを感じたのは、東急のイベント・コンサートで歌った「美・来」ですね。これには圧倒されました。レコーディングでは、88年の『Menmers Only』以降は、正直声がこもっているのがしばしばあったのですが、(これは、アレンジャーが歌唱を強調しない方向に考えるようになったことなどがあるとも推測しています。)LIVEで聴くとその時期ですら本当すごい人だなぁと分かりました。
これは、1995年のTOKYO FMホールでもそう感じました。

2・社会人になって

 実は私は、音楽業界に来るまでは化学メーカーの研究所に勤めていました。その時は、人に会う度、チャートへのマニア度をバカにされていました(苦笑)。いわゆる専門職のスペシャリストが多かったので、

「こんなこと(仕事以外のことを詳しく分析して)して、いったい何になるの?」

と否定的によく尋ねられていました。でも、やっぱりチャートが好きで、奈保子さんの歌を聴くのが大好きで、止められなかった。あと、音楽通の人がいなければいないほど、周りは巷のヒット曲を正しい音楽として聴いていたので、余計に反骨精神で応援していました。でも、奈保子さんの音楽は先入観がない人ほど、きちんと「あぁ、この人上手いよねー」って認めるんですよ。これは、外国の方など一度も聴いたことのない人では特に顕著なんです。だからこそ、01年に出たCD BOXであらためてファンになった人たちも沢山いるわけで。そういう先入観を口コミで氷解させることも楽しかったです!

 研究職の仕事はそれなりに頑張ったのですが情熱のなさから限界を感じてきました。たとえ勉強は同じくらい出来たとしても、やっぱり本当に好きな人は「科学の中に隠されている真理の探究」一筋にやってるんです、損得勘定なんて抜きで。あぁ、やっぱりこういう人達は凄いなー、と思ったし、
自分が何物をも省みずに、一所懸命になれることをやりたい、それには音楽しかない!と思い、1997年9月、皆からまたもおかしな奴と思われつつ(笑)音楽業界に転職しました。

 それで、転職はしたものの、音楽業界というのは、学歴が関係なく、その業界でどれだけ実績を残してきたかで決まる世界だと思い知らされたんですね。これは、国家公務員とか大手メーカーではありえないある意味リベラルで素晴らしい環境なんですが、私みたいに、全く別の業界にいた人間としては、非常に不利な扱いだったんですよ。それまでの社会人としての処理能力はさほど考慮されないんだから。オマケに、チャートに詳しいったって、それがどう仕事に活かせるか、会社も分からないから、相手にもされなかったし。更に、広告代理店に入ったものだから、クライアントに対しての言葉遣いなんかが物凄く細かくて、当時の会社の人に1日数回は怒鳴られていました(苦笑)。

 で、自分には分析する力もあり、音楽を聴くセンスもあるのに・・と(単に自惚れです(笑))悶々としていたので、表現の場としてホームページを作ることにしたんです。草の根的な運動でヒットを飛ばすことにも挑戦したかった。一つは、ミッチャンこと演歌歌手の中村美律子さんのホームページ。彼女は、大阪出身で、コンサートはいつも感動して泣いている人がいるほどの味わいある歌唱が出来る人なんですが、シングル1曲では彼女の深遠な魅力が分からないがゆえに大ヒットがなく、まだまだ知らない人が多かったんですね。それを、若者の私が応援するというギャップで、演歌でも若者をも魅了する人がいる、ということを身をもって示したかった。このホームページが様々なメディアで取り上げられ、面白くするってこういうことか、と学びました。

 そして、もう一つの夢として河合奈保子さんの歌の上手さを、こちらも先入観を払拭するように紹介するホームページを作りたかったのです。既にいくつかの画像中心にまとめたページはいくつか出来ていたので、私としては自分のオリジナリティーを出そうと、それまで10年以上暖めていたチャートを自分の分析と併せて載せることにしたのです。それが、「河合奈保子チャートのお部屋」です。当時は、プロの執筆の仕事を全くしていなかったので、
好き放題、作品の嫌なところをそのまま書いていました。でも、そうすることが音楽というフィールドで自分を表現する唯一の手段を保っていたような気がします。このホームページがあったからこそ、日常の辛いことから抜け出していたんだと。
 そのページでは、すべてのシングルチャート、有線チャート、ラジオチャート、アルバムチャートを載せていました。いまでも、他のアーティストであれだけマメにグラフ化して、その順位の上がり下がりまで分析していたページは、そうそう見ないですからバカだったんでしょうねぇ。(笑)加えてシングル曲以外の曲も紹介していたので、いろんな奈保子ファンの方とコミュニケーションも出来て楽しかったです。


3・奈保子さんの仕事が来るように

 音楽業界での仕事は徐々に増えていったのですが、まだまだヒヨっ子で、自分の実力を分かってくれるのはネットだけだと悶々としていました。そんな2001年の初め頃、一つ上の姉が亡くなったのです。 その姉には「涙のハリウッド」を買ってもらったり、私が受験期でTVを見れないときに、奈保子さんの夜ヒットのマンスリーを録画してもらってたり、あと本人が髪型をよく真似ていたりと、結構、奈保子さんにまつわる記憶があったこと、そして享年33才という無念の夭折に、かなり落ち込んでいました。

 しかし、その翌月(2001年5月)に、コロムビアのディレクターの高野さんからメールがあったんですね。「河合奈保子のCD BOXを出すので、一緒に仕事をしてもらえないか」と。そんな時期に自分の運命を変える連絡があったので、物凄く感慨深いものがありました。高野さんからは、
「奈保子さんのビジュアルではなく、楽曲を中心に批評しているサイトを見つけて」
と偶然、お声がけしてもらったのです。

 それ以来、CD BOX、DVD BOX、CD BOX第2弾と解説や選曲のサポートに携わってきました。選曲のサポートというのは100%自我を通したという意味ではなく、ファンの方の最大公約数の意見を整理したという意味でございます。また初期の楽曲についてもなるべく収録するように心がけました。

当時は、「うすいのたかし」としては好き放題書いていましたが、「つのはず誠」としては、やはりお金をいただくのですから、個人的に気に入らない部分はあっても、その中で良い部分は見つけるべき、とファンの方々を傷つけないように書くことを心がけましたので、同一人物だということを伏せていました。時々、「まさか、同じ方ではないですよね?」という指摘がありましたが、「いえいえ、私は悪口ばかりですので・・・」と否定していました。当時、きちんと説明をしなくて、本当にすみませんでした。でも、奈保子さんの歌の上手さを伝えたくて頑張ってきました。どうぞご容赦下さい(微笑)。

その3作の仕事で個人的に一番気に入っているのは、DVD BOXに書いた解説の最後の方、

「デビュー5周年、自作曲のアルバムの発売、更には結婚会見と彼女が転機を迎える度に口にしてきた
「マイ・ペース」。我々はこの言葉を信じて、いつの日かまた河合奈保子が自分のペースで安心して
大好きな歌の仕事に復帰できることを静かに見守っていきたい。」

というフレーズです(自画自賛で恥ずかしいですが!)。
もちろん、まだまだ勉強不足ですが、頑張っていこうと思います。

 この仕事のお蔭で、CDジャーナルの解説の仕事や、岩崎宏美さんの30周年BOXの選曲にまで携わるようになったしと、本当に人生って不思議だなーと思います。だって、10代の頃、何の見返りもなく、ヒットチャートをまとめてはそういう番組を聴いて、いろいろ考えていたことが後年、仕事になっている訳ですから。だから、33歳くらいになってからですね。

「前を向いている限り、人生に無駄などない」

ということに、気付いたのは。今では、自分の座右の銘となっています。大好きな仕事をさせてもらって、私を育ててくれた色々な人に感謝しています。



ところで、私が河合奈保子のヴォーカリストとしての実力を知ってもらいたいときは、『Jewel Box』『Jewel Box II』から選曲した以下のアルバムを聴いてもらっています。シングルは前者に、それ以外は後者に入っていますので、2つとも買えば自分でも最高級の音で編集できます!これを聴かせると、かなりの人が前向きに評価してくれます。

<奈保子ンピレーション:名ヴォーカリスト 河合奈保子>
1・水の四季 ('87、アルバム『JAPAN』)
2・君は綺麗なままで ('85、企画シングル)
3・THROUGH THE WINDOW ('85、シングル)
4・ジェラス・トレイン ('85、シングル)
5・コントロール ('84、シングル)
6・唇のプライバシー ('84、シングル)
7・MANHATTAN JOKE ('85、シングルc/w)
8・モスクワ・トワイライト ('84、『さよなら物語』)
9・美・来 ('90、シングル。アルバム・ヴァージョン『ブックエンド』が特に好きですが。)
10・十六夜物語 ('87、シングル、『JAPAN』)
11・星になるまで ('85、アルバム『9 1/2』)
12・冬のカモメ ('85、アルバム『9 1/2』)
13・Dear John ('88、アルバム『Members Only』)
14・海岸道路N2 ('84、アルバム『さよなら物語』)
15・夢かさねて ('85、アルバム『NAOKO22』ボーナス・トラック、ファン投票1位曲)
16・ハーフムーン・セレナーデ ('86、シングル、アルバム『スカーレット』、
オススメは'88の『NAOKO THANKSGIVING PARTY』のヴァージョン)

ボーナス・トラック ・しあわせの輪を広げよう (未発売)

最後に、河合奈保子さんへ。
いつの日も、私の力になってくださり、本当に有難うございました。
いつの日か、お会いできる日を、本当に本当に楽しみにしています。


2004年8月 つのはず誠/臼井孝



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