第22回(1999年09月)
ほんとは、そうじゃないんだけどな。
でもほんとは、そうでなくてもいいんだけどな。
心がつぶやく。
どうでもいいから、とにかく海にでも逢いに行こうかな。
波を聞きながら、たゆたうように、リズムにまかせていれば、
なんだか、たぶん、うまくいくんじゃないかな。
「たぶん、うまくいく」っていうのは、きっと、
「たぶん、どうでもいいように思うこと」なんだろうけれど。
答えは、分かっている。
なくしたものの大きさは分かっている。
だから、取り戻したときの喜びと、また失わないようにと願う不安が交錯する。
自分の気持ちは、ホントは、分かってる。
分かっているんだけれど、でも、事象の渦に巻き込まれているときは、何かしてしまう。
何かしなくてはならない気持ちになってしまう。
けれど、その事象に巻き込まれているのに、もがいたら、エネルギーをなくしてしまう。
エネルギーを使いつくすのもいいんじゃない?
時間に身をまかせて流されるのもいいんじゃない?
日常の生活の中で、見忘れていたものがある。
非日常と思われる生活の中にも日常はある。
非日常の中の日常を愛おしむ映画を。
ヒューゴ・プール(1996) |
どこか、ネジがはずれたような日常です。僕たちが生きている社会とは、ちょっと違うかもしれない日常の中で、でも、こんなこともあるよねと優しく語りかけてくるような数日の物語です。 |
フェリーニの 8 1/2(1963) |
多くの幻想のような、時間も逆流してしまいそうな中、現実と夢が交錯します。日常と非日常が奔走します。しかし、主人公グイドにとっては、全てが現実で、全てが、非現実なのです。彼を満たしうるものはなく、満たしきれない何かを追いかけることしかできないでいるのです。 フェリーニは、映画監督としての現実の自分と、マストロヤンニ演じる架空である主人公とを重ね合わせ、自らを迷走させます。 時代は流れても素晴らしい作品は、心に宿り続けるものだと思います。 ☆☆☆☆ |