2006年12月21日号

勝手にタケちゃん通信 勝手にたけちゃん通信

「スポーツは素晴らしい!」編

幼い頃は走るのが得意で、リレーの選手だった。
小3のときに入院して、運動は1年間ドクターストップ。
けれどバレーボールが大好きで小4から女子チームに混ざって
始めた。小5ではフロータサーブもビシビシ決まり、中学入学時
には垂直跳びが70cmを越えていた。

入学した四月、中学男子バレー部が廃部になった。
ケッコウな絶望感、オレの人生どうしてくれんだよ的な。 笑
仕方なく入ったバスケも、先輩と衝突してやめる。

高校入学前には高校バレー部の練習に参加。
顧問の秘蔵っ子扱いに、先輩から陰湿な嫌がらせを受ける。
「一人で洗濯物しろ」と部室いっぱいに溜まったトレーニング
ウェア。
ところが洗濯は小学校の頃から家でやらされていて大好き。
きれい好きな自分は2日で全部洗い終え、乾きの悪いモノは
乾燥機にまでかけて仕上げてしまった。
くじけずニコニコ洗濯したにも関わらず、さらに練習妨害。

この闘争にバカらしくなって、大好きだったバレーボールを
簡単に辞めてしまった。
安易な方向に流された。学校外で女の子と遊ぶ方が楽しく、
スポーツではない仲間が拡がった。
勉強もロクにしないまま、ユルい時間を過ごした。
小学校の頃から情熱を持ち続けて大好きだったバレー
ボールをアッサリ捨ててしまった。

 

大学時代、突然にテニスにハマった。
遊び仲間がテニス仲間となり、真夏に4時間テニスする
日々だった。昼ご飯やコート代を賭けたりと、試合ばかりの
テニスだったが、打ち合うときの感触は至福の時だった。
とくに高校バレー部からの友人Y田とのラリーは、お互いに
譲らず、打ち合える楽しさがいっぱいだった。

しかしY田の病気による離脱、死と共にテニスは悲しさと
寂しさを思い出すだけのものになってしまった。
久々に仲間を誘い、テニスをしたときに、自分の心の中では
お別れテニスだった。
テニス終了後、コート上でY田の死を仲間に伝えたとき、涙が
ポタポタとこぼれ落ちた。来れなかった仲間に電話で伝える
ときも、今までの時間が止まってしまったように感じた。
Y田の死に何も役に立てなかった自分が情けなかった。
もう二度とテニスはやらない、自分の中でのテニスが終わった。

Y田の死は凄まじい悲しみをもたらしたが、楽しかったテニスの
時間はY田とだけではない、一緒にいた仲間がいて、ゆっくり
紡ぎ出していった時間だった。Y田があまりにもイイヤツすぎて、
感傷的にY田との時間を忘れることばかりに没頭して、自分に
とっての大切な時間と仲間を見失っていた。

 

10年を経て、生徒が持っていたテニスラケットを見て
もう一度、ラリーがしたいと思った。
10年の時間は体重を30キロ増加させていて、運動もロクに
しないドタドタオッサンに変貌していた。
追いつかない、動けない、コントロールが効かない。笑

気持ちは、真夏の大学時代を越えているかもしれない。
スポーツをすることがこんなにも楽しかったのかと、しみじみ
思わされる。
もう試合に興味は薄れていた。勝つとか負けるとかが問題
ではなく、自分のショットを打てるか、今日は納得の一打が
打てたかが自分の身体を動かしていた。

続けることのすばらしさを知った。
ずっと続けていたら、オチョウ夫人のように華麗なボレーを
打っているだろう。テニプリのようにあり得ないような
ストロークを打っているかもしれない。笑

しかし自分にとってテニスをやめた時間は必要だった。
だからこそ、続けていく時間の貴重さ、仲間の大切さを知った
のだ。テレビでバレーボールを見ていてもまだ心がワクワク
する。小学校のときに感じたボールへの思いがわき起こる。
簡単にやめてしまっても、スポーツへの想いは心の中に
残っている。

10年前の中学生たちの将来の夢はゲームプログラマー
だったが、最近の中学生たちの夢は、スポーツ選手へと
変化している。

夢をあきらめないで、続けて欲しい。
高校に入って、カレシカノジョといった方向に流されて
スポーツを辞めないで欲しい。
大学に入ってバイトとテキトーな時間に、覆われないで欲しい。
イヤなこともいろいろあるだろう。うまくいかないことも多々ある
だろう。
歳を経るごとに分かる、若さの疾走感。ときに暴走気味になる、
けれど自分の大切なものは続けて欲しい。

夢をあきらめないで、続けて欲しい。
スポーツは続けるだけですばらしいものだと感じる時間が
きっと訪れるだろうから。

BACK