第4 国生み |
古事記の叙述 さて,問題は国生みでした。 伊邪那岐命と伊邪那美命は,淤能碁呂島に降って,「みとのまぐはひ」により国を生もうとします。ところが,最初に生まれてきた子は「水蛭子(ひるこ)」。現代でいう身体障害児だったのでしょう。これは捨て去り,次に生まれてきたのは「淡島」。なぜかこれも子に数えませんでした。そこで2神は,天に上って,天つ神の命令を聞きます。すると天つ神は,「太占(ふとまに)」で占って,「みとのまぐはひ」をする時に女が先に喜びの声を上げたのがいけなかったと言います。そこで淤能碁呂島に帰ってやり直すと,きちんと国が生まれてきたのでした。
以上を読んで,笑えませんか。私には笑えます。 国生みは生殖行為ととらえられています。性の問題について,天つ神の命令を請うという感覚が,もはや私には理解できません。昔の人は理解できたのでしょうか。 そんなことよりも,神が太占で占うという点が,どうしても引っかかってしまいます。 太占は,鹿の肩胛骨を火であぶり,その割れ具合を見て神意をうかがう占いです。いわゆる魏志倭人伝に,骨を焼いて吉凶を占うと出てくるように,人間のやることです。神が神意をうかがって,どうなるというのでしょうか。天つ神のさらに上に,宇宙の最高神みたいなのがいるのでしょうか。宇宙神盧舎那大御神(うちゅうしんるしゃなおおみかみ)みたいなのがいるのでしょうか。私は,そんなことを考えてしまいます。 仏教受容後に,まず聖徳太子が,「世間虚仮(せけんこけ)」という仏教の本質を理解したといわれています。世の中は空しい。仏こそが真実である。確かに釈迦は,そう考えていたでしょう。 古事記ライターは,高御産巣日神ら3神が最高神だと決めつけたはずです。それが伊邪那岐命と伊邪那美命に修理固成の命令を下し,国生みを命令したというならば,占いなどあり得ません。 自らが神であると自称する教祖は,現代でさえ占いをしません。自分が神であり,自分の言葉が神の言葉であるから,占いをするまでもなくこれが正しいと,厳粛に断言するだけです。彼らは,占いなど,邪教を信じた者がすることだと言って,烈火の如く怒るでしょう。それくらい潔癖で,自尊心があります。神の言葉を伝える巫女さんもいます。不思議なエネルギーを発散させるため,周囲から祭り上げられ,新興宗教を起こしたりします。しかしこれは,断じて神ではありません。人間です。神の言葉を伝える人間です。 要するに古事記ライターは,神に仮託して,じつは人間を語っているにすぎないのです。
じつは,古事記の叙述は,日本書紀第4段第1の一書にそっくりなのです。大筋としては,これを出ていません。 日本書紀を論ずることになってしまうので詳しくは省略しますが,第1の一書でも,天つ神が,行って治めよと命令します。これは,古事記における「修理固成」の命令です。国生みがうまくいかないので天つ神の指示を仰ぐところも同じ。天つ神が太占で占うのも同じ。性器を表現する言葉も似ています。最初に「蛭子(ひるこ)」を生んで葦舟にのせて流し,次に「淡洲(あわのしま)」を生んで子として数えなかった点も同じです。 そして,最も注意すべき点は,第1の一書もまた支配命令の体系を軸とした伝承であり,権威的権力的体臭がぷんぷんしている点です。また,論理のいい加減さが売りなのも,古事記と同様でしょう。
国生みの話の前,すなわち葦原中国などまだ生まれてもいないのに,天つ神が「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の地(国)有り。汝(いまし)往きて脩すべし(しらすべし)」と命令しているいい加減さ。何がいい加減かって。@豊葦原中国はこれから生まれるのであって,まだ生まれていません。Aじゃあいったい,国譲りという名の侵略はどうなるの。「汝往きて脩すべし」だったら,国譲りという名の侵略は必要ありません。 これは,まず間違いなく,トンデモ本の世界です。こんなでたらめな異伝が,日本書紀に堂々と掲載されているのです。初めて読む人は,腰を抜かすでしょう。神話だから許されるのでしょうか。 私の神話のイメージは,以下のとおりです。 日本書紀第4段第1の一書は,そんな鍛えられ方をしていません。言いたいことを言いたいだけ言いたかった人たちが残した伝承というほかありません。 当時最高の官僚であり最高の知識人であった日本書紀編纂者は,この第1の一書の出鱈目さがわかっていました。だからこそ,これを異伝扱いしました。国家の体面がかかった公定解釈である本文には,採用されていません。
さて,生まれてきた国々が問題です。これもまた,古事記を読んでいるだけでは何もわかりません。まず,日本書紀を読んでみましょう。 日本書紀第4段本文はこうなっています。
我々は,国生みの話を読んでいるのです。ところが,「淡路洲を以て胞とす」とはどういうことでしょうか。第4段本文は続けます。「意(みこころに)に快びざる(よろこびざる)所なり」。だから,名付けて淡路洲(あはじのしま)という。最初に生まれてきた「淡路洲」は「胞」であり,恥だったというのです。 学者さんは言います。胞(え)とは第1子の意味であろう。「胞(え)」は「兄(え)」につながる。一方で,第1子は生み損ない(障害児)になるとの伝承がある。ここではそのとおり生み損ないだったので,吾が恥(あがはじ),すなわち淡路(あはじ)と名付けた。 いかにもわかったような説明です。第1の一書に出てくる蛭児(ひるこ)についても同様に,学者さんたちは,やはり第1子として生み損ないだったといいます。 ですが,叙述と文言から考える立場からすれば,完璧な出鱈目です。日本書紀をきちんと読まずに,自分が研究したことや断片的な知識を強引に当てはめようとする,しょうもない議論にすぎません。日本神話の世界では,研究に一生をかけた学者でさえ,平気でこんなことを言うのです。私は,日本神話のこうした現状が許せません。日本書紀をきちんと読んでいないくせに,平気でこうした議論をしているのです。 問題は2点あります。@胞を第1子としている点,A第1子は生み損ないであるという点です。 以下,かなり長くなりますが,日本神話をどう読むかという方法論上,決して無視できない論点ですし,今までの学者さんたちの議論がいかにしょうもないかを認識する恰好の材料なので,とことん検討してみましょう。
じつは,日本書紀自体に,「胞」の定義があります。 景行天皇は,播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后として,2人の子をもうけます。兄は大碓皇子(おおうすのみこ),弟は小碓尊(おうすのみこと)。この弟こそ,日本武尊(やまとたけるのみこと)です。日本書紀でも,超有名な部分です。 この2人は,「一日に同じ胞(え)にして双に(ふたご)に生れ(あれ)ませり」。要するに,日本武尊は双子の兄弟として生まれた。それは,「同じ胞(え)」に包まれていたというのです(景行天皇2年3月)。 日本書紀編纂者は,胎児が「胞」に包まれていることを知っていました。2つの胎児が1つの胞に包まれていることも知っていました。それが双子であることも知っていました。
景行天皇2年3月にはっきりと示された定義を,うっかり見落としたとしましょう。全体を読まずに一部分だけ読んで,体系的理解を無視したことは許しましょう。 第4段本文はこうなっています。「先づ(まず)淡路洲を以て胞(え)とす」。その後さらに,「大日本豊秋津洲」,「伊予二名洲」,「筑紫洲」,「億岐洲」と「佐度洲」の双子,「越洲」,「大洲」,「吉備子洲」を「生む」。 淡路洲については「胞とす」であり,「胞として生む」とか,「胞を生む」とは決して書いていません。生むのは子供です。これに対し「胞とす」るのは,子供以外の何かが母体から出てきたので「胞とす」と表記したと考えるほかありません。
「胞」は,第4段本文,及び第4段第6,第8,第9の一書に出てきます。読めばわかりますが,どの島が「胞」であるかは異なっています。しかし,まず初めに母胎から出てくるのが「胞」であるという点では共通しています。 では,胞とは何でしょうか。 広辞苑第4版には,「え【胞】・後産(アトザン)。えな。神代紀上『淡路洲(アワジノシマ)を以て―として』」とあり,さらに「あと‐ざん【後産】・分娩の第三期。胎児の娩出(ベンシユツ)のあと,胎盤が子宮壁を離れ,卵膜とともに胞衣(エナ)として娩出されること。のちざん。こうざん。」とあります。
要するに,子ではありません。子を産むときに,まず最初に母体から出てくるおりものです。だからこそ日本書紀編纂者は,「胞(え)とす」という文言を使い,そのあとは「生む」という文言を使ったのです。 胞は,現代では後産とされています。しかし,当時女性のおりものを胞と呼んでいたと考えても一向に不思議ではありません。とにかく出産は,まず破水があって,そのあとに胎児が出てきます。日本書紀編纂者は,破水に伴う女性のおりものを,胞として国に数えなかったのでしょう。本来捨てられるものですから,国として数えなかったのは当然です。 第6の一書は,2つの胞があったとしています。これは2つに分かれて出てきたと考えておけばよいのでしょう。
第4段本文が,「胞」を「意(みこころ)に快びざる(よろこびざる)」としているのは,胞が破水に伴うおりものである以上,当然です。国を生むつもりが,破水という形のないものが出てきたので,喜ばなかったのです。 ここで,細かいことを一切忘れて,日本書紀全体の流れから,この問題をとらえ直してみましょう。俯瞰してみましょう。 第4段本文が述べているのは,性交を知らない男女が遘合(みとのまぐわい)に至る,ほのぼのとしたお話です。本文の大半は,性交の方法を誤ったお話でした。そして,我が身に「雌(め)の元(はじめ)」というところあり,我が身に「雄(お)の元(はじめ)」というところありと呼び合って,性交を始めるのでした。性交の方法さえも知らなかったのです。遘合に至る方法,すなわち,男が左から回るのかとか,女が先に声を上げてよいのかとかいうことはもちろん,第5の一書によれば,「其の術を知らず」。鳥の仕草を見て,性交の方法を知ったのです。 こうした,うぶな男女が,子供が出てくると思って期待して見ていたら,いきなり「胞」が出てくる。国どころか,形のない破水です。これを見てびっくりし,「意(みこころ)に快びざる(よろこびざる)」となり,吾(あ)が恥となったのではないでしょうか。 これが「淡路洲」の地名起源説話となっているのは,後世の作り事でしょうが。
以上のように考えれば,疑問など何もありません。すっきり理解して,次に進めます。 ところが,全体の叙述の流れを理解せず,胞を第1子であると思いこんでしまった学者さんたちは,なぜ子の出生を喜ばないのかという疑問にぶち当たります。そこで,第1子は生み損ないになるという,他国の伝承があったことに思い至り,それをくっつけてしまったのです。 なんともはや。いかにも筋の悪い思考ですね。笑ってしまいますが。
筋が悪いから,多くの破綻をきたしています。 第1の一書は,まず第1子として蛭児(ひるこ)が生まれたので,葦船に載せて流し捨てたとしています。ここだけ見れば,第1子が生み損ないのようにも見えます。 第1子が生み損ないというならば,この蛭児に続いて生まれた「淡洲(あわのしま)」も子の数に入れなかったことをどう考えるのでしょうか。第2子を子に数えなかった理由を説明できないでしょう。 じつは,第5段本文にも蛭児が出てきます。ここは,伊奘諾尊と伊奘再尊が天の下を支配する者を生む部分です。まず天照大神を生み,月の神を生み,その次に蛭児を生んでしまうのです。これは,船に乗せて風に任せて捨ててしまいました。 第5段第2の一書にも蛭児が出てきます。しかしここには,蛭児が生まれた根拠がはっきりと叙述されています。伊奘諾尊と伊奘再尊が柱を巡ったときに,「陰神先づ喜の言を発ぐ(あぐ)。既に陰陽の理(ことわり)に違へり。所以に(このゆえに)」今蛭児を生むと。 叙述と文言を軽視し,日本書紀をきちんと読み込んでいない学者さんは,たちまち破綻をきたすのです。「胞」を第1子と勘違いし,それを喜ばなかった理由として,第1子は生み損ないになるという理論(と言うよりも,お勉強で得た知識。)を勝手に付け加えた結果がこれです。 第4段本文の叙述と文言に戻りましょう。確かに初めは,遘合の方法を間違えました。しかし,遘合をする前に直ちに修正し,遘合に至っています。ですから,ここでは生み損ないは生まれません。単に,初めに出てきた「胞」を喜ばなかっただけです。その「胞」の意味と,「胞」を喜ばなかった理由は,すでに述べました。
延々と検討してきました。その理由は,日本書紀や古事記の神話の解釈があまりにも恣意的で,学問になっていない悪例だからです。延々と検討してきたのは,今までの日本神話の解釈態度を笑ったうえで,これからどのように読んでいくべきか,その方法論を提示したかったからです。 こんな悪例を見ると,学者さんなど信用せずに,自分の頭で考え抜いてやろうと思いませんか。人の頭を借りることのアホらしさ。ファイトがわいてきませんか。 なぜこんな誤りを犯したのでしょうか。 日本神話の解釈は,文学部の学者さんに言わせれば,民俗学や神話学などの周辺学問の助けを借りなければ,学問にならないようです。しかし,そんな人に限って,文献としての日本神話を軽視しています。軽視する態度と重視する態度がどのように違うかは,上記したとおりです。 要するに,文学部の学者さんたちは,自分が学んだ専門分野から日本神話を捉え直して,新しい神話を作っているのです。新しい神話を作って,これが日本神話だと言ながら世間に流布している。それが,神話に対する冒涜だとは考えていない。 法学部出身者からすれば,何よりもまず大切なのは,日本書紀や古事記の叙述と文言です。何が規範かを常日頃考えている人たちは,文章になっているものを大切にします。それが社会のルールだからです。社会のルールは,誰にもわかる客観的な存在でなければなりません。文章にできていないものは,極論すれば無と同様です。ですから,その文章が何を語っているのか。その文章から,どこまで把握できるのか。その文章が語っている範囲はどこまでか。いかなる場合はその文章からはずれてくるか。単なる推測や主観や独断となる限界はどこか。たった1行の文章でも,そうしたことを常に考えながら読む習慣がついているのが,法学部出身者です。 しかも,1行の文章でも,全体のなかでクロスレファランスしながら,その意味と内容を確定していかねばなりません。 日本書紀の神話は,そうした作業に十分耐えうる内容をもっています。材料も与えてくれます。現代の日本神話研究者よりも遙かに賢い律令官僚が編纂したからです。彼らは,現代で言えば,文学部出身者と言うよりも,法学部出身者たちでした。律令国家黎明期の律令官僚でした。ですから,法学部的観点から,叙述を信頼して,その一貫性と矛盾とを徹底的に追っていくべきです。 こうした方法論をきちんと見定めておかないと,いらぬ知識ばかりが肥大化し,ついには日本神話そっちのけの勝手な解釈を始めることになります。
第2に,常識の軽視です。 学者さんたちは,神々のお話を,何か別世界の不思議なお話としかとらえていません。いろいろ意見を言っていても,心の底では,どうせ無知蒙昧な人々が作った話だろうと考えています。そうした気持ちが透けて見えます。ですから,神話を考える態度も,極めてアバウトになってしまいます。 矛盾があって当然だ。何かあったら,それは誤記だ。歴史の中で,落ちてしまったのだろう。削除したに違いない。 ですが,そんな根拠がどこにありますか。日本書紀や古事記という文献以外に,どんな証拠があるというのですか。証拠に基づいて物事を考える法学部出身者と,そんなことを考えない文学部の学者さんとの違いがあります。 しかし私は,そんな人たちよりもはるかに優秀で賢く,教養のある人が,日本書紀を編纂したと思います。それは,日本書紀の神話を読めば感得できます。これに対し,古事記は駄目です。これを読んでいる限り,何の進歩もありません。 この本は,以上の観点から日本神話を読み解き,古事記を笑おうという企みです。
さて,国生みの話でした。国生みの冒頭に登場する「胞」とは何かということから,どんどん話が脱線してしまいました。 日本書紀第4段本文は,「大日本豊秋津洲」,「伊予二名洲」,「筑紫洲」,双子の「億岐洲」と「佐度洲」,「越洲」,「大洲」,「吉備子洲」を生み,これを「大八洲国」としています。「対馬嶋」,「壱岐嶋」,その他の小島は,潮の泡が凝り固まってできました。 学者さんは,大日本豊秋津洲を本州だとしています。ですが,蝦夷の地,東北地方まで含めてよいのでしょうか。日本書紀成立時に征服できていなかったのではないでしょうか。また,これが本州だとすると,越洲や吉備子洲と重複してしまうではありませんか。そうしたことは,きちんと考えないのでしょうか。 私は,きちんとした文章を作る人は,こんな単純なミスはしないと思います。 豊秋津洲は,神武天皇の命名です(神武天皇31年4月)。神武天皇は,その晩年に,自分が征服し支配した土地を国見して(高いところに登るなどして国を見て,褒め称えること),秋津洲と名付けました。北陸,吉備,東海などを征服するのは崇神天皇以降ですから(崇神天皇9年9月),この国見は,たかだか大和地方に対して行われたにすぎません。すなわち,日本書紀の叙述と文言からすれば,秋津洲は大和地方を示しているだけであり,本州ではありません。
こうして,大日本豊秋津洲,伊予二名洲,筑紫洲,億岐洲,佐度洲,越洲,大洲,吉備子洲は,現代でいえば,大和地方,四国,九州,隠岐,佐渡,北陸と新潟,周防,岡山を指すことになります。 ここに,現代の東海地方,中部地方,関東地方,東北地方は入っていません。 日本書紀は,720年に成立しました。成立の前夜は,朝鮮半島の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に破れ,近江によった天智天皇が国防を固める時代でした。その後壬申の乱という内乱があって,当時の日本を平定した天武天皇と,その妻であり後継者である持統天皇により,律令国家,すなわち当時の文化国家中国に対峙する国家を作ろうという時期でした。 白村江の敗戦により,朝鮮半島に対する野望は潰えました。これからは,天武天皇が平定し支配した当時の日本という支配領域によって,国家を作っていかねばなりません。日本書紀第4段本文が示す大八洲国の内容は,日本書紀成立当時の政治状況を,はっきりと物語っています。 「対馬嶋」,「壱岐嶋」,その他の小島は,「大八洲国」に入っていません。なぜでしょうか。潮の泡が凝り固まってできただけであり,かの有名な伊奘諾尊と伊奘再尊が生んだ国に入っていません。なぜでしょうか。 対馬と壱岐は,北九州と朝鮮とを往来する,重要な中継地点でした。しかし,もはや重要ではないのです。日本という国は,律令国家黎明期において,朝鮮との関係をあきらめ,大八洲国という国に閉じこもったのです。 幸いにして,現代では,対馬も壱岐も日本という国家の領土になっています。仮に韓国が,対馬と壱岐が自国の領土だと主張するとしたら,日本書紀第4段本文の叙述が根拠になることでしょう。それは,現代の国際社会でも通用する証拠となるでしょう。
さて,こうして,日本書紀第4段本文の叙述は理解できました。それなりに筋が通っていました。 どんな筋なのか。わけがわからないようにならないため,まとめておきます。@キーコンセプトは,日本書紀編纂当時(720年)の日本という国の領土を確定するということです。Aその過程で,対馬と壱岐は軽視された(放棄とは言いません。後の世の領土問題をおもんぱかって。)ということです。いたって簡明です。 この観点からみると,第1の一書は,何ら目新しいところはありません。 私が提示した上記@,Aに従って考えれば,第7の一書だけが特殊であり,他は,伝承の細かい相違にすぎないということになります。日本書紀編纂者は,こうした相違も丁寧に拾い上げました。 どうでしょうか。国生みの範囲については異伝が錯綜し,よくわからないというのが定説でした。結構わかってきたと思いませんか。
さてさて,ここまで論じてきて,やっと古事記に戻ることができます。何しろ,国生みについては錯綜していますから。日本書紀を片づけずに古事記を読んでも,何もわかりません。 ところが,この古事記の言っていることが,結構グロい。結構長くなりますが,読んでください。 まず,「淡道之穗之狹別(あわじのほのさわけ)の嶋」。次に「伊豫之二名(いよのふたな)の嶋」を生む。「此の嶋は身一つにして面(おも)四つ有り。面ごとに名有り。故,伊豫の國は愛比賣(えひめ)と謂い,讚岐の國は飯依比古(いいよりひこ)と謂い,粟の國は大宜都比賣(おおげつひめ)と謂い,土左の國は建依別(たけよりわけ)と謂う」。「次に隱伎の三つ子の嶋を生む。またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)」。「次に筑紫の嶋を生む。此の嶋もまた身一つにして面四つ有り。面ごとに名有り。故,筑紫の國を白日別(しらひわけ)と謂い,豐の國を豐日別(とよひわけ)と謂い,肥の國を建日向日豐久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂い,熊曾の國を建日別(たけひわけ)と謂う」。「次に伊岐の嶋を生む。またの名を天の比登都(ひとつ)柱と謂う」。「次に津嶋を生む。またの名を天の狹手依比賣(さでよりひめ)と謂う」。「次に佐度の嶋を生む」。「次に大倭豐秋津嶋(おおやまととよあきつしま)を生む。またの名を天御虚空豐秋津根別(あめのみそらとよあきつねわけ)と謂う」。だから,「此の八つの嶋を先に生めるに因りて,大八嶋國と謂う」。 その後,「吉備の兒嶋(こじま)」を生む。またの名を「建日方別(たけひかたわけ)」という。次に「小豆嶋」を生む。またの名を「大野手比賣(おおのてひめ)」という。次に「大嶋」を生む。またの名を「大多麻流別(おおたまるわけ)」という。次に「女嶋」を生む。またの名を「天の一つ根」という。次に「知訶(ちか)の嶋」を生む。またの名を「天之忍男(あめのおしお)」という。次に「兩兒(ふたご)の嶋」を生む。またの名を「天の兩屋(ふたや)」という。 要するに,淡路島,四国,隠岐,筑紫,壱岐,津嶋(対馬),佐渡,大倭秋津嶋というわけです。これらに,別名があるというので,ごちゃごちゃしています。 一番の問題は,対馬と壱岐が,平然と入っていることです。これをどう考えるか。意見が分かれるところでしょう。 日本書紀も古事記も,同時代の書物です。成立年8年の違いなど,国家的プロジェクトであれば,何の意味もありません。それなのに,対馬も壱岐も入っています。日本書紀編纂者は,当時の律令国家としての歴史的認識から,国土の対象からはずしたというのに。 私は,古事記の叙述に,歴史認識を感じることができません。古事記ライターは,そうしたこととはまったく関係がないところで,古事記を作ったようです。 そして古事記には,国土となった島々の呼び名が付け加えられています。これは,日本書紀と根本的に異なるところです。これだけをみると,あたかも古事記の方が古い伝承を伝えているようです。ですが私には,日本書紀を知っていた人々に対し,こうした呼び名なんだよと,呼びかけているかのように受け取れます。 国の別名の解釈は,当分の間放置しておきましょう。これは,たぶん,本質的なことではありません。 私は,日本書紀に対する王政復古的な反動が古事記だったと考えます。同時代の書物だというのに,対馬や壱岐も決して放棄しようとしない。それらは,当然の如く大八洲国の範囲であり,それ以外にも「吉備の兒嶋」などの島嶼を次々に生んだんだよと言いたかった。それが古事記ライターのねらいでした。だからこそ,対馬も壱岐も,国生みの中に入っています。総花的な国生みになっています。 これが古事記の本質です。
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