第10 分治の命令 |
星はどうなったのか 「伊邪那伎大神」は,「御頚珠(みくびたま)の玉」を天照大御神に与えて,「高天の原」を支配するよう命令します。月読命には「夜の食国(おすくに)」を,素戔鳴尊は「海」を支配すべしと命令します。この2神には,玉を与えません。 ここがまた,わけのわからないところです。なぜ星が登場しないのか。支配領域がいい加減ではないか。天照大御神だけに玉を与える意味がわからない。その他いろいろ。 なぜ,星の神が登場しないのでしょうか。神話だったら,太陽と月とくれば,あとは星じゃないでしょうか。じつは日本書紀も同じで,人間の起源や存在がまったく位置づけられていないのと同じくらい,星は,完全に無視されています。ギリシャ神話は,日,月,星をきちんと位置づけています。電灯がない時代,夜になれば大地に寝っ転がって見るのはこれだけです。そこにロマンが生まれて神話が生まれます。日本神話では,なぜ,星が無視されているのでしょうか。 裏から言えば,星の代わりに,なぜ,鼻から生まれた暴風神建速須佐之男命なのでしょうか。建速須佐之男命は,明らかに異質です。木に竹を接いだような存在です。それと裏腹に,星の神が無視されたか削除されたのではないでしょうか。
古事記を100万べん読んでも,何もわかりません。 ここで,日本書紀第9段本文に飛びます。第9段では,国譲りという名の侵略がなされます。武神,経津主神と武甕槌神は,大己貴神(大国主神)を剣で脅して出雲を譲らせ,諸々のまつろわぬ神々を平らげます。日本書紀編纂者は,そこに分注を入れました。 第9段第2の一書にも登場します。経津主神と武甕槌神は,出雲に降るに先だって話し合います。「天に悪しき神」がいて,「天津甕星(あまつみかほし)と白ふ(いう)。亦の名は天香香背男」。この神をまず征伐して,その後に葦原中国に下ろう。 香香背男は星の神ですから,やはり天にいる神なのでしょう。いずれにせよ星の神は,葦原中国にいる神々同様,天つ神に逆らう邪神のようです。建速須佐之男命もまた,天つ神に逆らう邪神でした。
「伊邪那伎大神」は,「この漂へる国を修め理り固め成せ(おさめつくりかためなせ)。」と命令されただけです。 なのになぜ,天照大御神に対して,高天原を支配するよう命令できるのでしょうか。高御産巣日神ら高天原の神々から授権された者が,授権した者を支配する神を指名するという点で,明白な矛盾です。 それだけではありません。命令の内容の問題もあります。そもそも,「この漂へる国」の「修理固成」を命令されただけなのです。それは,国生みと神生みではないのですか。それが終われば,「この漂える国」が「神国日本」として確立するのではなかったのではないですか。 私が笑うのは,こうしたところです。 先に私は,古事記は支配命令の体系だと言いました。そのくせ,その命令体系はむちゃくちゃ。論理もむちゃくちゃ。格好をつけているだけ。いわば張り子の虎。「修理固成」の命令なんていかにも神話的ですが,ちゃんちゃらおかしい。こんなことでは,軍隊は動きません。混乱して同士討ちを始めるだけです。
以上の点はおくとしても,3神の支配領域が,また,めちゃくちゃです。 高天原は天照大御神が支配するのですから,あとは天の下,すなわち地上界が問題となります。(黄泉国は伊邪那美命が黄泉津大神となっています)。 地上界である葦原中国のうち,月読命が「夜の食国」,すなわち夜の世界を支配するのであれば,昼の天の下はどうなるのでしょうか。まったくわかりません。 海原については,昼と夜とを問わず建速須佐之男命が支配するようです。 そんなことよりも,夜の近海はどうなるのでしょうか。「夜の食国」という文言からすれば月読命が支配する。「海原」という文言からすれば,建速須佐之男命が支配する。 整理して図表にしたいところですが,ちゃらんぽらんなだけですから,その気力もわきません。
日本書紀の第6の一書はどうなっているでしょうか。 学者さんも含めて誰もが,月読尊が海を支配したと受け取っています。そうすると,やはり近海で矛盾が生じます。近海は「天下」の一部です。素戔鳴尊が「天下」を支配するのと矛盾しませんか。 こんなところにも,学者さんの怠慢があるのです。日本書紀編纂者は,現代のあまたの学者さんたちと違って,さすがに精緻な頭をしていました。海ではなく,「滄海原の潮の八百重を治すべし」と書いています。 波がいくつもいくつも重なる「滄海原」は,遙か遠い海です。遠洋です。当時の航海技術では,天の下とは言えない,異界だったのです。青海原の向こうには,常世国という,誰も行けない異界がありました。これに対して近海や沿岸は,自由に通行できました。そこは,生活圏でもありました。天の下は,こうした海を含む人間の社会をいいます。だからここでは,天の下とは言えないはるか遠海,異界としての「滄海原の潮の八百重」といったのでしょう。そこに海の神秘をみたからこそ,月齢を読む月読尊が海を支配するとしたのでしょう。 こうした意味で,第6の一書は,きちんと筋が通っています。一部の人が言うように,筋が通っていないのではありません。しかし古事記は,どう考えてもわけがわかりません。素朴な伝承をそのまま並べたのでしょうか。古事記は,1人のライターが,一貫した意図のもとに作った書物です。神生みについてはあれほどきちんと整理した古事記ライターが,ここではこれほど無頓着なのです。
さて,なぜ天照大御神だけに玉が与えられるのでしょうか。「御頚珠(みくびたま)の玉」は,首につけていたアクセサリーの玉です。これは,高天原の支配者の印のようでもあります。 第6の一書には,玉は登場しません。 しかもこの玉は,見事に無視されます。天の石屋戸(あめのいわやど)の場面では,天照大御神をおびき出すために「八尺の勾玉の五百箇の御統(いおつのみすまる)の珠」と「鏡」を作ります。天孫降臨の際に授けられるのは,「その招きし」八尺の勾玉と鏡でした。すなわち,天照大御神を祭るために作られた玉と鏡でした。伊邪那岐命が与えた「御頚珠の玉」は,まったく無視されて,どこにいったかわからないのです。 古事記には,こうしたいい加減さがあります。私は,天照大御神を崇拝する古事記ライターの創作ではないかと,密かに疑っています。というのも,以下に述べるとおり,話が通じないからです。 天の下の主者(きみたるもの)を生むと言っているのに実は生まれていないという矛盾をどう考えるか さてここで,日本書紀第5段本文を,きちんと検討しておきましょう。 日本書紀第5段本文では,禊ぎではなく,国生みと同じく遘合により3神が生まれてきます。伊奘諾尊と伊奘再尊は,「何ぞ(いかにぞ)天の下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」と共に謀って,この3神を生みます。 ここを,しっかりと把握しなければなりません。 日の神(いわゆる天照大神)は,あまりにも出来のよい子だったので,伊奘諾尊と伊奘再尊は「此の国に留めまつるべからず」と考え,早急に天上界に送り,「授くるに天上(あめ)の事を以てすべし」としてしまいます。これは,天上界の政事(まつりごと)を授けたと解釈されています(小学館・新編日本古典文学全集・日本書紀1)。言ってみれば,天上界の事務をとらせた,天上界を支配させたということでしょう。天上界に送って,当初の目論見どおり,「天の下の主者(あめのしたのきみたるもの)」として君臨させたという意味ではありません。 月の神(いわゆる月読尊)も,光り麗しいこと日の神に次いだので,同様に天上界へ送り,「日に配べて(ならべて)治す(しらす)べし」としてしまいました。治らすのは,やはり天上界です。天の下ではありません。 天の下の支配者として期待された第4子素戔鳴尊は,乱暴者ゆえに根国に追放されてしまいます。 結局,天の下を支配する神は,生まれなかったのです。 天の下を本当に支配するのは,第9段の国譲りという名の侵略と,天孫降臨を待たなければなりません。第9段の国譲りという名の侵略と天孫降臨は,天上界の神々が,いまだに天の下を支配していないという前提に立っています。観念的に支配していたので,いよいよ具体的な支配者を送り込むという話でもありません。 ですから,第9段までは,天の下を支配する者は不在なのです。
「何ぞ(いかにぞ)天の下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」と気張って始まったのに,なぜ主者が決まらなかったのか。じつはここに,日本書紀編纂者の巧妙な仕掛けがあると思うのです。 私は,天照大神よりも,素戔鳴尊に注目します。 前述したとおり,少なくとも第5段では,天の下を支配する者が決まっていません。この空白は,第9段の国譲りという名の侵略といわゆる天孫降臨によって,初めて埋められることになります。
ここで,第6段以降の見通しを述べましょう。 第5段で根国への追放が決まった素戔鳴尊は,まっすぐ根国に行きません。 国譲りという名の侵略と天孫降臨の正統性の根拠は,ここにあります。 第9段で国譲りという名の侵略と天孫降臨が行われますが,素戔鳴尊の孫が支配するという意味で,支配者の交替にすぎないという理屈(国譲りという名の侵略と天孫降臨の正統性の契機)が,第6段で用意されるのです。
一方,天の下を用意するのは,素戔鳴尊とその息子大己貴神です。 第9段は,国譲りという名の侵略と天孫降臨のお話でした。その前提として,支配の対象たる天の下が造られなければなりません。伊奘諾尊と伊奘再尊が作ったのは,あくまでも,自然的存在としての国土と海,川,山,木,草にすぎません。具体的に人が生きているこの社会を誰が作り誰が支配したかということは,別の問題です。 第8段になると,刑罰を受けて追放された素戔鳴尊は出雲国に行きます。そこで八岐大蛇を退治します。めでたく八岐大蛇を退治した素戔鳴尊は,奇稲田姫を連れて出雲の清地(すが)に至ります。そこで遘合により大己貴神(おおあなむちのかみ)を作ります。そして宮をつくり,脚摩乳(あしなづち),手摩乳(てなづち)を宮の首(おびと)として,根国にまかります。 子孫をつくり,宮をたて,宮の長官を任命したということは,建国の基礎を作ったということでしょう。すなわち素戔鳴尊は,出雲国の建国者である。これは,日の神(いわゆる天照大神)の弟が地上界に降臨して国を作ったという話です。私はこれを,「天弟降臨(てんていこうりん)」と呼んでおきましょう。 第8段第6の一書によれば,大己貴神は国を巡って,「成らざるところ」を完成させます。そして,「遂に出雲国に到りて」,「葦原中国」は荒れていたが,自分が平定したので帰順しない者はいないと,堂々と言あげします。そして,「今此の国を理むるは(おさむるは),唯し吾一身(われひとり)のみなり。其れ吾と共に天の下を理(おさ)むべき者,蓋し有りや」と述べます。 この日本書紀の叙述からすれば,出雲は,国を平定して最後にやってきた1つの国にすぎません。第6の一書は,明らかに,大己貴神が天の下全体を作ったという話を展開しているのです。 話は飛びますが,東征を果たした神武天皇は,山に登り,国見をして四囲が青垣に囲まれた大和盆地を称え,狭いけれど交尾をしている蜻蛉(あきづ)のようだと称えます(神武紀31年4月)。日本書紀編纂者は,これにより「秋津洲」の名が起こったとしています。 天の下の支配者は不在でした。しかし天の下を造った神が,確かにいました。支配する対象としての人間社会を作った事情を述べなければなりません。
第6段と段8段に挟まれた第7段はどうなのでしょうか。素戔鳴尊は天上界で暴虐を働き,有名な天岩窟の話となります。これにより素戔鳴尊は,天上界を追放されます。これが第7段のお話しです。 学者さんたちは,第7段は,天照大神を中心にした神話だとしています。天照大神の権威を高からしめるために用意された段だと考えています。 しかし,日本神話という物語を読むうえで,それが何だというのでしょうか。私には,天岩窟という材料を基に,お勉強をしているとしか思えません。 しかも,天照大神を称揚しているというけれど,それ自体が間違っているのです。 なぜちゃらんぽらんなのか。天照大神の描写など,どうでもいいからです。天照大神を中心にした,一貫した叙述をしようなどと思っていないからです。 私の考えでは,第7段も,素戔鳴尊が主人公です。第7段で天照大神は,田を作り機を織っています。五穀と養蚕の文化の体現者です。これに対し素戔鳴尊は暴虐を働きます。これは,天照大神に対する政治的反逆ではなく,天照大神の文化を否定する行為です。だからこそ素戔鳴尊は,追放されるのです。
私の考えは突飛でしょうか。 外国の神話をたくさんたくさんお勉強した学者さんの説よりは,はるかに根拠があると思っています。 第6段本文は,「是に,素戔鳴尊,請して白さく(もうしてもうさく)」と始まっています。そして素戔鳴尊は天上に上り,日の神(いわゆる天照大神)と誓約をして神々を生みます。 いずれの段も素戔鳴尊の動静から始まっています。主語は素戔鳴尊です。叙述の焦点が素戔鳴尊にあること,主人公が素戔鳴尊であることは,論ずる余地もなく明らかでしょう。 要するに素戔鳴尊は,天の下の支配者が不在の時代に,天の下を支配する者を用意し(素戔鳴尊自身が祖父となる。「支配の正統性の契機」),支配の口実を与え,支配される天の下を用意しました。これが,日本書紀における素戔鳴尊神話の本質です。 第9段の国譲りという名の侵略と天孫降臨に向かって,狂言回しの役割をさせられているだけなのです。そしてそれは,日本書紀の神話にとって,必要不可欠の物語なのでした。
ある学者さんは,素戔鳴尊の英雄的性格を議論しています。そんなロマン的で文学的な眼で日本書紀,古事記を見ることさえ,私にはまったく理解できません。目の前にあるのは叙述と文言だけです。素戔鳴尊は,いわゆる狂言回しをやっているだけであり,英雄でも何でもありません。 日本神話をロマン的にとらえると,何もわかりません。 ある学者さんは,第8段で出雲神話を持ち出すのは唐突ではないか,話がきちんとつながっておらず作為的ではないか,と述べています。 しかし,私のように考えれば,何の問題もありません。日本書紀編纂者は,出雲神話を,極めて有機的に日本書紀の神話の中にはめ込みました。
日本書紀編纂者は,出雲神話,正確に言えば出雲だけでなく,大和を含む天の下全体を造った神の神話を無視できませんでした。素戔鳴尊と大己貴命の神話は,当時の人々の常識であり,歴史書としての性格上,これを無視するはできませんでした。 だからまず,素戔鳴尊を高天原系の神として取り込まなければならない。大己貴命も含めた出雲神話を取り込まなければならない(正当性の契機)。取り込みはするが,天照大神が体現する五穀と養蚕の文化に反逆する,祓われる神として描かなければならない(侵略の口実)。そして,祓われた結果,出雲に降って現実社会を作るのです(侵略の対象の準備)。 これが,第6段から第8段までの展開です。こうなれば,あとは,第9段で征服するだけだ。 では,第5段まではどうなのか。それは明らかです。神々が生まれ,自然的存在としての国土を準備したのです。
私が脇役にすぎないと言った,天照大神の位置付けはどうなるのでしょうか。 すでに指摘したとおり,第5段本文は,日の神(いわゆる天照大神)に天上界の事を授けたというだけで,天上界の第一人者とか,支配者とか,神々の上に立つ者とかいう叙述は,まったくありません。 すなわち,日本書紀本文は,日の神(いわゆる天照大神)も月の神(いわゆる月読尊)も,同列に論じているのです。月の神が日の神と並んで支配しているのであり,そこに上下関係はありません。月の神の光り麗しきこと日に次げりとは書いてあります。しかしだからといって,太陽のほうが上であるとは書いてありません。 第6段の本文では,天照大神(後述するとおり,ここでは天照大神と呼んでいます。)は,天上に上ってくる素戔鳴尊に対し,「当(まさ)に国を奪はむとする志(こころざし)有りてか」としか述べていません。決して,我が世界とか我が国とは言っていません。 第7段本文によれば,天照大神が天岩窟に籠もってしまったので,困った「八十万神(やそよろづのかみ)」が集まって協議しました。そして,天照大神が岩窟から出てきた後に素戔鳴尊を処罰するのも,「諸の神(もろもろのかみたち)」でした。天照大神は被害者です。もし天照大神が最高神であるならば,天岩窟から出てきたあと,素戔鳴尊を処罰するのは天照大神自身のはずです。ところがそうなっていません。 このように,日本書紀本文における天照大神の位置づけは,極めて曖昧なのです。 天照大神の位置付けは,第9段本文冒頭ではっきりします。 また,顕宗天皇3年4月に登場する月の神と日の神は,揃って,「我が祖(みおや)高皇産霊尊」と呼び,月の神にいたっては,高皇産霊尊に「天地を鎔ひ造せる功有します(あいいたせるいさおしまします)」と述べています。ここでは日の神は,高皇産霊尊の下にいる神になっています。
そもそも,天照大神の存在自体が,曖昧でいい加減です。 日本書紀第5段本文は,日の神を生んだというのであって,天照大神を生んだとはいっていません。「共に日の神を生みまつります。大日霎貴と号す(もうす)。」とし,日の神すなわち天照大神とは叙述していません。天照大神という名前を採用していないのです。ただ,これに続く注では,「一書に云はく,天照大神といふ。一書に云はく,天照大日霎尊といふ。」としています。 すなわち,日本書紀編纂者の認識としては,日の神は大日霎貴であり,他の諸伝に天照大神とあるけれど,天照大日霎尊というのもあるから,どうも同一らしい,というにすぎないのです。 ところが日本書紀編纂者は,第6段本文になると,こうしたことは忘れたかのように,天照大神の名で話を進行させてしまいます。その後は天照大神で統一されます。ところが神武天皇は,「昔我が天神,高皇産霊尊・大日霎尊」と呼んでいるのです(神武天皇位前紀)。これはいったい,どうしたことでしょうか。 天照大神という神は,いつどのように誕生したのでしょうか。古事記は,なぜ当然の如く天照大御神と呼ぶのでしょうか。どちらが新しい書物なのでしょうか。
第5段の一書を検討してみましょう。第2ないし第5の一書と第7ないし第10の一書は,天照大神らの誕生に触れていません。したがって,第1,第6,及び第11の一書が問題です。 第1の一書では,「大日霎尊」という名前で登場します。 第6の一書は,有名な伊奘諾尊の黄泉国めぐり,黄泉国での汚れを落とす過程で生まれた天照大神等3神の誕生物語です。じつは,古事記が採用したのは,この異伝です。 ここでは,日の神という抽象的な呼び名は使われていません。誕生した始めから,「号づけて天照大神と日す(もうす)」としています。そしてここが重要なのですが,「天照大神は,以て高天原を治す(しらす)べし」との命令が下ります。もうおわかりでしょう。高天原は,第1段第4の一書のさらに異伝で,天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと),高皇産霊尊(たかみむすひのみこと),神皇産霊尊(かみむすひのみこと)の3神が生成した世界でした。そしてこれは,本文とは異なる単なる異伝でした。これが,ファシズム的で笑うべき第4段第1の一書とつながっていました(国生みがこれからなのに,行って支配してこいという命令がある点。神が占いをするという点など)。 古事記はこうした異伝(第1段第4の一書のさらに異伝,第4段第1の一書,第5段第6の一書)をつなぎ合わせた書物です。 とにかく,第5段第6の一書では,「天照大神は,以て高天原を治す(しらす)べし」との命令によって,天照大神が高天原と結びつきます。 第11の一書はどうか。これも,「天照大神は,以て高天之原を御す(しらす)べし」との命令によって,天照大神が高天原と結びつく異伝でした。 要するに,権威的,権力的な叙述をしている異伝では,何の躊躇もなく天照大神という呼び名を採用しているのです。
念のため,神武天皇以降も検討しておきましょう。 神武天皇は言います。「昔我が天神,高皇産霊尊,大日霎貴」が,この豊葦原の瑞穂の国を天津彦彦火瓊瓊杵尊に授けたと(神武天皇即位前紀)。ここでは,天照大神という名が忘れられています。 しかし河内,大和に侵入した後には,天照大神が現れます。 国譲りという名の侵略の第9段本文では,高皇産霊尊が武甕槌神に命令したのですから,本来ならば,高皇産霊尊が命令すべきところです。 ところが,八十梟帥(やそたける)を討つ前,五百箇の真坂樹をもって諸神を祭ったときに,神武天皇自身が神懸かりしたのは,「今高皇産霊尊を以て,朕親ら顕斎を作さむ(われみずからうつしいわいをなさむ)。」とあるとおり,高皇産霊尊でした。天照大神ではありません(神武天皇即位前紀戊午9月)。 時代は下りますが,阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が任那に使いをしたとき,月の神が人に神懸かりしてこう述べています。「我が祖(みおや)高皇産霊尊」「天地を鎔ひ造せる功有します(あいいたせるいさおしまします)」。さらに日神が人に神懸かりして,磐余(いわれ)の田を,「我が祖高皇産霊尊に献れ。」と(顕宗天皇3年4月)。 しかも,「我が祖」は高皇産霊尊の1神であり,日の神はその下にいるかのような叙述です。この日の神は,少なくとも高皇産霊尊に並べて天照大神を「我が祖」とは言っていません。仮にこの日の神が天照大神だったとしても,高皇産霊尊より1段下にいるかのような叙述です。
要するに,元来の信仰は「日の神」であり,天照大神は,数ある日の神のうちの1つでしかなかったのです。天照大神という名称を使わない伝承は,古いのです。 日の神は,本来は,支配命令体系の頂点としての高天原と呼ぶ思想とは無縁だったはずです。 すでに指摘した,第6段から第8段までの構造的問題から考えるべきでしょう。第6段以降は,第9段の国譲りという名の侵略と天孫降臨を用意する段でした。そのために,国譲りという名の侵略の正当性の契機と(第6段),侵略の理由と(第7段),侵略される現実の人間社会が用意されたのです(第8段)。 こうして,天照大神が,古来からあった伝承に接ぎ木されるのです。 天照大神は,決して神々の中の神ではありません。
たとえば神功皇后は,自ら「神主」すなわち神の依代となり,託宣を聞きます(神功皇后摂政前紀3月)。そこに降ってきたのは,天照大神,事代主神,表筒男。中筒男・底筒男でした。 天照大神が最高神であり皇祖神であるならば,この神だけでよいはずです。この神では足りないから,他の神が降ってきたという叙述でもありません。
一部の学者さんの用語で,「高天原パンテオン」という用語があります。私は,これを聞くだけで赤面してしまいます。こんなに不用意で恥ずかしい用語は,使えません。 前述したとおり,国常立尊や国狭槌尊や豊斟渟尊は,天照大神や高皇産霊尊とは異質の神です。日本古来の陽の気だけから成った神です。支配命令の権力的体系とも関係ありません。初めから自然の中に生まれた神です。 パンテオンというほどたいした世界じゃないのです。
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