第12 日本神話のコスモロジー |
日本神話は曖昧で矛盾だらけだから他の視点から捉え直そうという方法論は誤りであり叙述と文言から出発すべきだ・日本神話論を学問にする ここで,黄泉国と根の堅州国とが同じか同じでないかを論じておきましょう。ついでに,日本書紀をも検討して,日本神話のコスモロジー全体を探っておきましょう。 まず,何よりも大切なのは,叙述と文言をしっかりと把握するということです。これをほったらかしにして,神話一般を論じてみたり,伝承や民俗を研究してみたり,他国の神話と比較してみても,無駄なのです。他のお勉強をしすぎた人は,必ず,主観的で勝手な話をし始めます。その結果,各自言いたいことを言っているという状況に立ち至ります。また,予め言っておくと,古事記をいくら読んでも,日本神話のコスモロジーや体系はわかりません。日本書紀を読まなければダメです。 たとえば日本書紀は,伊奘再尊が亡くなったあと伊奘諾尊が赴いた国は「黄泉国」,素戔鳴尊が行けと命令された国は「根国」と,明白に分けています。 それが,ものを書く人間の大原則のはずです。ましてや,文章作成に長けていた優秀な官僚である日本書紀編纂者が,こうした区別をしたのです。 叙述と文言を軽視したうえ,さらに勝手なお勉強をして,叙述と文言を改変してはいけません。現代の人々は,学者さんたちさえも,神話は結構いいかげんなものだと考えています。矛盾があるのが当然だと思っています。その結果,叙述と文言を軽視して,自分独自の視点から神話を捉え直そうとしています。本人は捉え直そうと思っているだけでしょうが,じつは改変しているのです。それが学問的態度だと思いこんでいるところが,どうしようもないところです。 その結果どうなったでしょうか。私に言わせれば,方法論自体が間違っています。少なくとも日本書紀と古事記に残された日本神話は,未開の人たちの神話や,南洋の人々の素朴な神話とは違います。誤解を招くことを承知で言えば,素朴さはありません。 もちろん,古事記の神話よりも日本書紀の一書の伝承の方が素朴だとは言えます。しかし全体的に見れば,理路整然とものを考えられる人たちが整理した神話なのです。ですから,叙述と文言を突き詰めて考えるべきであるし,そうしなければなりません。相手が相手なら,こっちもそれなりに構えて読み込まなければなりません。そうしようとしない態度,それを放棄して他の視点から日本神話をとらえ直そうとする態度は,誤りなのです。 日本神話論がいつまでたっても学問にならない原因は,ここにあります。
根国について考えてみましょう。 根国,すなわち死者の国とするならば,死者の国行きを命じられて,すでに汚れてしまった速須佐之男命が,その後堂々と高天原に行けるのがおかしくありませんか。筋が通りません。私はそう考えます。 通説的見解によれば,根国追放は,「膿わき蛆たかる」国,「蛆たかれころろきて」という世界への追放であり,死刑の宣告になります。そうなりませんか。 とんでもなく汚れた神々が生まれてくると思いませんか。 速須佐之男命は,祓われた神です。犯罪と民事と倫理が分離していない社会では,祓われるということは,犯罪と同じです。ある意味で,犯罪者以上に汚れた神の子供だということになりませんか。 古事記ライターの資質は保証できません。しかし日本書紀編纂者は,官僚として,あまたの文書を作っていました。中国の古典をよく読み込んでいました。ですから,適当な作文はしません。叙述に混乱があるとすれば,伝承自体の混乱なのです。そこから,日本書紀の神話の実相に迫ることができます。
古事記の「根の堅州国」を考える前に,日本書紀の「根国」を考えておきましょう。もちろん,叙述と文言です。古事記だけを読んでいても,何もわかりません。 素戔鳴尊は「根国」に追放されました。そこがどんな世界であるか。日本書紀の叙述と文言自体が語ってくれています。 第7段における素戔鳴尊は,五穀と養蚕を司る天照大神に対し,暴虐無道の行為を行います。それは,土地の占有,用益,収益等に関する権利を妨害し,灌漑施設を破壊し,神聖であるべき新嘗祭や機織りに対する不敬の行為でした。これらは,延喜大祓祝詞式によれば,ほぼ,農耕や祭りに対する重大な不法行為であり,天津罪(あまつつみ)とされています。 要するに素戔鳴尊は,罪穢(つみけがれ)があるので,祓え(はらえ)によって祓われて追放されるのです。神を祓うのにも「理(ことわり)」があるようです。 解除(はらえ)を直接表現している異伝もあります。追放された素戔鳴尊が,束ねた草を笠蓑(かさみの)にして雨宿りを請うたとき,諸々の神たちは,汚らわしいと言って断りました。汚れた者は家に入れることができないというのです。だからこそ,今(日本書紀編纂時点の今)も,束ねた草や笠蓑を着たまま人が家に入ることを忌み嫌い,これを犯した場合は「解除」をするというのです(第7段第3の一書)。 要するに素戔鳴尊は,五穀と養蚕の文化を理解しない邪神であり,祓えによって祓われたのです。 だから根国は,祓われて追放された者が行く世界なのです。
この点古事記は,核心をついています。古事記は,「根国」ではなく「根の堅州国」といっています。 片付けることを「かた・す【片す】」といいます(広辞苑第4版)。ですから,根の堅州国は,片付けられた者が行くところなのです。祓われた者が行くところなのです。 これは,単なる言葉の遊びではありません。今でも生きている言葉で,ご飯を「かす」という言葉があります。ご飯を炊く(たく)という意味です。広辞苑第4版によれば,「か・す。米を水であらう。とぐ。」です。 日本書紀第9段第3の一書には,神を祭る際に稲を使って酒を造り,また「飯に為きて(かしきて)嘗す(にいなえす)」という部分が出てきます。まさに,ご飯を「かす」という用法の実例です。これと同様に,仁徳天皇4年2月では,「炊く」を「いいかしく」と読んでいます。神武天皇の強敵だった長髄彦の妹は,「三炊屋媛(みかしきやひめ)」といいました(神武天皇即位前紀戊午12月)。また,推古天皇の本名は,「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)」でした(日本書紀巻第22)。「御食(みけ)」は食物の意味ですから,食物の豊かな炊事場の姫という意味なのでしょう。ここで「炊屋」を「かしきや」と読んでいます。この「かしき」の動詞形が「かす」なのです。 ご飯を「かす」という現代語は,古代から使われていました。このように,「堅州(かたす)」も,現代に生き残った「片す」なのでしょう。
どうせ素人の見解だと言われるのもしゃくです。学者さんの見解を検討しておきましょう。 じつは,学者さんの見解自体がはっきりしないので困ります。最新の注釈書によれば,表記どおり堅い(かたい)国だということになっています(小学館・新編日本古典文学全集・古事記)。しかし,なんのことやらさっぱりわかりません。この説は,「根」を遠い果てと解し,「堅州(かたす)」の「州(す)」にこだわり,堅い中州(なかす)であるといいます。遠い果ての堅い中州の国ということになります。 私には,さっぱりわかりません。古事記がますますわからなくなってしまいました。 そもそも,根国を遠い果ての国と解釈するのは間違っています。天の下の世界すなわち現実の世界でも,遠いところは遠いのです。速須佐之男命は,天の下の世界から,別の世界である根国へ追放されたのです。根国が天の下の遠い世界にあるとすると,速須佐之男命が追放されたことになりません。 「堅州(かたす)」を「堅(かた)」と「州(す)」に分解するのも,いかにも筋が悪いように思えます。 しかも,「州」や中州は,天の下のいたる所にあります。特に河内,大和周辺には,古代,河内湖という汽水湖があり,中州がたくさんありました。やはり,速須佐之男命が追放されたことになりません。 この説のとんでもないところは,「州」は地上にあるのだから,「根」を地下の意味にとるのには賛成しがたいとしている点です。そうすると「州」の説明がつかなくなるからだというのです。 この説は,「州」が地形の中州であるという点にこだわってしまったがために,「根」の解釈もそれに従うべきだというのです。ここまでくると,誤りに誤りを重ね,どうしようもありません。誤解の世界で理屈をこねていればいるほど,それが強固であればあるほど,坂道を転げ落ちるように泥沼にはまってしまい,永遠に脱出できなくなるという悪例です。こうした蒙昧な学説が,いかに日本神話や古事記の理解を妨げてきたか。私は義憤を覚えるくらいです。 片づけられた者が行く国だという私の見解と比べて,どちらがスマートな解釈でしょうか。
根国に関する他の学説を検討しておきましょう。 まず,根国は遠き国とする学説があります。 この説の亜流として,大祓祝詞(おおはらえののりと)を根拠に,地底というより海中の国であるという学説もあります。現世の罪や穢れを川に流すと海に至り,根国の底にいる速佐須良比メに処分されるというのがその根拠のようです。 下方の底の国または母の国,大地とする学説もあります。 以上の学説に共通しているのは,日本書紀を厳密に読んでいないという一点に尽きます。こうした学説が大手を振ってまかり通っているのは,民俗学や神話学のやり過ぎではないでしょうか。 たいていの人は,出雲国=根国=黄泉国と受け取っているようです。出雲国は死のにおいがする,などと言う人までいます。ですが,誤りであることはもはや明らかでしょう。島根県の人に申し訳ないと思わないのでしょうか。
根国と黄泉国は,まったく別個の世界です。根国は祓われて追放された者が行く世界であり,黄泉国は死者が行く世界です。 では,根国はどこにあるのでしょうか。 何度も言うとおり,根国は追放された素戔鳴尊が行くところですから,天の下以外のどこかです。もちろん,「天」でも「天上」でも「高天原」でもありません。 日本書紀の叙述と文言からすれば,神々が住む世界は,@天上,A葦原中国(天の下),B根国(ねのくに),C黄泉国,の4世界となります。根国は追放された者が行くところであり,死や死者とは何の関係もありません。ただ,「遠」く,「下」の方の,「根」や「底」と言われるところにあるようです。神という職務にしてみれば,日の当たらない部署のようでもあります。
根国は,常世国とも違います。根国は祓われて追放された者が行く世界であり,常世国は海の彼方にある常住不変の世界です。 これも,勝手なお勉強をする前に,日本書紀の叙述と文言を押さえておきましょう。常世国については,日本書紀に定義があります。神仙の隠れたる国であり,俗人が行けるところではない(垂仁天皇後紀)。神仙思想と結びついた世界です。 不自由民すなわち奴隷として身をやつしていた弘計皇子(おけのみこ)は,自分の素性を明かす歌を歌います。その最後に,「吾が常世等(とこよたち)」とあります(顕宗天皇即位前紀)。これを不変の,という意味でとらえれば,永久の友たちよという呼びかけになりますし,不老長寿に着目すれば,その場に居合わせた長老たちに対する呼びかけになります。 ですから,常世国は,追放された神が行く世界ではありません。
では,常世国はどこにあるのでしょうか。 第5段までの日本書紀本文の世界観は,天上と天下の2つです。「天先ず成りて地後に定まる」(第1段本文)という陰陽2元論の思想。伊奘諾尊と伊奘再尊がオノゴロシマに「降り居して(あまくだりまして)」(第4段)という展開。 すでに述べたとおり,第5段本文は,伊奘諾尊と伊奘再尊が大八洲国と山川草木を生んだあと,「何ぞ(いかにぞ)天の下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」と共に謀って,3神を生んだとしています。 4次元の世界など,考えつきもしない時代のことです。彼らには3次元的観念しかありませんでした。要するに,上か下か水平方向かの,どれかしかありません。 第4子の素戔鳴尊は,暴虐で「無道」だったため,天の下の支配者としては失格との烙印を押され,「遠く根国に適ね(いね)」と命令され,「遂に逐ひき(やらいき)」ということになりました。天の下の支配者として失格となり,神々の世界からも追放されたのですから,天上界でもなく天の下でもないどこかに追放されたのです。 残る水平方向を考えてみましょう。中国のような大陸的感覚では,水平方向は山の向こうのどこかです。しかし,そこから変な格好をした人間がやってきて朝貢したり交易を求めたりするのですから,異界でも何でもありません。山の向こうにもまた,人間の世界があります。ただ,単なる蛮夷の世界なのです。異界はむしろ,山の中にあります。 これが,常世国です。
では,常世国はどんなところでしょうか。 ある時ある海人(あま,海洋漁労民,漁師さん)が,漁に出たまま潮に流されて2度と戻って来ませんでした。いとしい夫でしたが,死体も浮かばないし,船の残骸が見つかるわけでもありません。黄泉国のように,膿沸き蛆たかる死体という,厳しい現実に直面するわけでもありません。だからこそ,残された妻や村の人々は,元気に船出していったあの笑顔のまま,あたかもストップモーションのように,どこか他の世界で生きていると信じ始めます。自分が現にこうして生きているのと同様に,海の遙か彼方には,同じように生きていける別世界がある。しかも,自分が老いても,かつての若い姿のままに。 それが,常住不変の国,常世国なのです。海の遙か彼方には,常世国という,さらなる異界がありました。 今でも,灯台のてっぺんから見渡す海には,悠久の昔から今に至るまでまったく変わらず,こうして波をうち寄せていたのだなと納得できるほどの存在感があります。一面の青い海は,その表面が静かに白く波立っているだけです。そして,静かにうち寄せるさざ波だけが聞こえます。 だから考えます。人間がどうあろうとも,波のリズムは変わらない。戦乱によって理不尽な死を迎えようと,肉親が悲しもうと,波のリズムは変わらない。人が溺れ死んだとて,それを打ち消すようにして,波は一定のリズムをもって打ち寄せてくる。人間の悲哀や歴史などちっぽけなものです。海は,過去現在未来にわたって,永遠に,一定のリズムで打ち寄せてくる。 それが常世国なのです。神仙思想とは関係なく成立したものだと思います。
こうして検討してくると,根国と黄泉国と常世国は,まったく別の世界となります。決して混同してはいけません。 ここで,日本書紀のコスモロジーをまとめてみましょう。 まず,天上界と天の下があります。天上界には日の神と月の神がいます。しかし,星の神は,なぜか無視されています。伝承上,星の神は嫌われているようです。天上界に神がいますが,天の下にも神がいます。天上界の神は支配者として君臨するようですが,地上界の神は,自然神として現実に生きている人間に信仰されていたようです。 天の下の海の向こうに,常世国があります。これも,誰も行ったことのない異界です。少なくとも,そこに行って戻ってきた者はいません(田道間守は例外)。行きっぱなしの異界です。そうした意味で,黄泉国と共通しています。あるいは死んでいるかもしれないという疑念が入りますから,黄泉国に少し重なっています。安らかに生活しているだろうという意味では,仏教受容以前に成立した浄土的世界だと言うこともできます。しかし,朝,漁に出て行った時のまま生きているという意味合いもありますから,決して死んでいるのではありません。この点で,黄泉国とはまったく異なる世界です。常世国は,死の香りがするけれども,膿沸き蛆たかる黄泉国とは違います。 天の下の,さらに遠いその下に,地下世界としての根国があります。根国は,素戔鳴尊が追放されたように,祓われた者が行く世界です。 古事記は,こうしたコスモロジーに照らして読むべきです。
さて,「天の下」と「葦原中国(あしはらのなかつくに)」とは,どう違うのでしょうか。 皆さん不用意に,葦原中国という言葉を使っています。しかしこれは,支配の対象としての概念です。豊かな土地を侵略するという,支配者の立場に立った呼び名です。 日本書紀第4段第1の一書では,天つ神が伊奘諾尊と伊奘再尊に,「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の地」があるので,「汝(いまし)往きて(ゆきて)脩すべし(しらすべし)」,すなわち支配せよと命令します。 このように,「葦原中国」という文言は,権威的権力的支配的な世界観の中で使用されます。そしてこれは,高皇産霊尊と高天原に結びついていました。 「葦原中国」という文言には,上述したイデオロギーと世界観がまとわりついています。
さて,日本書紀に戻って,素戔鳴尊が「遂に根国に就で(いで)ましぬ」(第8段本文)となったついでに,神は死ぬのかという問題も考えておきましょう。 根国行きを命じられた素戔鳴尊は,根国に行けと命じた伊奘諾尊に対し,「吾,…… 根国に就(ま)かりなむとす。故(かれ),…… 姉と相見えて(あいまみえて),後に永(ひたぶる)に退(まか)りなむと欲ふ。」と述べます(第6段本文冒頭)。 そういえば伊奘諾尊は,「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて,寂然(しずか)に長く隠れましき。」となっています(第6段本文)。「幽」の字に惑わされてはいけません。別に,幽霊になるのではありません。「隠れ」て現世からは永久に見えなくなるだけであって,神はどこかで生きているのです。 「幽」の字にとらわれて冥界とするのが通説のようです。しかし,誤りとしか言いようがありません。冥界は,人間が行くところです。冥界とすると,死者の国黄泉国というのでしょうか。するとそこは,神も人間も一緒になって生活している世界なのでしょうか。さっぱりわかりません。それでは,単なる人間と神の区別がなくなってしまうではありませんか。 これに対し,保食神(うけもちのかみ)は,「死れり(まかれり)」とされています(第5段第11の一書)。これは,保食神が死んで,そこから五穀や蚕が生じたという説話だからです。死からの再生。冬と春,枯葉と新芽。ありふれたモチーフですが,五穀や蚕を生むために保食神は,終末という意味での死を迎える必要があったのです。その限りで,死んだのです。
これに対して,日本書紀が「国内の人民(くにのうちのひとくさ)」(第5段本文),「国民(くにのひとくさ)」(第5段第2の一書),「顕見しき蒼生(うつしきあおひとくさ)」(第5段第11の一書)などと表現している人間は,まさに終末としての「死」の字が当てられます。 「国内の人民」(第5段本文)には,「夭折」という字があてられています。これは,素戔鳴尊の暴虐により寿命以前に死んだということでしょう。「国民多に死ぬ(くにのひとくささわにしぬ)」(第2の一書)という表現もあります。 死んで働かなくなった奴婢(ぬひ,奴隷のこと)は,何の意味もありません。その死後を考えてやるのも無駄なことです。支配層にとっての奴婢は,まさに現実のこの世で生きて働いてこそ意味をもつのです。労働してこそ意味をもつのです。もうひとつ意味をもつとしたら,支配者である天皇に徳があるか否かを判断する材料としてでしかありません。 しかし,神は違います。第5段の一書にはこうあります。伊奘再尊の死については,「終りましぬ(かむさりましぬ)」(第2の一書)。「神退りましぬ(かむさりましぬ)。亦は云く,神避る(かむさる)といふ」(第3の一書)。「神退去りましぬ(かむさりましぬ)」(第5の一書)。第6の一書では,「化去りましぬ(かむさりましぬ)」。つまり,神に対しては,決して「死」という言葉をあてていないのです。そればかりか,第5段第6の一書では,神々が生成することを「神と化成る(なる)」といってみたり,伊奘諾尊が逃げるときに投げたものが,筍に「化成る(なる)」と表現したりしています。 これらは,変化して「去る」とか,変化して「成る」という感覚であり,「化」という文字に重点があるのではないでしょう。「去る」「成る」に重点があるのです。
このように,神は死にません。神の死は終末を意味するのではなく,単に現世から他の世界に去ったり隠れたりする(現世から見えなくなる)だけなのです。 たとえば素戔鳴尊については,「遂に根国に就(い)でましぬ。」という表現になります(第8段終わり)。そこへ向かって支配者として就任したというような表現です。
これは,当然といえば当然です。 叙述に不要な神,都合の悪い神は,神話の舞台から退場してもらわなければなりません。ただ,そうした神々を死んだとして抹殺するわけにはいきません。それなりに,人々の信仰は消えずに残るからです。 隠れるのは,神としての役割を終えた伊奘諾尊や伊奘再尊,征服された大己貴神らです。 第5段第5の一書には,伊奘再尊を「紀伊国の熊野の有馬村」に葬送したという伝承が紹介されています。「土俗(くにひと)」すなわちその土地の人々が,伊奘再尊を祭ったというのです。その祭りの様子が端的に描かれています。
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