第19 大国主神の王朝物語

 

大国主神の別名

 出雲の速須佐之男命の物語は,大国主神に至る系譜を語ることで,ひとまず幕を閉じます。その大国主神は,「大穴牟遲神(おおなむぢのかみ)」,「葦原色許男神(あしはらのしこをのかみ)」,「八千矛神(やちほこのかみ)」,「宇都志國玉神(うつしくにたまのかみ)」という,4つの名前をもっていました。「大穴牟遲神」というのが本来の名前なのでしょう。「葦原色許男神」とは,葦原中国の屈強な神,「八千矛神」とは,武器をたくさん持っている強い武神,「宇都志國玉神」とは,顕し国(うつしくに,現実の社会。)を作った貴い神という意味です。
 大国主神は,こうした別名をもつ,よほどのビッグネームだったのでしょう。


古事記は異名の由来をマメに説明する

 日本書紀第8段第6の一書もまた,異名を紹介しています。しかし,この点に関しては,古事記の方がマメです。なぜこれだけの異名があるのか。古事記は,有名な逸話を繰り広げることにより,異名の由来を説明しようとします。

 まず,稲羽の素兎(しろうさぎ)の話。古事記ライターは,ここでは「大穴牟遅神」と呼んでいます。次に八十神の迫害の話。ここでも「大穴牟遅神」と呼んでいます。
 次に根の国訪問の話。ここで古事記ライターは「大穴牟遅神」と呼んでいますが,登場する速須佐之男命は「葦原色許男」と呼び,数々の試練を課します。数々の試練に耐える屈強な男だからです。
 そして速須佐之男命は,娘を奪って逃げていく「大穴牟遅神」に向かって,「大国主神」となり「宇都志国玉神」となって立派な宮を作って栄えよ,こいつめ,と呼びかけます。これからは大きな国をつくり,現実の国作りの功労者となって栄えよというわけです。
 国を作った「大穴牟遅神」は,高志国(こしのくに,今の北陸地方。)の沼河比売(ぬなかわひめ)に夜這いをかけます。ここで古事記ライターは,突然,「八千戈神」と呼びます。強い武力で高志国を制圧したからこそこうしたことができるし,美しい姫を自分のものにするのです。須勢理比売が嫉妬する場面でも「八千戈神」として登場します。

 古事記は,物語によって神の呼び名を変容させながら,その由来を説明しようとしているのです。そのためにこれらのお伽噺が選ばれていると言ってもよいでしょう。

 こうしてみると,やはり「大穴牟遅神」「大己貴神」が古来からの名称です。他は異名です。そして,数ある呼び名を統合する呼び名として,「大国主神」という名称が使われるようになったのです。


お伽噺を伝える古事記の方が古いのか

 ここで,誤解を解いておきましょう。一見すると,数々のお伽噺を使って異名を説明している古事記は,古いお話しのように見えます。

 しかし,「大国主神」という呼び名の方が新しいのですから,これによっている古事記の方が,新しい時代の感覚で物を書いていると言えましょう。

 また,お伽噺ですから,話の内容はちゃらんぽらんです。
 八十神の迫害に遭った大国主神は,やすやすと死んでしまいます。神は死なないはずです,いったん死んでしまうのです。大国主神の「御祖(みおや)の命」は,泣き憂えて,高天原に上って「神産巣日命」に頼んで大国主神を生き返らせてもらいます。死なないはずの神が死んでまた生き返るという展開。国つ神であるはずの大国主神の「御祖の命」が,高天原に易々と上り,同族の神かのごとく神産巣日神に頼み事をするおかしさ。古事記ライターは,国つ神よりも天つ神の方が偉いと言いたかったのでしょう。そうしたこちこちの観念がよくわかる展開です。ですが,頭がこちこちだったからこそ,矛盾には気がつかなかった。お話としてはちゃらんぽらんになってしまいました。国譲りという名の侵略前のお話なのですよ。侵略後ならわかりますが,侵略前は敵対関係だったのではないですか。侵略前でも平和に行き来していたというのでしょうか。国つ神と天つ神の対立や緊張関係などどこ吹く風です。
 いずれにせよ完璧に破綻しているお話です。

 速須佐之男命は,いつの間にか根の堅州国にいることになっています。根の堅州国に行きたいとは言っていましたが,行ったとは書かれていません。しかもそこで,「大神」になっています。根の堅州国と黄泉国を同視するのであれば,「黄泉神」と,伊邪那美命すなわち「黄泉津大神」(古事記は伊邪那美神が黄泉国に残って黄泉津大神になったとしています。)と,速須佐之男命の「大神」は,いかなる関係に立つのでしょうか。まったくわけがわかりません。

 根の堅州国で大国主神は,速須佐之男命の娘須世理毘賣(すせりひめ)と恋愛します。しかし古事記は,大国主神の系譜を語るとき,速須佐之男命から6世代経ていると説明していました。それが速須佐之男命の娘と恋愛するのです。根の堅州国では年をとらないのでしょうか。

 逃げる大国主神に対し速須佐之男命は,「底つ石根(いわね)に宮柱ふとしり,高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ」と怒鳴りつけます。地底の岩に届くように宮殿の柱を太く立て,高天原まで千木を高く届かせる壮大な宮殿を造って,そこにいろ,という意味です。これは,延喜式の祝詞に散見される常套句です。祝詞は,神を祭る儀式の一部です。神を祭る定型的な文句が祝詞になりました。そうした,人間の手垢にまみれた文章です。これが古事記に使われています。

 稲羽の素兎のお話は,言わずと知れた子供向けのお伽噺であり,史書に掲載される類の話ではありません。高志國の沼河比賣への求婚は,読んでわかるとおり,完全に歌物語です。

 日本書紀は,こうしたお伽噺を,異伝として残していません。日本書紀編纂者の見識といえるでしょう。


英雄の誕生

 さて,じつは古事記の方が,出雲神話の偉大さ,大国主神の偉大さを正面から語っています。上記したお伽噺は,その過程で出てくるのです。

 大国主神の別名からして,この神は,葦原中国全体,顕し国全体を支配したということがわかります。いわゆる出雲国だけを支配した地方神ではありません。この点は,のちにまとめて説明しますが,ここでは,大国主神の物語の構成を説明しておきましょう。

 大国主神は,「八上比賣(やがみひめ)」をものにしようとする八十神(やそがみ)に,いじめられています。この八十神は兄弟とされていますが,実際には,大国主神をいつき祭った人々の周囲にいた神々なのでしょう。大国主神は,赤裸になった哀れな稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)を助けますが,八十神に迫害され,死んでは生き返ります。ここまでは,英雄となる前の若き英雄に対する迫害物語です。心優しき大国主神と,意地の悪い八十神が対比されます。

 そして大国主神は,速須佐之男命がいる根の堅州国に行きます。速須佐之男命は,「大神」として根の堅州国に君臨していました。そこには,速須佐之男命の娘,須世理毘賣がいました。大国主神は,蛇やむかでや蜂の洗礼を受けます。大国主神は,速須佐之男命が課す通過儀礼を乗り越えて,真の英雄になるのです。須世理毘賣の助力もあって,これを乗り切ります。

 そして,雄々しき英雄に成長した大国主神は,寝ている大神速須佐之男命の髪を家の垂木に結びつけて自由を奪い,その隙に,速須佐之男命の「生太刀(いくたち)」と「生弓矢(いくゆみや)」と「天の詔琴(のりごと)」を奪い,娘の須世理毘賣さえ背負って,根の堅州国を逃げ出します。「生太刀」と「生弓矢」は,速須佐之男命の聖なる武器です。「天の詔琴」は,速須佐之男命の支配権の象徴です。古代社会では,神の託宣を聞くことが政治の一部でした。その神を呼び出す道具が,琴だったのです。ですから,神を呼び出す琴は,権力者の持ち物でした。速須佐之男命は,出雲に宮を定めて,国の基礎を作った大神でした。その,聖なる武器と,聖なる琴と,速須佐之男命の血を受け継ぐ女をも奪って,まんまと逃げていく。

 ここに,英雄が誕生したのです。八十神の荷物を袋に担いでこき使われていた大国主神は,大神のすべてを奪って逃走します。

 速須佐之男命は,琴が木にあたって出した音に気づいて目を覚まし,事態を察知します。髪が垂木に結ばれていましたが,そのまま家ごと引き倒してしまいました。そして,逃げる大国主神を追います。速須佐之男命は,根の堅州国と顕し国の境界,黄泉比良坂まで追ってきました。しかし大国主神は,すでにこの坂を越えて顕し国まで逃げてしまっていました。伊邪那岐命と伊邪那美命の物語を思い出してください。これ以上は行けません。「遙に望けて」見ると,逃げていく大国主神が,もはや豆粒のように見えます。速須佐之男命は立ち止まり,一呼吸大きく息をして,たぶん大笑いに笑ったあと,大国主神に言葉を投げつけます。

 おまえが奪った生太刀,生弓矢で八十神を征伐して,「大国主神」となり,「宇都志國玉神」となって,我が娘須世理毘賣を正妻にして,「宇迦(うか)の山の山本」に大きく立派な宮殿を建てて,永遠に栄えよ。こいつめ。

 この言葉は,新たな英雄大国主神に対する荒っぽい祝福であり,支配者大国主神の正当性の承認でした。たばかられた速須佐之男命は,武器も琴も娘も自分のすべてを奪った大国主神を,見どころのあるうい奴,くらいに思ったのでしょう。

 ここのところ,古事記ライターは絶好調です。私は,ストーリーテラーとしての古事記ライターを尊敬します。本当にうまくできています。


英雄の支配・ハツクニシラススメラミコト

 根の堅州国から逃げ帰った大国主神は,生太刀と生弓矢を使って,八十神を征伐しました。そして,「始めて国を作りたまひき」となったのです。当然,八十神がぞっこんだった八上比賣は,大国主神のものです。

 注意してください。日本書紀は,ハツクニシラススメラミコトとして神武天皇と崇神天皇をあげています。

 一般の人たちは,なぜ初めて国を統治した天皇が2人いるのかという議論をしています。
 しかし古事記では,大国主神こそが,「始めて国を作りたまひき」とされているのです。なぜこれを無視するのでしょうか。私にはさっぱりわかりません。

 これは,学者さんが言うような,ここから今,国を作り始めたよ,というようなお話しではありません。国作りがこの時点から始まったというような,矮小化された話ではないのです。

 古事記ライターは,若き日の心優しき英雄を,有名な稲羽の素兎のお話しから始めました。通過儀礼をくぐり抜け,真の英雄となった大国主神は,宿敵の八十神を退治して,「始めて国を作りたまひき」となるのです。古事記ライターは,ここに焦点を合わせているのです。ここで国が治まる。ですから,ここから先の大国主神の物語は,王朝物語そのものになっています。

 国を安泰にした大国主神は,「高志國の沼河比賣(ぬなかわひめ)」に夜這いに出かけます。高志国は越であり,今の北陸地方です。王朝物語における色好みの系譜が,ここにあります。しかも物語は,さらに沼河比賣との歌のやりとりとなり,歌物語の様相さえ帯びます。
 これに対し須世理毘賣(こちらが正妻)が嫉妬します。これもやはり,歌のやり取りで描かれていきます。大国主神は,「出雲より倭国に上りまさむとして」出発するときに,歌を詠みます。歌の内容が問題なのではありません。「出雲より倭国に上りまさむとして」という叙述が問題なのです。「倭国」も,当然の如く大国主神の支配に服しているのです。大国主神の支配圏についてはのちに詳しく検討しますが,ここでは,大八島國すべてを支配したと言っておきましょう。

 ここまでくると,天下太平の王朝物語そのものです。日本書紀でいえば,仁徳紀に似ています。
 そして,こうして幸せな人生を送った大国主神の物語の締めくくりとして,大国主神の神裔が語られます。子孫が栄えましたとさ,という結末なのです。その中には,有名な迦毛大御神や事代主神がいます。


大国主神物語の構成

 このように,古事記における大国主神の物語は,1つの完結した王朝物語として扱われています。それによると,高志国や倭國まで支配したことになっているのです。それが,「始めて国を作りたまひき」の内容なのです。これは,壮大な建国物語であり,決して,出雲国一国の建国物語ではありません。
 前にも述べたように,「始めて国を作りたまひき」というのですから,それ以前に国はなかったのでしょう。ここでいう「国」とは,国生みの「国」ではありません。自然的存在としての国土ではありません。人間社会としての国です。高志の沼河比賣がいる国です。自然的存在としての国は,すでに伊邪那岐命と伊邪那美命が作っていました。

 古事記の構成によると,天つ神による「修理固成」の命令により国生みと神生みが行われ,天照大御神等3神も生まれましたが,宇都志国(うつしくに),すなわち現世における人間社会は生まれませんでした。伊邪那岐命と伊邪那美命は,そうした意味での社会を生むことはありませんでした。そこにいう「国生み」は,国土としての国でしかなく,人間社会としての国ではなかったのです。人間社会の登場は,速須佐之男命による須賀の宮作りと「宮の首(おびと)」の任命を待たなければならなかったのです。これにより国家としての体制がまがりなりにも整いました。それを大きく発展させ,「始めて国を作りたまひき」と言われたのが,大国主神なのです。だからこそ大国主神には,その原初的名称である「大穴牟遲神」の他に,「葦原色許男神」,「八千矛神」,「宇都志国玉神」という名称がついたのです。

 古事記は,出雲の神速須佐之男命が国の基礎を作り,大国主神こそが,人間社会としての「国」を初めて作ったと述べています。じつは,この結論自体は,日本書紀も同様です。しかし,日本書紀や古事記をよく読まない人たちが,速須佐之男命も大国主神も出雲の一地方神であり,出雲国を作ったなどと思いこんでいます。もう少しましな人たちは,出雲に限定していないようです。ですが,初めて国を作ったのは神武天皇でも崇神天皇でもなく大国主神だという断定を避けてしまうので,日本神話の解釈がちゃらんぽらんになっています。

 たとえば,日本書紀の以下の叙述をどう解釈するのでしょうか。東征を果たした神武天皇は,山に登り,国見をして四囲が青垣に囲まれた大和盆地を称え,狭いけれど交尾をしている蜻蛉(あきづ)のようだと称えます(神武紀31年4月)。日本書紀編纂者は,これにより「秋津洲」の名が起こったとします。そしてそれに並べて,次の事実を紹介しています。伊奘諾尊は「浦安の国(うらやすのくに)」,「細戈の千足る国(くわしほこのちだるくに)」,「磯輪上の秀真国(しわかみのほつまくに)」と呼び,大己貴大神は「玉牆の内つ国(たまがきのうちつくに)」と呼び,饒速日命は「虚空見つ日本の国」と呼んだと。

 神武天皇以前に,大己貴大神,すなわち大国主神が大和を支配していたのです。


大国主神物語の異常性

 ですから,大国主神の物語は,大国主神の神裔を語ることで完結しているはずです。ところが,世上有名な少名毘古那神(すくなひこなのかみ)との国作りは,このあとにくっついているのです。大国主神の王朝物語が完結した後に,少名毘古那神との国作り,大年神の神裔と続くのです。

 これは,驚くべきことです。一般に信じられている少名毘古那神との国作り物語は,じつは,中途半端な付け足しなのです。

 今,使用している岩波版古事記(倉野憲司校注)によって,校注者が便宜上付けた見出しを並べてみましょう。

@ 稲羽の素兎
A 八十神の迫害
B 根の国訪問
C 沼河比賣求婚
D 須世理毘賣の嫉妬
E 大国主神の神裔
F 少名毘古那神と国作り
G 大年神の神裔

 FとGが,構成上,完全に浮いています。一般の人は,大国主神が少名毘古那神と一緒に国を作ったと信じています。古事記を何回も読んだという人も,そう信じています。しかし,よく読むと,どうもそうではないらしいのです。古事記ライターは,なぜ,国作りの物語にFを組み込まなかったのでしょうか。なぜこれが付け足されているのでしょうか。そして,大年神の神裔とはいったいなんでしょうか。子孫の系譜が2つあるのでしょうか。古事記ライターは,ライターとしてあまり能力のある人ではありませんでした。しかし,それにしてもこれはひどすぎます。

 これは,じっくりと検討しなければなりません。


日本書紀第8段第6の一書の構成は@,A,Bだ

 古事記のFに相当する部分は,日本書紀第8段第6の一書です。例によって,日本書紀をきちんと理解しなければ,古事記のいいかげんさは見えてきません。しかも第8段第6の一書は,古事記を笑うという目的を越えて,たくさんの面白いことを教えてくれます。そこで今しばらく,第8段第6の一書を検討してみましょう。
 ただ,この第6の一書にさえ,すでに大和中心,すなわち高皇産霊尊中心の伝承が紛れ込んでいます。それが,この異伝を屈折したものにしています。

 全体の構成は,以下のとおりです。

@ 大己貴神(古事記にいう大国主神)が少彦名命と共に国造りをしたこと。
A 国造りをした大己貴神が大和の大三輪の神になったこと。
B 国造り前の大己貴神と少彦名命との出会いの話。少彦名命が実は高皇産霊尊の子であったことが明かされる。

 時系列でいえば,Bは本来@の前に置かれるべきです。そして古事記では,確かにB@Aの順に整理して語られています。そこで学者は,B@Aの順の方が話の筋道が整うとしています。
 私に言わせれば,いかにも皮相的な判断です。


第6の一書の構成意図

 先が長いので,結論を先に言ってしまいましょう。古事記は,第6の一書の悪意をリファインしているのです。

 上記@,Aはそのとおりでしょう。大八洲国,すなわち葦原中国を支配して大和の三輪山に鎮座した大己貴神が描かれています。高皇産霊尊や天照大神が現れる前の,それはそれは偉大な神でした。問題はBで,少彦名命が実は高皇産霊尊の子であったことが付け加えられています。すなわち,Bで初めて,結局出雲もまた高皇産霊尊以下の高天原の神々が作った国だったのサ,という種が明かされるのです。

 本来の伝承は@,Aで終わっていたはずです。偉大なる出雲神話としてはこれで足りるし,これで完結しています。大己貴神が大和へ行ったということは,大己貴神をいつき祭る出雲の人々が大和へ行ったということです。そしてそこに祭られたということは,大己貴神をいつき祭る人々がその地域を支配したということです。出雲神話は,偉大な神話だったのです。
 これに対しBは,明らかに悪意ある付け足しです。本当に少彦名命が高皇産霊尊の子であったのであれば,国譲りという名の侵略は不要ではないですか。出雲は初めから高皇産霊尊の子が作った国ということになるのだから,不要どころか,高皇産霊尊の子が作った国を高皇産霊尊自らが侵略することになり,叙述上矛盾をきたすことになります。日本神話の構成に矛盾が生ずるお話しが,付け足りのようにくっついている。これは,悪意ある付け足しだと言うほかありません。

 叙述と文言からすれば日本書紀のままでよいし,ここにこそ第6の一書という伝承の,意図的な本質が表れています。


古事記は実にいい加減で適当な書物である

 ところが古事記は,初めからBを前提とした構想で話をまとめています。古事記ライターは,話の初めから「こは~産巣日~(かみむすひのかみ)の御子,少名毘古那~(すくなひこなのかみ)ぞ」と,さももったいぶって偉そうに登場させます。高御産巣日神ではなく神産巣日神に変わっていますが,本質的問題ではありません。要するに出雲国は,そもそも高天原の神々の子孫が作った国であるというイデオロギーです。それを真っ正面から打ち出してしまいました。

 Bの尻馬に乗って,悪意をさらにソフィスティケイトしたのが古事記ということになります。その結果,神皇産霊尊の子少彦名命が作った国を,天照大神と高皇産霊尊の命令で侵略するという大矛盾が,真っ正面から打ち出されてしまいました。古事記ライターは,こんなことは平気の平左です。

 文献としては,@,Aがまずありました。そこにBが加わり,@,A,Bの順になりました(第6の一書)。これで十分なのですが,これを基に内容を整理し改作するとすれば,時系列にしたがって,まずBのイデオロギーを述べておいて,@,Aにつなげることになります(古事記)。
 逆に,もともとB,@,Aとあった文献(古事記)を解体して,@,A,Bの順に並べ替える(第6の一書)必要性も合理性も,まったくありません。

 日本書紀第8段第6の一書は,古事記よりも古いのです。古事記ライターは,これを見て改作したに違いありません。しかもそのライターは,大和中心主義,高御産巣日神や神産巣日神中心の思想に凝り固まった人間だったのです。
 古事記ライターは,偉大なる大国主神の王朝物語を展開しました。その点では,出雲を真正面から称揚しようとしなかった日本書紀編纂者よりも公平で正直だったと言えます。しかし古事記ライターは,少名毘古那神との国作りをリファインして,完結した王朝物語の後に,ちゃっかりくっつけてしまいました。ここで馬脚を現したのです。古事記と出雲神話との関係には,こうしたよじれ現象があります。


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