第21 大八洲国と偉大なる出雲神話(@の部分) |
日本書紀第8段本文は天の下を平定した大己貴神を描かない さて,第8段第6の一書の構成は,@,A,Bでした。その@の部分は,大己貴神が,「天下を経営る(つくる)」としています。天の下とは,葦原中国のことです。出雲だけでなく,広く葦原中国全体を「経営」ったのです。それは,大八洲国全体ということでしょう。 第8段本文は,素戔鳴尊が八岐大蛇退治後,清地(すが)に行き,宮を作って子の大己貴神をもうけたという,淡々とした叙述で終わっています。素っ気ない書き方です。これだけを読むと,大己貴命もまた出雲国の地方神にすぎないのだと,錯覚してしまいます。次の第9段本文では,大己貴命は「出雲国の五十田狭の小汀(いたさのおはま)」にいます。大己貴神は,確かに,出雲国の支配者にすぎないかのようでもあります。 しかしここに嘘がないでしょうか。 国譲りという名の侵略は,なぜ吉備でも筑紫でもなく出雲だったでしょうか。それが天の下の強国だったからでしょう。これを押さえれば,誰も文句を言わなくなるという社会関係が前提としてあったのではないでしょうか。
異伝である第6の一書には,本文とは異なり,大己貴神が天の下すべてを作ったという話が展開されています。 前述したとおり大己貴神と少彦名命は,「天下を経営る」とあります。そして,単に平定しただけでなく,人民と家畜の病気を治す方法を定め,また鳥や獣や害虫による天災を除去する法を定めたとあります。こうして「百姓(おおみたから)」は,現在に至るまでその恩恵をこうむりました。このように叙述されています。 もはや,出雲という一地方に限定していない内容です。 少彦名命が常世郷(とこよのくに)に去ったあと,大己貴神は,「国の中に未だ成らざる所」を巡って,国作りを完成させます。そして,「遂に出雲国に到りて(いたりて)」,言あげ(ことあげ)をします。「葦原中国」は岩や草木にいたるまで凶暴で荒れていたが,自分が平定したので,帰順しない者はもはやいないと。そして,「今此の国を理むるは(おさむるは),唯し吾一身(われひとり)のみなり。其れ吾と共に天の下を理む(おさむ)べき者,蓋し有りや」と。 「国」という文言を「出雲国」ととらえれば,出雲国を完成させた話にすぎません。しかしここでは,「国」を巡った末に「遂に出雲国に到りて(いたりて)」言あげしたと叙述されているのです。その平定した対象は「葦原中国」だとはっきり書いてあります。そして言あげの内容は,「吾と共に天の下を理む(おさむ)べき者,蓋し有りや」でした。 ですから,第6の一書の@の部分は,単なる出雲建国の話ではありません。出雲の建国者は,素戔鳴尊でした。その子孫の己貴神が,天の下を作ったのです。これは,出雲国風土記にある「天の下造らしし大神大穴持神」という尊称を裏付けています。
第8段第4,第5の一書には,素戔鳴尊が子の五十猛神と一緒に,大八洲国を平定していたことが叙述されていました。 第8段第4の一書は言います。新羅に降った素戔鳴尊は,その東方にある出雲に渡ってきました。その子五十猛神は,「遂に筑紫より始めて,凡て大八洲国の内に」樹種を播いて,青山をなさない所はありませんでした。これが理由で,五十猛神は紀伊に坐す大神となりました。これは,和歌山県にある伊太耶曾神社等であるといいます。 これらの叙述もまた,素戔鳴尊の子孫が大八洲国を平定し支配したことを示しています。
さらに第8段第4の一書は,素戔鳴尊の5世の孫天之葺根神(あまのふきねのかみ)を遣わして,草薙剣を天に献上したと伝えています。第1の一書によれば,素戔鳴尊と稲田媛の子である清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)の5世の孫が大国主神であるといいます。天之葺根神と大国主神とが同一神であるかどうかは問題ですが,近い関係にあることは確かです。 草薙の剣は,素戔鳴尊が,出雲にいた八岐大蛇の体内から取り出した剣でした。古事記によれば,高志の八俣の大蛇です。すなわちそれは,出雲のみならず越の国の統治権をも象徴する剣だったのです。それは,素戔鳴尊の子孫が天の下全体を平定するのに伴い,天の下すなわち葦原中国を統治する象徴になったはずです。 それを献上したというのは,葦原中国に対する統治権の譲渡でしょう。天之葺根神と大国主神とが同一神であるかどうか問題ですが,とにかく大国主神は,国譲りという名の侵略に登場し,統治権を献上してしまいました。 ここは,日本書紀編纂者が叙述の手を抜いたと考えた方が良さそうです。草薙剣は,国譲りという名の侵略に際して,統治権の献上とともに譲渡されたと考えるのが自然でしょう。
日本書紀第9段本文を読んでみましょう。 国譲りという名の侵略に先だって,高皇産霊尊は,天稚彦(あめわかひこ)を,第2陣として葦原中国に遣わしました。しかしこの神は,「顕国玉(うつしくにたま)」すなわち大己貴神の娘下照姫(したでるひめ)を娶ってしまいます。大己貴神の聟として取り込まれたようなもんです。そればかりか天稚彦は,「吾亦(われまた)葦原中国を馭らむ(しらむ)と欲ふ(おもう)」と述べます。「吾亦(われまた)」とは,大己貴神とともに「亦」,という意味意外にありません。大己貴神の娘を娶ったから,大己貴神と共に「葦原中国」を支配したいという意味です。 命令に違背した天稚彦は,高皇産霊尊の返し矢に当たって死にます。その時天稚彦は,「新嘗(にいなめ)して」寝ているところでした。収穫を祝う新嘗の祭りをするのは,支配者の証です。すなわち天稚彦は,その意思のとおり,葦原中国の支配者になっていたのです。 もちろん,葦原中国が天の下全体を指すのか否かも問題です。 しかし第6段第3の一書は,いわゆる宗像三神を天降らせた場所として,「葦原中国の宇佐嶋(うさのしま)」とし,それが「今(日本書紀編纂当時をいう),海の北の道」の中にあるといいます。すなわち,筑紫地方も葦原中国なのです。 これらの用例からすれば,葦原中国は天の下を指していると言ってよいでしょう。
何度も引用しますが,神武天皇が国見をするくだり(もちろん日本書紀本文)は,真正面から,大己貴神が天の下を支配したと述べています。 東征を果たした神武天皇は,山に登り,国見をして四囲が青垣に囲まれた大和盆地を称え,狭いけれど交尾をしている蜻蛉(あきづ)のようだと称えます(神武紀31年4月)。日本書紀編纂者は,これにより「秋津洲」の名が起こったと言います。そしてそれに並べて,次の事実を紹介しています。伊奘諾尊は「浦安の国(うらやすのくに)」,「細戈の千足る国(くわしほこのちだるくに)」,「磯輪上の秀真国(しわかみのほつまくに)」と呼び,大己貴大神は「玉牆の内つ国(たまがきのうちつくに)」と呼び,饒速日命は「虚空見つ日本の国」と呼んだと。 ここで大事なことは,大己貴神は,単なる出雲の神ではない点です。大和にいて,大和をも支配していたのです。
この点古事記ライターは,日本書紀編纂者よりも正直でした。 私は,「記紀神話」という言葉を廃語にせよという意見をもっています。日本神話は,日本書紀の神話だけで完結しており,古事記を参照すべきではないのです。古事記は日本書紀と対等な価値がないから,古事記を参照して日本書紀を読もうとするのは間違っています。しかし,古事記をもって日本書紀を改変するのではなく,日本書紀の叙述を補う限りでは引用してもよいでしょう。 前述したとおり,古事記は,大国主神(大己貴神)の王朝物語を展開しています。稲羽の素兎のお伽噺から始まって,その内容がちゃらんぽらんであることはすでに検討したとおりです。しかし,心優しき若き日の英雄が通過儀礼を乗り越えて真の英雄となり,「始めて国を作りたまひき」となった経緯を描いています。ハツクニシラススメラミコト以前に,ハツクニシラスカミがいたという主張です。 その後の夜這いの話,后の嫉妬の話,歌物語等,古事記における大国主神の物語は,1つの完結した王朝物語となっているのです。これは,決して,出雲国一国の建国物語ではありません。
「始めて国を作りたまひき」というのですから,それ以前に国はなかったのです。ここにいう「国」とは,国生みの「国」ではありません。自然的存在としての国土ではなく,人間社会としての国のことです。大国主神が作った国以前には,人間社会としての国がなかったということが言いたいのです。 古事記によれば,天つ神による「修理固成」の命令により,国生みと神生みが行われ,さらに天照大御神等3神も生まれましたが,宇都志国(うつしくに),すなわち現世における人間社会は生まれませんでした。伊邪那岐命と伊邪那美命は,そうした意味での社会を生むことはありませんでした。「国生み」は,国土としての国でしかなく,人間社会としての国ではありません。 人間社会を初めて作ったのは,速須佐之男命です。速須佐之男命による須賀の宮作りと「宮の首(おびと)」の任命こそが,日本書紀古事記を通じて,最初の人間社会です。これにより国家としての体制がまがりなりにも整いました。それを大きく発展させ,「始めて国を作りたまひき」と言われたのが大国主神なのです。だからこそ大国主神には,その原初的名称である「大穴牟遲神」の他に,「葦原色許男神」,「八千矛神」,「宇都志国玉神」という異名があったのです。 大国主神こそが,人間社会としての「国」を初めて作った神だったのです。
その「国」の範囲はどこからどこまでだったのでしょうか。 「始めて国を作りたまひき」と大国主神を称えた直後に,古事記は,「高志国(こしのくに)の沼河比賣(ぬなかわひめ)」へ夜這いをかけた話を展開します。「高志国」は越であり,今の北陸地方です。そしてここでは,大国主神の異名「八千矛神」という武神の名前で登場しています。「八千矛神」が「高志国」まで出かけて,こともあろうに地元の男どもを尻目に,姫に夜這いをかけたというのです。これは,「高志国」を征服したからこそできることです。 八千矛神が詠む歌は以下のとおりです。 八千矛の 神の命は 八島国 妻枕(ま)きかねて 遠遠し 高志の国に 賢し女を ありと聞かして…… 大八洲国にいい女がいないので,遠い遠い高志国まで来たのだよ,という恋歌です。ここからも,大己貴神(大国主神)が,大八洲国すべてを支配していたことが明白です。
それだけではありません。続けて古事記は,須勢理比売(すせりひめ)の嫉妬を歌物語で披露します。ここでも大国主神は,「八千矛神」として登場します。大国主神は,須勢理比売の嫉妬に困り果て,「出雲より倭国に上りまさむとして」出発するときに,歌を詠みました。 問題は歌の内容ではありません。「倭国」に「上りまさむとして」という感覚が問題です。大国主神が出雲から大和に行くのは,たいした困難がなかったのです。ちょっと出かけてくるという感覚です。少なくとも軍事的進軍ではありません。出雲から大和まで支配していたからこそ,こうした表現が出てくるのです。 さらにここには,「倭国」に行くことが「上りまさむ」と表現されています。大和中心の国家観が見て取れます。大国主神は出雲の大神ですが,政治の中心は大和にあったのです。後にも述べますが,少彦名命と国造りをした大国主神は,「倭の青垣の東の山の上」に祭って欲しいと述べて,「三諸山」すなわち三輪山に鎮座します。大和が自由に通行できる領域だったからこそ,こうしたわがままが通ったのです。
一方,国譲りという名の侵略の対象となったのは,古事記によれば出雲国ではなく「豐葦原の千秋長五百秋の水穗国」,すなわち葦原中国です。これを平定するために,天菩比神や天若日子らが派遣されます。しかしこれらの神は復命しません。うまくいかないので,建御雷神が出雲国に派遣されるのです。 古事記の叙述は以下のとおりです。建御雷之男神と天鳥船神は「出雲国の伊那佐の小濱(いなさのおはま)」に降って,大国主神に対して「汝(いまし)がうしはける葦原中国」を譲るよう迫りました。出雲国=葦原中国であれば,用語を変えずにどちらかに統一するのが筋です。わざわざ文言を変えているのですから,出雲国は,葦原中国の一部と考えるべきです。 大国主神の子,建御名方神は,「科野国(しなののくに)の州羽(すわ)の海」すなわち長野県の諏訪湖の辺りまで逃げていきました。そしてこう述べます。「恐し。我をな殺したまひそ。……この葦原中国は,天つ神の御子の命の随に(まにまに)献らむ」。逃亡先の長野県の諏訪湖で,「この葦原中国」を献上すると言うのです。ここら辺が,大国主神の支配領域の極限になるのでしょう。ここから外は,葦原中国以外の異界なのでしょう。 また,天孫降臨の場面で登場する猿田毘古神は,「上は高天の原を光し(てらし),下は葦原中国を光す神」です。高天原と葦原中国は対語になっています。高天原が広く天上界を指すように,葦原中国は広く天の下の世界を指し示すのです。
古事記には,大国主神の子孫,すなわち神裔が,たくさん羅列されています。1神の子孫としてこれだけ多くの神がいるということは,大国主神信仰が広がっていた証拠です。それは,出雲国を中心とした大国主神の支配領域を示すことにもなります。神が鎮座するということは,その神をいつき祭る人々がいるはずだからです。 大国主神は,「胸形奧津宮神」すなわち「多紀理毘賣命」と結婚して「阿遲[金且]高日子根神」を生みます。この神は,「迦毛大御神」です。宗像の奧津宮は,いわゆる宗像三女神のうち沖ノ島に鎮座する神です。朝鮮半島から筑紫に渡ってくる海路の途中にあります。「迦毛大御神」は,大和国葛城の鴨に鎮座する神とされています。「事代主神」は,国譲りという名の侵略で出雲にいる神として登場します。 これだけでも,大国主神が支配した領域が出雲を中心として北九州から大和にまで広がっていたことがわかります。
また古事記には,大年神(おおとしのかみ)の神裔がたくさん羅列されています。大年神は,速須佐之男命が大山祇神の娘を娶って作った子です。大国主神とは別系統の子孫ということになります。 その大年神の子孫には,「韓神(からのかみ)」,「曾富理神(そほりのかみ)」,「白日神(しらひのかみ)」がいます。「韓神」は文字どおり朝鮮の神であり,延喜式神名帳には,「宮内省坐神三座」として,「園神社」と「韓神社二座」をあげています。「曾富理神」の「そほり」は,朝鮮語で王都の意味です。現在の韓国の首都ソウルの原義は,ここにあります。 私は,「新羅」の「しらき」だと考えます。国生みの場面で筑紫国が「白日別」という別名をもつのも,朝鮮との関係なのでしょう。 いずれにせよ速須佐之男命は,朝鮮の神を生んでいるのです。だから,朝鮮まで広がっていたのでしょう。 さらに古事記は,大年神の神裔である「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が,滋賀県坂本の日枝神社の神であり,京都市の松尾神社の神であるといいます。
また,大年神の神裔を日本書紀の系図と対比すると以下のとおりです。 (日本書紀第8段第1の一書) 稲田媛 (古事記) 櫛名田比賣 日本書紀では,大己貴神に連なる直系の神が「清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠」です。この「八嶋篠(やしましの)」が,古事記における「八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)」の「やしま」なのでしょう。
こうしてみてくると,出雲国を中心に西は筑紫まで,日本海側は場合によっては朝鮮から越の国まで,そして瀬戸内海を通って,大和はもちろん美濃,尾張や,現在の長野県の諏訪湖あたりまで,その支配領域が及んでいたようです。叙述と文言を手がかりに考えればこうなります。 これは,まさしく大八洲国そのものです。 「少彦名命と国作り」という表題で,大国主神の出雲国作りが語られることがあります。これは,笑うべきと言うほかありません。その範囲を出雲に限定している点で誤りです。しかも,国作りに少彦名命が登場するのは,第6の一書という異伝にすぎません。その点でも誤りです。そして,よく読むとそこには,「天の下」と明確に書いてあります。一方古事記は,出雲国ではなく葦原中国が国譲りという名の侵略の目的になったと述べています。 要するに,内容をきちんと分析しないで,本文も一書も古事記もごっちゃにして,漫然と読んでいるだけなのです。そんな読み方をして,誰も文句を言いませんでした。そのうちそれが,日本神話なのだとされ,神話が一人歩きし始めました。 これが,日本神話論の現状です。
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