第24 偉大なる大国主神の正体

 

叙述と文言上の問題提起

 私は,出雲の偉大なる神,大国主神(大己貴神)が大八洲国を支配し,大和の三輪山に来て鎮座した由縁を述べました。しかし,わざと1つだけ大きな問題を無視していました。それは,大国主神(大己貴神)と大物主神の異同という問題です。

 古事記は大国主神の異名として「大物主神」をあげていません。その代わりに,「八千矛神」を入れています。そして,この問題の中心となる肝心の崇神天皇の叙述では,「大物主大神」という別神が登場します。古事記によれば,大国主神とは別の神のようです。
 ところが日本書紀第8段第6の一書は,「大国主神」の異名として,「大物主神」をあげています。しかし第9段第2の一書では,明らかに別の神です。日本書紀の異伝同士がすでに混乱しているのです。

 この叙述と文言から,いかなる問題提起をするのか。すでにそこから,日本神話解釈の方法論上の大問題があり,一筋縄にはいきません。ここからすでに,ぼんやりと全体的に考える人(全体的考察)と,筋をつけてぎりぎり考える人(分析的考察)とが別れていくのです。

 「記紀神話」という用語を平気で使う人たちは,日本書紀と古事記を総合して,「大国主神」は「大物主神」とも「八千矛神」とも呼ばれたとします。これが,日本書紀と古事記の総合的解釈です。そこから,「大国主神」と「大物主神」とが混同されるようになったという学者さんが出てきます。その前提には,「大国主神」は出雲という一地方神にすぎないという強固な思い込みがあります。ですが,問題提起の仕方が間違っていたら,論ずる内容も,的はずれの徒労に終わるでしょう。

 私は,総合的な考え方自体がおかしいと思います。日本書紀と古事記は別の書物であり,昔から誰もが指摘しているとおり,矛盾がある独立した書物です。

 私はこう問題提起します。古事記ライターは,「大国主神」の異名として「大物主神」をはずした。すなわち,2神は別の神だと考えた。ところがその8年後に,日本書紀編纂者は同一だという異伝を残した。その頃,古事記ライターは,まだ生きていたことでしょう。いったいどちらが正しいのでしょうか。古事記ライターは,日本書紀にあるこの異伝をなぜ無視したのでしょうか。

 例によって古事記は,たいして役に立ちません。これだけを一生眺めていても無駄です。何も生まれません。


現状はどうか

 何よりもまず,事実です。大神神社は,三輪山の奥津磐座に大物主神,中津磐座に大己貴神,辺津磐座に少彦名命を祭っています(中山和敬・大神神社87頁・学生社・昭和46年)。ですから,明らかに,別の神として祭っているのです。

 しかし,そう簡単にはいきません。

 雄略天皇は,三諸山の神を見たいと言いだし,その神を捕らえてこいと命令します。雄略天皇らしい逸話です。ここに分注があり,「或いは云はく,此の山の神をば大物主神と為(い)ふといふ。或いは云はく,菟田(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)なりといふ」(雄略天皇7年7月)。

 菟田の墨坂とは,神武天皇が河内,大和に侵入したとき,八十梟帥(やそたける)がおこし墨(火をつけた木炭。戦いに用いて刃こぼれした剣を打ち直すために炭をおこしたのです。「鉄から読む日本の歴史」窪田蔵郎・講談社参照。)を置いた坂です(神武天皇即位前紀戊午9月)。その後崇神天皇は,この坂にいる墨坂神を祭りました(崇神天皇9年3月,4月)。

 要するに,雄略天皇の時代にはすでに,三諸山すなわち三輪山の神が何であるか,わからなくなっていたのです。三輪山の神が大物主神なのか,墨坂神であるのかわからなくなっていたのです。ましてや,大己貴神など忘れ去られていたということです。上記した分注が挿入された時代が問題ですが,日本書紀編纂者が編纂時に挿入したのだとしても,日本書紀や古事記が編纂された頃には,わからなくなっていたことだけは確かです。

 ですから,現代の大神神社が大物主神と大己貴神とを別々に祭っているといっても,全然信用できないのです。後世になって,文献上根拠がある神をとにかく祭ってみた,という可能性を否定できないのです。


日本書紀第9段第2の一書は別の神だとしている

 大神神社を訪れて,事情聴取している暇はありません。そんなこと,やっても無駄でしょう。そもそもこの原稿の守備範囲を超えています。
 やはり,通勤電車の中で読める範囲で考えましょう。

 前述したとおり,日本書紀第9段第2の一書は,別の神だとしています。

 大己貴神は,高皇産霊尊の和解条件を受け入れて国を譲り,「長に(とこしえに)隠れましき」,すなわち永久に去ります。これを受けて経津主神(ふつぬしのかみ)は,国を平らげます。その時帰順してきたのが,「首渠(ひとごのかみ)」,すなわち出雲にいたドン,大物主神と事代主神でした。この2神は,八十万神を従えて天高市(あまのたけち)に昇り,その至誠の情を陳述したのです。完全降伏です。それを聞いた高皇産霊尊は,子の三穂津姫を大物主神の妻として与え,天つ神サイドに取り込んだうえで,八十万神たちと共に永遠に皇孫を守れと命令します。

 ですから,異伝とはいえ第9段第2の一書は,大己貴神と大物主神とが別の神だとしているのです。しかも,大己貴神(大国主神)と同じく出雲の神ではありますが,その一段下のような存在です。
 このように,大国主神と大物主神は同一かどうかという問題と,大物主神は出雲の神なのかという問題とがあります。


崇神天皇5年,6年の叙述が重要だ

 何よりもまず,日本書紀の崇神天皇5年,6年の叙述を検討する必要があります。

 ここには,単に大己貴神と大物主神の異同という問題だけでなく,あらゆる問題が集積していますので,これを解きほぐしていくのは,わくわくするほど面白い。日本神話を読みこなす面白さが詰まっています。
 そこで以下,この部分全体を検討してみましょう。

 日本書紀は,以下のとおり述べています。

 崇神天皇5年,疫病が流行り,民の過半数が死亡しました。6年になると,農民が土地を離れて流浪するようになり,反逆する者も出てきました。「其の勢」は,徳(うつくしび)をもって治めることもできないほどでした。
 そこで天皇は,早朝から夕方までこれを恐れ,「神祇」にその罪の意味,すなわちなぜこうした罪を負わなければならないのか根拠を請いました。これより先に大殿(みあらか)には,「天照大神」,「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」を並べて祭っていました。

 しかし,「其の神の勢を畏りて(おそりて)」,安んじて共に住むことができませんでした。そこで「天照大神」を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)につけて,倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭り,磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立てました。「日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」は渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)につけて祭らせましたが,髪が落ち身体が痩せ細っていつき祭ることができませんでした。


崇神天皇の時代に天つ神と並べて地祇を祭っている

 まず,この話の大前提として,天神地祇(てんしんちぎ)を並べて祭っているという問題があります。この意味を考えましょう。ここでは,「天照大神」と「倭大国魂神」ないし「日本大国魂神」です。

 天神(あまつかみ)は天にいる神であり,地祇(くにつかみ)は,国土に生まれて生成した神です。
 日本書紀神代の巻の目的は,天皇の正統性を神代にさかのぼって主張する点にありました。天皇は,国譲りという名の侵略により降臨した天孫,天津彦彦火瓊瓊杵尊の子孫であり,葦原中国を支配する権利があります。これに対し地祇は,被征服者が祭っていた,いわばローカルな地域神にすぎません。征服される神なのです。ただ,出雲の神々だけは別格で,すべて「神」という称号をもっていました。

 ところがいつの間にか崇神天皇は,天神と地祇を並べて対等に祭っているのです。大和の地には,「倭大国魂神」という「神」がいたようです。対等に祭らざるを得ないのが,ことの真相だったようです。

 しかし事態は悪化し,むしろ地祇だけを祭らざるを得なくなります


神武天皇が日に向かって戦ったから負けたというのは本質をはずした駄説である

 「神祇(じんぎ)」という言葉,すなわち「天神地祇」の略語は,神武天皇即位前紀戊午4月に,初めて登場します。

 神武天皇は,生駒越えをして大和に入ろうとします。これを知った長髄彦(ながすねひこ)は,孔舎衛坂(くさえのさか)に迎え撃ってこれを撃退します。大和侵入の初戦に敗れた神武天皇は言います。「神祇(あまつやしろくにつやしろ)を礼び祭ひて(いやびいわいて),背(そびら)に日神の威(みいきおい)を負ひたてまつりて」戦えば,勝てると。

 一般には,日の神の子孫であるのに日に向かって西から攻めたのが間違いだったと解釈されているようです。しかしそれは,物事の本質を見誤った議論というほかありません。

 日本書紀の叙述と文言からすれば,神武天皇が気づいたのは2点です。「神祇を礼び祭ひて(いやびいわいて)」,しかも「背に日神の威を負ひたてまつりて」(神武天皇即位前紀戊午4月)戦えば勝てるということでした。
 神武天皇は,ここですでに,天神のみならず地祇をも並べ祭って,地元の民の協力を得なければ勝てないことに気づいています。現実の戦略としては,むしろこっちの方が大切であり,日に向かうか否かということは,物語の上での単なる装飾にすぎません。そんなことだけで戦いに勝てると思うアホな指揮官はいないでしょう。

 古代の戦いは神々の戦いだったなどという,阿呆な妄説に惑わされてもいけません。現実には単なる殺し合いです。現実はいつも厳しい。戦えば人の血が流れる。泣きわめく家族がいる。それよりも問題なのは,負け続ければ指揮官自身の身が危うくなるということです。

 神武天皇が気づいた本質は,「神祇を礼び祭ひて」という点にあります。


すでに神武天皇の時代に天神と並べて地祇を祭っている

 だからこそ神武天皇は,戦勝後も,地祇を大切にしていつき祭りました。大和周辺の豪族が信奉する神を祭ること,すなわち大和の地主神の祭祀権を得ることが支配の象徴であり,神意を尊重した古代にあっては,現実の支配そのものでした。

 考えてみれば神武天皇は,難関の速吸之門(はやすいなと)では国神珍彦(うづひこ)の協力を得ました。吉備国では3年間そこにとどまって,しっかりと力を蓄えました。孔舎衛坂の戦いの後も,天照大神の助力だけでなく,吉野で井光(いひか)という国つ神や磐排別(いわおしわく)の子に出会っています。
 これらは,地元の支配者の帰順物語なのでしょう。そして,天香山の土を取ってきて天神地祇を祭った結果,八十梟帥(やそたける)を国見丘に破るのです。

 要するに,神武天皇といえども,国つ神の協力,すなわち国つ神をいつき祭る土着の氏族の協力なしには,大和平定を果たせなかったのです。神武紀以前の日本書紀神代の巻は,国つ神を一段下に見ています。国譲りという名の侵略を描いた第9段では,「邪神」,「邪鬼」とまで呼んでいます。しかし,そうしたエキセントリックな表現は,あくまでも創作上のことにすぎず,現実は違っていました。国つ神を尊重し,天つ神と並べていつき祭るしかなかったのです。

 とにかく,神武天皇とその後の天皇には,地祇を無視して天神のみを押しつけるほどの,圧倒的な力がありませんでした。地元の豪族を意のままに支配する,専制君主たる力がなかったのです。

 地祇を天神と並べて祭らなければならなかった理由は,ここにあります。だからこそ崇神天皇も,天照大神に並べて倭大国魂神をいつき祭っていました。


神を祭ることは政治と不即不離である

 ここで,天神と地祇を並べて祭ることの意味をもう少し考えておきましょう。これを理解しておかないと,崇神天皇5年以下の叙述が理解できません。

 何度も言いますが,古代人に科学はありません。情報が乏しいので,政治的決定にせよ何にせよ,どちらかに決定することを迫られた場合,情報分析に基づいた論理的決定ができません。どちらがよりましかという決定さえできません。しかし決定は迫られます。ですから,誓約や神判が必要になります。人間は,なぜこうなったのか,なぜこうするのかという根拠を求めたがります。戦って死ぬ場合でも,死ぬ意味がなければ戦場に赴けません。戦場に赴く理由を与えてやる必要があります。だからこそ万世一系の天皇と皇国が必要でした。そこでは情報を極端に制限し,合理的判断ができる情報を与えませんでした。
 情報がなければ,残るのは神です。それは,戦いをする態勢作りとしては正しい判断でした。軍隊というものは,いつの世でもそういうものです。

 だからこそ古代では神意を問うのです。

 これは,情報が極端に乏しい古代人にとって,最後の指針でした。現代では,これを逆手にとって,神にすべての判断をゆだねてしまい,信者の財産を巻き上げるどころか,非合理な死を当然視し,むしろそれが幸せであるという宗教さえ存在しています。

 こうした意味で,祭祀権を把握することは,現実的権力的支配を意味しました。神意が支配の根拠なのです。人を支配しようとすれば,その人が信じている神を祭り,その神意をうかがう神事を握ってしまえばよいのです。あなたたちが信じていた鰯の頭は,今,戦争をしろと述べておられる。

 もっともっとしょうもない現実を言えば,その神が降臨する憑代(よりしろ)となって神意を述べる者を把握し,神意の内容をコントロールしてしまえば,その神を奉ずる氏族を手中にできるのです。知識や知恵を独占できた支配者層と,無知蒙昧で過酷な労働に置かれた被支配者層との間の知性の落差は,現代の私たちが想像できる範囲を超えていたことでしょう。

 醒めた支配者の合理的思考を想像してみましょう。古代においても,この真実に気づき,醒めた目で人を支配しようとした人たちがいました。だからこそ,自らが奉ずる天つ神と並べて,被支配者層が奉ずる国つ神をいつき祭ったのです。


日本書紀の叙述から祭政一致の現実を知る

 それは具体的にはどういうことだったでしょうか。仲哀天皇と神功皇后の条の事例を検討してみましょう。

 仲哀天皇8年9月には,仲哀天皇が群臣を集めて熊襲(くまそ)を討つか否かを諮らせたとき,神が神功皇后に懸かって,熊襲は膂宍の空国(そししのむなくに),すなわち何もないやせた土地だから討つに足りないと述べたという記事があります。

 これだけを読むと,会議をしていたら神が現れてありがたい意見を述べてくれたという,神がかり的なトンデモ話です。しかしそうではないのです。神が降臨してくることは,会議の内容として,初めから予定されていました。熊襲征討という重大事にあたって,神に降臨してもらって,その意見を聞いたのです。それが会議の内容になっていたのです。群臣は,様々な意見を述べたことでしょう。そしてたぶんその最後に,神の意見を聞いたのです。その結果が記載されているのです。

 神の託宣を聞く方法は,神功皇后摂政前紀がわかりやすいです。
 皇后は,斎宮(いわいのみや)に入って自ら神主(かんぬし)となります。武内宿禰(たけしうちのすくね)に琴を弾かせ,中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を審神者(さにわ)とします。そこで琴を弾いて神に質問し,7日7夜祈り続けると,神が皇后に降って答えました。

 斎宮は,神を祭ってある場所です。まず,これが必要です。神主は,今で言う神主ではありません。神が降ってくる憑代(よりしろ)としての人をいいます。憑代は高い木であったり岩であったり神籬であったりしますが,ここでは託宣が目的なので,人です。琴は,神を呼び出す音楽です。審神者は,そばにいて神託を聞き,その意味を判断する人です。

 ですから,この神主なり審神者なりを把握してしまえば,その神を信ずる者たちを把握できるのです。これが,祭政一致の政治の,悲しい現実でした。
 だからこそ崇神天皇は,「天照大神」と並べて「倭大国玉神」をいつき祭っていました。2神を差別しませんでした。


倭大国玉神は天の下を平定した出雲の神大己貴神である

 それでは,崇神天皇6年にすでに「天照大神」と並べて大殿に祭られていた「倭大国玉神」とは,いったいいかなる神なのでしょうか。

 私は,大己貴神だと考えます。

 すでに口を酸っぱくして述べたとおり,大己貴神は,出雲だけでなく天の下を平定した大神です。平定後の政治を行うためにどこに住もうかと考えた末,「吾は日本国の三諸山(三輪山のこと)に住まむと欲ふ」と述べ,三輪山に行って宮殿を造って住んだのです。

 これが「大三輪の神」です。

 一方,第8段第6の一書は,「大国主神」の異名が「大物主神」,「国作大己貴命」,「葦原醜男」,「八千戈神」,「大国玉神」,「顕国玉神」だとしています。「大国玉神」,「顕国玉神」という名称は,大和に行って「倭大国玉神」となるのでしょう。

 この第6の一書は,言うまでもなく異伝です。しかし,権力者側が作成した本文と明らかに矛盾するにもかかわらず,こうした伝承が削除されることなく掲載されていることが重要です。ここに,日本書紀の客観性があります。
 おそらく,これを削ると,強い異論を唱える人々がいたのでしょう。第6の一書によれば,大己貴神が天の下全体を平定したのです。その大己貴神は,大和に行って「大三輪の神」になりました。その子孫が,甘茂君等,大三輪君等です。第6の一書によれば,大和の三輪山の周辺には,大己貴神を祖先としていつき祭る人々がいたのです。だからこそ隠すことができませんでした。日本書紀編纂者は,良心的な歴史家でした。


本居宣長の説は文言にこだわるだけの賢しらである

 これに対し,かの有名な本居宣長は,国玉神は一般にその国の経営に功のあった神だから,「倭大国魂神」を大国主神ないし大己貴神とするのは誤りであるとしています。「倭大国魂神」は倭という地元の経営に功のあった神ですから,大己貴神とは違うというのです。

 これは,「国玉神」という目先の文言にとらわれて,第8段第6の一書の意義を理解していない解釈です。大己貴神は,大和を含む天の下を平定して「遂に出雲国に到り」,天下平定を宣言したのでした(第8段第6の一書)。その後三輪山に来て鎮座し,政治を行った神です。まさに,大和の経営に功のあった神なのです。古事記によれば,須世理毘賣の嫉妬に会い,「出雲より倭国に上りまさむ」ということができたのです。

 そして,葦原の屈強な男はいっぱいいたであろうに,「葦原醜男」という一般名詞を,自らの固有名詞にしてしまいました。それと同様に,「大国玉神」,「顕国玉神」というのも,国の経営に功のあった神といえばこの神しかいないという意味で,一般名詞を独占し,固有名詞にしているのです。固有名詞としての「大国玉神」を与えられた大己貴神は,三諸山に行って「大三輪の神」という地方的呼び名を与えられました。

 ですから,「大国玉神」に「倭」をつけて,「倭大国魂神」と呼ばれたのです。

 さらに神武天皇31年4月には,神武天皇以前に倭を国見した伊奘諾尊,大己貴神,饒速日命3神の話が載っています。「大己貴大神」は,倭を国見して「玉牆の内つ国」と呼びました。倭の経営に功があった3神のうちの1神だからこそ,こうした伝承が残ったのです。大和には,確かに大己貴神がいます。それは,「倭(やまと,すなわち日本)」の「大国魂神」なのです。


突然祭られる天照大神

 一方,ここで突然,天照大神が祭られているという事実が判明します。

 日本書紀神代の巻のハイライトである国譲りや天孫降臨を命令するのは,高皇産霊尊です。天照大神ではありません。その後天照大神は神武天皇の大和侵入を助けますが,日本書紀は,神武が天照大神を祭ったとは述べていません。むしろ,自ら憑代(よりしろ)となって降臨を願ったのは,高皇産霊尊でした(神武即位前紀戊午9月)。そして祭ったのは「皇祖天神」であり(神武天皇4年2月),天照大神を祭ったとは,はっきりと述べていません。

 神功皇后摂政元年2月でも,他の神と対等です。

 新羅を討った神功皇后は,筑紫の地で応神天皇を生みます。そして大和に帰ろうとします。しかし,カゴ坂皇子と忍熊皇子の抵抗に遭い,船は先に進めません。そこで,務古水門(むこのみなと)に帰って神の意思を占いました。
 天照大神は,わが荒魂を神功皇后の身辺につけてはならぬ,広田国(ひろたのくに,現在の兵庫県西宮市)におらしめよと言います。広田国に戦いの拠点を置けという意味なのでしょう。稚日女尊は,活田長峡国(いくたのながおのくに)に居たいと言います。事代主神は,長田国(ながたのくに)に祭れと言います。表筒男,中筒男,底筒男の3神は,わが和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながを)に居らしむべしと言います。ここに政治の拠点を置けという意味なのでしょう。これら諸神の言うがままに祭ったところ,神功皇后は平安に海を渡ることができました(神功皇后摂政元年2月)。

 天照大神は,たいした神ではありません。これを皇祖神と断定するには,謎が多すぎます。日本書紀が述べる天照大神の素性は,きわめて曖昧です。
 ここで検討している崇神紀の後,天照大神は大和を出てさまよい始めます。皇祖神であれば,こんなことはなかったはずです。

 私は,崇神天皇の時点では,あらゆる氏族がいつき祭っていた,単なる日の神にすぎなかったと考えています。それを日本書紀編纂時点で,天照大神と呼んだにすぎません。


なぜ倭大国魂神こと大己貴神が天照大神と並んで祭られていたのか

 とにかく倭大国魂神は,天照大神と並んで祭られていました。それはなぜか。

 東征を果たした神武天皇は,山に登り,国見をして四囲が青垣に囲まれた大和盆地を称え,狭いけれど交尾をしている蜻蛉(あきづ)のようだと称えます(神武紀31年4月)。日本書紀編纂者は,これにより「秋津洲」の名が起こったとします。そしてそれに並べて,次の事実を紹介しています。伊奘諾尊は「浦安の国(うらやすのくに)」,「細戈の千足る国(くわしほこのちだるくに)」,「磯輪上の秀真国(しわかみのほつまくに)」と呼び,大己貴大神は「玉牆の内つ国(たまがきのうちつくに)」と呼び,饒速日命は「虚空見つ日本の国」と呼んだと。

 天照大神や神武天皇を祖とする崇神天皇は,自らの祖先以前に大和を支配した神,地主神を祭っていたのです。大己貴神は,単なる大和の神でなく,大八洲国全体を支配した大神でした。しかし,三輪山に鎮座して大和を支配し,倭大国魂神と呼ばれていました。


政治権力崩壊の危機を見た崇神天皇

 有名な崇神天皇5年以降の叙述を検討する前提問題だけで,これだけのページを費やしてしまいました。以上を理解したうえで次に進みましょう。

 さて,崇神天皇5年に疫病が流行り,民の過半数が死亡し,6年になると農民が土地を離れて流浪するようになり,反逆する者も出てきました。「其の勢」は,「徳(うつくしび)」をもって治めることもできないほどでした。
 これは,政治権力の崩壊を意味します。「徳」があるかないかは,天皇の統治が行き渡っているか否かをはかる目安でした。中国伝来の天命思想でした。それは,日本書紀の端々に顔を出します。

 とにかく「徳」をもってしても治められないというのは,人心が離反し,反乱さえ起きている状態を意味します。天命が変わる,革命が起こる,それまでの王が死ぬ,王朝があらたまる,ということを意味します。
 ですから,ここは,注意深く読まなければなりません。単に,王様の徳政が行き届かなくなったなどという,無知平板な解釈をしてはなりません。民の過半数が死亡し,当時の国家財政の基本である農民が土地を離れて流浪し,反逆者を制圧できないほどの状態に立ち至ったという切羽詰まった状況が,ここに叙述されているのです。

 これは,政治権力崩壊の危機でしょう。


学者さんの説のしょうもなさ

 だからこそ,崇神天皇は,早朝に起きて夕方に至るまで,この暴動を恐れて「神祇」にその罪の意味,すなわちなぜこうした罪を負わなければならないのか,その理由を請いました。その1つの回答は,「朝に善政無くして」(崇神天皇7年2月)ということでした。
 ところが学者さんは,早朝から深夜まで政務に務め励んで,天神地祇に謝罪を請い願ったとしています。

 しかし私は,笑ってしまいます。

 問題は,「徳」や「善政」に結びついた天命思想なのです。
 天は,その時々の支配者に「徳」や「善政」がないと判断すれば,新たなる支配者に天命を移します。その時,それまでの王様は,新しい王様により殺されます。家族や一族郎党と共に皆殺しにされます。それを,天命が移ったというのです。これを理解するには,諸星大二郎の西遊妖猿伝を読むのが一番です。

 そうした厳しい天に対して謝罪を乞うなんて,おかしいんじゃないの。そうではなく,なぜ私に「徳」や「善政」がないのかを請うのが筋ではないでしょうか。
 謝罪なんて,「徳」や「善政」がなかったことを認める者がすることです。素直に謝罪して誠意を示せば許してくれるかも,なんていう,島国根性丸出しの甘い解釈じゃ,駄目です。いやんなっちゃうよ。許しを請うという意味では,仏教的解釈かもしれませんが。
 しかしいずれにせよ,中国では絶対にあり得ない態度です。

 原文は,「請罪神祇」としています。叙述の流れとしても,なぜこうした暴動が起きるのか,もしかして自分が悪いのか,その罪の意味を神祇に請うたというのが自然です。
 国が内乱状態になってしまったので,朝から晩までそれを恐れ,なぜそうなったのかその理由を天神地祇に聞いたとするのが自然です。いきなり謝罪するなんて,古代でも現代でも,世界の田舎もんがすることです。


倭大国魂神が叛乱をおこす

 さて,こうして崇神天皇は神祇,すなわち大殿に並び祭っていた天照大神と倭大国魂神に祈りましたが,「然して(しこうして),其の神の勢を畏りて(おそりて),共に住みたまふに安からず」。

 原文は,「然畏其神勢,共住不安」となっています。これをどう解釈するかが問題です。

 「其の神の勢い」とは,2神のうちどちらでしょうか。農民が土地を離れて流浪するようになり,反逆する者も出てきました。「其の勢」は,「徳(うつくしび)」をもって治めることもできないほどでした。そうした叙述の流れの中での「其の神の勢い」です。天命が移るかどうかの勢いです。土着の民の勢いが盛んでしたから,国つ神の勢いも盛んだったのでしょう。ですから,「其の神」とは「倭大国魂神」,すなわち大己貴神です。「其の勢い」と「其の神の勢い」と対応しています。土地の民が崇神天皇に叛乱を起こすのですから,土地の神も天照大神に叛乱を起こすのです。

 だからこそ,この2つの神は神威を発揮して対立し,共に安んじて住むことができなかったのです。単に,崇神天皇が安んじて眠れなかったのではありません。2神の対立があったのです。


追い出されたのは天照大神だ

 そこで崇神天皇は,天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭り,「磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)」を立てました。一方,日本(倭)大国魂神には渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)をつけて祭らせましたが,髪が落ち身体が痩せ細って,いつき祭ることができませんでした。

 「磯堅城の」という部分が難解です。とにかく神籬は,神が降臨する場所として作ったものであり,神社みたいなもんです。神の憑代(よりしろ)を移すということは,祭る場所を移すということです。
 すなわち天照大神は,倭大国魂神=大己貴神の叛乱によって崇神天皇の大殿から追い出され,さすらうことになったのです。その第1の場所が,倭の笠縫邑なのでした。

 一方,倭大国魂神すなわち大己貴神については,移されたという叙述がありません。追い出されたのは天照大神の方であり,倭大国魂神はそのまま大殿に祭られていたと考えるしかありません。前述したとおり,天照大神以前に大和を支配していた神は,大己貴神=倭大国魂神でした。これを祭ることは土地の民を支配することを意味するので,放棄できなかったのです。仕方なく,皇祖神天照大神を放棄したのです。

 しかし,土地の民の叛乱は激しく,その勢いは恐れおののくほどでした。地元の神(じつは大八洲国全体を支配した大国主神。)さえも,治まりませんでした。崇神天皇が任命した渟名城入姫命が,朝から晩まで祭り続けても,民の反乱は収まりませんでした。その結果,渟名城入姫命は体力を消耗して,痩せ細るほどでした。


学者さんの解釈はわけがわからない

 これに対し,学者の解釈はわけがわかりません。
 「然畏其神勢,共住不安」とは,天皇が2神の神威を畏れて2神と共に住むことに不安があったという意味であるとしています(小学館・新編日本古典文学全集・日本書紀1)。

 しかしこれでは,民の叛乱があったという原因との関係が,まったく不明になってしまいます。民の叛乱が,なぜ天皇に2神の神威を畏れさせることになるのか。少なくとも天照大神は皇祖神であり味方ではないのか。恐れるのは国つ神の倭大国魂神だけではないのか。

 天照大神は,神武天皇が大和侵入を図ったときに助けてくれた神です。なぜ天照大神に鎮護をお願いしないのか。さっぱりわけがわかりません。また,2神と共に住むのが不安であるのなら,2神ともそろって遠ざければいいではないですか。天照大神だけを大殿から追い出すのは,筋が通りません。

 こうした学者さんたちは,神を祭る意味とか,神が神威を発する意味とかが,まったくわかっていないのです。神を祭るという現実の意味を理解しないで,机の上で適当に考えているだけなのです。


垂仁天皇25年3月の叙述

 天皇の大殿から追放された天照大神については,有名な後日談があります。垂仁天皇25年3月です。

 垂仁天皇は,それまで天照大神を祭っていた豊鍬入姫命を離して,倭姫命(やまとひめのみこと)をつけます。倭姫命は,天照大神を鎮め祭る場所を求めて,倭の笠縫邑を出発して奈良の宇陀,近江,美濃をさまよいます。伊勢に来てやっと,天照大神自身がここに居たいと言うのです。
 「是の神風の伊勢国は,常世の浪(とこよのなみ)の重浪帰する(しきなみよする)国なり。傍国(かたくに)の可怜し国(うましくに)なり。是の国に居らむと欲ふ」。こうして,伊勢の五十鈴川の川上に鎮座しました。

 伊勢神宮の縁起譚です。


天照大神が諸国をさまよった理由

 一般には,天照大神が皇祖神だと思われています。それがなぜ,大殿を追放されて諸国をさまようのでしょうか。一見不可解です。

 しかし,ある1つの神にこうした遍歴があったことを,真摯に受け取るしかないのです。日本書紀編纂者でさえ,こうした叙述しかできなかったのでしょう。こうした遍歴をする神がいかなる神だったかを問うことこそが,日本書紀編纂者の叙述に即して考える立場になります。

 人によっては,自宅に神棚を設置して,毎朝水や供え物をして拝みます。神棚,すなわちここでいう神籬(ひもろぎ)を笠縫邑に立てた(崇神天皇6年)ということは,天皇がいる大殿から天照大神を追放したと考えるしかありません。それ以外の解釈はできません。毎日拝む自宅の神棚を,外に追いやったということなのですから。

 ことはもっと重大です。

 当時の神は,神懸かりによってものごとを決定するという意味で,単なる神棚の神とは異なり,政治上重要な存在でした。前述したとおり,古代人に科学はありません。決定が迫られたとき,決定の根拠として誓約や神判や神の託宣が必要になります。そうした意味で,神の祭祀権を把握することは,現実的権力的支配権の掌握を意味しました。神意が支配の根拠です。人を支配しようとすれば,その人が信じている神を祭り,その神意をうかがう神事を握らなければなりません。神を祭り託宣を行うことは政治の一部であり,権力と切り離して考えることはできません。だからこそ,皇祖神と仰いでいたらしい天照大神と並べて,国神である倭大国魂神をいつき祭っていたのです。

 だから,神が諸国を流浪したなどという話は,もはや,権力側が神を見限ったと考えるほかないのです。天照大神は,そうした神だったのです。

 崇神天皇は,本当に天照大神を祭っていたのでしょうか。日神を祭っていて,それを後世になって天照大神と言っただけなのではないでしょうか。じつは天照大神や高皇産霊尊は,日本書紀の神話の体系の中にきちんと位置づけられていません。
 天照大神は月読命と素戔鳴尊と並んで登場しますが,ハイライトシーンである肝心の第9段,国譲りという名の侵略と天孫降臨の段になると,突然影が薄くなります。逆に,それまでほとんどまったく無視されていた高皇産霊尊が,「皇祖」という称号を得て,「皇孫」を天照大神から奪ってかわいがり,育てることになります。高皇産霊尊が突然主役になるのです。天照大神と高皇産霊尊は,皇祖神としての位置づけがきちんとされていません。皇祖神という幻想を作ったのは,むしろ古事記ではないでしょうか。

 日本書紀は,地名にせよ何にせよ,後世使われた名称を平気で使っています。当時どのように呼ばれていたかを厳密に区別していません。ですから,崇神天皇当時の天照大神は,後世いわゆる天照大神であり,当時は一般の日の神信仰にすぎなかったのではないかと考えるのです。


祭政一致の現場から考える

 私は,神功皇后の例を引いて,祭政一致の政治の現場を説明しました。それに照らして考えるならば,天照大神を祭る神籬を大殿の外に立て,その後諸国を流浪させたということは,政治的意思決定過程から天照大神が離脱したということに他なりません。

 大殿に2つの神を並べていつき祭っていたということは,それら2神の託宣をうかがっていたということです。
 どちらの託宣を聞くかは重大な問題です。どちらが先かは知りませんが,当時の支配者は,皇祖神と思われる天照大神と国つ神である倭大国魂神の託宣をうかがい,どちらも同じことを言っているとして,民を納得させていたに違いありません。

 でも,社会情勢は風雲急を告げていました。天照大神など,とても祭ることができませんでした。倭大国魂神さえ,それを祭る巫女が体力を失ってしまうほどでした。要するに大和の民は,天命の移動,すなわち革命を欲していたのです。

 崇神天皇は,とりあえず天照大神を大殿から追い出して,「倭の笠縫邑」に神籬を立てました。そうして,倭大国魂神を中心に祭ろうという姿勢を示しました。そうすれば,皇祖神天照大神の託宣も,ちょっと足を運んで聞きに行くことができます。崇神天皇の処置は,そうした妥協案だったのでしょう。

 しかしその後諸国を放浪したということは,時代が,天照大神の託宣などまったく必要としなかったということを示しています。

 結局天照大神は,政治的意思決定過程から排除されたのです。

 現代人は,たとえ伊勢から離れていても,天照大神を信仰して伊勢に向かって拝めばいいのです。しかし,政治的意思決定過程と共にある当時の神は,現実の政治の中心地から離れてしまえば,意味がなくなるのです。憑代と共に諸国を遍歴するようでは,託宣を求めて神懸かりすることさえできません。
 諸国を遍歴するということは,託宣という神の役割を求めないこと,すなわち神の放棄を意味するのです。


崇神紀の叙述の構成から

 話は飛びますが,崇神紀の日本書紀巻第5は,今問題にしている民の叛乱,それが治まった後の四道将軍派遣による外征,これが成功して天下が治まり御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれたこと,その後の出雲平定と任那の朝貢という展開になっています。

 御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれた理由を,日本書紀は,誇らしげにこう叙述しています。「是を以て,天神地祇共に和亨(にこ)みて」,風雨は時にしたがい農作物はよく実り,家々は充足して天下太平となった。だからこそ「御肇国天皇」と褒め申し上げると。

 天神地祇が共に平和になったからこそ天下太平がもたらされたというのであり,これが崇神紀の1つの締めくくりとなっています。まさに,天神と並べて地祇を祭るということは,祭政一致の政治の要諦でした。我々は,崇神紀の叙述から,神を祭るということの意味をかみしめるべきです。


崇神天皇は八十万の神に祈る

 さて,天照大神を「倭の笠縫邑」に追い出しましたが,倭大国魂神の神威はいよいよ盛んで,これを祭る渟名城入姫命は,髪が抜け落ちて痩せ細るばかりでした。崇神天皇は,崇神天皇7年,災害や叛乱の理由を占いにより探ろうとします。

 崇神天皇は言います。「昔我が皇祖」は大いに鴻基(あまつひつぎ)を広めたが,自分の代になってから災害がたくさんあった。これは善政をしなかったからだろう。ここで神亀の占いをして,災害の起こる原因を究めよう。そうして崇神天皇は,「神浅茅原(かむあさぢはら)」に行き,「八十万の神を会へて(つどへて)」占いを行いました。

 天照大神を見捨て,倭大国魂神をいつき祭りましたが,事態は収拾しようとしません。ですから,2神以外の「八十万の神」の託宣をうかがったのです。ここが大切です。


大物主神の登場

 さて,やっと本題にたどり着きました。大己貴神と大物主神の異同というのが本題でした。ここで大物主神が登場します。

 神は,倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に憑依し,自分を祭れば必ず平らぐと述べます。崇神天皇がその名を問うと,「我は是倭国の域(さかい)の内に所居(お)る神,名を大物主神」と名乗るのです。

 そこで教えられたとおり祭りますが,効果がありません。崇神天皇が「沐浴斎戒して殿(みあらか)の内を潔浄りて(きよまわりて)」教えを請います。すると大物主神は崇神天皇の夢に現れ,国が治まらないのは我が意思であると述べ,吾が児大田田根子(おおたたねこ)をもって自分を祭らせればたちどころに治まると述べます。それどころか,「海外(わたのほか)の国」も自然に帰順するだろうと言うのです。


叙述と文言からすれば大物主神は大己貴神とは別の神である

 この叙述の流れを素直に見れば,大物主神は,大己貴神とは別の神と言うほかありません。

 天照大神を大殿から倭の笠縫邑に追放したものの,それでも不満だったのか,倭大国魂神は納得しません。そこで崇神天皇は,2神とは別に,八十万の神の神意を聞いたのです。そこに登場してきたのが大物主神だったのです。
 大物主神は,天照大神と倭大国魂神=大己貴神との争いに,横から首を突っ込んできた神なのです。

 しかもその出自は,「倭国の域(さかい)の内に所居る神」,すなわち倭国の境界の内側にいる神だとされています。これは,天の下を平定した後,倭の大三輪の山に行って鎮まった大己貴神とは,明らかに違います。倭国に昔からいた,古い地主神なのでしょう。

 そして,大田田根子という子孫を捜し出して自分を祭らせることが,世の中を治める条件だというのです。すなわち,それまでは忘れ去られていたので,怒り,子孫が祭ってくれていないので祭ってくれと要求しているのです。

 大己貴神の子は事代主神であり(第9段本文),それを祭ったのは天穂日命です(第9段第2の一書)。これに対し大田田根子は,後述するとおり,茅渟県の陶邑(ちぬのあがたのすえのむら)の民,すなわち地元の民です。その母親も,「陶津耳(すえつみみ)」の娘であり,代々,茅渟県の陶邑に住んでいたことになっています。
 地元の民の祖先神ですが,忘れ去られていたのが大物主神なのです。

 なお,出雲国造神賀詞は,大己貴神と大物主神を同一視しています。しかし,この神賀詞自体,出雲国が大和の政権にへりくだり,お仕え白すという時代の産物ですから,信用することはできません。私は,それ以前のはるか昔はどうだったかを考えているのです。出雲国造神賀詞については,別の機会に論じたいと思います。


大物主神と倭大国魂神を祭る崇神天皇

 崇神天皇の家臣たち3人は,大田田根子をして大物主神を祭らせ,市磯長尾市(いちしのながをち)をして倭大国魂神を祭らせれば必ず治まるという夢を見ます。そこで崇神天皇は,大田田根子を探させ,茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)に発見しました。そして他の神を祭ってよいかどうか占ったところ,よからずという結果が出ました。

 そこで実際に,夢のとおりに大田田根子をして大物主神を祭らせ,市磯長尾市をして倭大国魂神を祭らせたのち,他の神を祭ってよいかどうか占ったところ,よしという結果が出ました。そこで崇神天皇は,「八十万の群神(もろかみ)」を祭りました。こうして「天社(あまつやしろ)」,「国社(くにつやしろ)」,「神地(かんどころ)」,「神戸(かんべ)」を定めたのです。すると疫病はやみ,叛乱も収まり,国は治まりました。五穀の作物はよく実り,農民も豊かになりました。


大物主神は祟る神ではない

 学者さんたちのなかには,大物主神は祟る(たたる)神だという人がいます。

 しかしそれは間違っています。
 叙述と文言を素直に読み取るならば,以上検討してきた崇神紀の対立軸は,崇神天皇vs庶民,崇神天皇が祭る天照大神vs倭大国魂神(じつは大己貴神)です。その争いの中に,古くからの地主神たる大物主神が,首を突っ込んできたにすぎません。

 大物主神は,大和の三輪山に鎮座した大己貴神よりも古い神だったのかもしれません。とにかく,出雲とはまったく関係なく,「倭国の域の内に所居る神」でした。

 崇神天皇は,土地の古い地主神を祭ることの大切さに気づいて,大物主神を祭ったのです。


崇神天皇は天照大神も高皇産霊尊も祭らなかった

 崇神天皇が国を治め得たのは,なによりもまず地元の神である大物主神と倭大国魂神すなわち大己貴神を祭ったからです。その他の「八十万の群神」を祭ることは,その後でようやく許しが出たのです。この優先順位は大切です。

 皇祖高皇産霊尊(第9段本文)は,初めから問題になっていません。また,大殿に祭られていた天照大神は,倭の笠縫邑に追放された後,ここでとどめを刺されたようです。
 この2神は,「八十万の群神」に含まれているのでしょうか。そうではないでしょう。仮に含まれているとしても,大物主神と倭大国魂神すなわち大己貴神を祭った後でなければ,祭ることを許されなかった神にしかすぎません。「天社(あまつやしろ)」も,その後でなければ作れなかったのです。


国つ神のクーデター

 崇神紀は,天照大神の権威に大いなる疑問を投げかけます。単なる日の神か,当時から称揚されていた天照大神かという問題はおくとしても,とにかくその内容は,倭大国魂神すなわち大己貴神と古来の地主神大物主神が一緒になって,天照大神を追放したということになります。いつき祭られる神として残ったのは,倭大国魂神,「八十万の群神」の代表と思われる大物主神,そして「八十万の群神」になります。

 これは,国つ神のクーデターと言ってよいでしょう。

 国つ神が支配することにより世の中は治まりました。実は崇神紀の叙述の前半部分は,こうして国が治まるまでの過程です。後半が,治まった後の発展の事情です。
 崇神天皇の祭政一致の政治の根拠は,天照大神ではなく,倭大国魂神すなわち大己貴神と地主神大物主神にあったのです。


有名な歌謡はヨモツヘグイである

 さて,まだまだ面白い問題があります。

 すでに述べましたが,崇神天皇8年12月の歌謡です。国は治まりました。そこで崇神天皇は,倭国の高橋邑(たかはしのむら)の人「活日(いくひ)」に酒を造らせます。そして大田田根子に「大神(おおみわのかみ)」すなわち大物主神を祭らせ,この酒を献上させます。こうして崇神天皇は,大物主神を祭った神社で酒宴をはりました。酒に酔った崇神天皇は,以下の歌謡を詠みます。

 此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久

 一般には,この酒は私のものではない,倭国を造った大物主神が醸した酒である,幾代も栄えよ,という意味にとります。それでよいのですが,それだけではこの歌謡の意味を捉えきっていないのです。
 ここで,共食の思想,ヨモツヘグイを思い出してください。黄泉国まで追ってきた伊奘諾尊に対し,伊奘再尊は,すでに黄泉国の食事をしてしまったので帰れないと述べます。古代人には,他界の食物を口にするとその種族の構成員になってしまうという信仰ないし確信がありました。


崇神天皇は他界からの侵入者であった

 すなわち崇神天皇は,土地の者「活日」が造った酒を,古来の地主神である大物主神を祭った神社で飲むことで大物主神と共食し,一体化し,その世界の人になったのです。天照大神(もしかしたら単なる日の神)を棄てて国つ神だけをいつき祭ることにより,晴れて倭国の構成員になったのです。それを,酒の共食によって表現しているのです。

 これこそが,崇神天皇による倭の国支配の完成と言えるでしょう。だからこそ,崇神天皇10年7月では,「今,既に神祇を礼ひて(いやまいて),災害皆耗きぬ(つきぬ)」と宣言しているのです。日本書紀の叙述は,これ以降,倭国内の叙述から倭国外の叙述,すなわち他国への遠征物語に転換します。

 崇神天皇は,神武天皇から続いた天皇ではないのかもしれません。ここで王朝が途切れているのかもしれません。


いくつかの問題

 最後に,いくつかの問題を処理しておきましょう。

 第8段第6の一書は,大国主神の異名として「大物主神」,「国作大己貴命」とし,同一神であるとしていました。しかし崇神天皇5年以下の叙述を検討すれば,両者は明らかに別の神でした。大己貴神は,単なる出雲の神ではなく,天の下を造った大神として三輪山に祭られた,本来はグローバルな神でした。それが,倭大国魂神と呼ばれました。しかし,大和地方の古来の地主神である大物主神とオーバーラップして,同一神であるという誤解を招いたのでしょう。

 前述した歌謡は,「倭成す 大物主の」と述べています。大和を平定したのは大己貴神だったはずです。大物主神は「倭国の域(さかい)の内に所居る神」であり,茅渟県の陶邑(ちぬのあがたのすえのむら)の民大田田根子の祖先神でした。こうした祖先神地主神が大物主神です。これに対し大己貴神は,出雲を根拠に倭をも平定した神です。

 大物主神を「大神」と呼び,「おおみわ」と訓読している(崇神天皇8年4月,12月)のはどうしたことでしょうか。
 これは,「大神」を「おおかみ」と読めばよいだけのことです。日本書紀では,「大物主神」として登場したあと,表記が「大物主大神」となります。これは「おおかみ」と読みます。その後は「大神」と呼びます。ところが,テキストの訓では,なぜか「おおみわのかみ」とふっています。
 日本書紀編纂者は,「大物主神」を「大神(おおかみ)」と呼んだのですから,そのとおりに考えるべきです。これをわざわざ「おおみわのかみ」として,大三輪の神と考える必要はありません。そんな読み方は,すでに誤認混同が入っているのです。

 「所謂大田田根子は,今の三輪君等が始祖なり」とはどういうことでしょうか。大三輪の神となった大己貴神の子孫の1つが,大三輪君ではなかったのでしょうか(第8段第6の一書)。
 三輪山の周囲に栄えたであろう三輪君が,一緒に祭られている大己貴神だけでなく,地主神である大物主神をも始祖と仰いでいたと考えてもおかしくはありません。


箸墓伝説の内容

 崇神天皇10年9月の,有名な箸墓伝説があります。

 大物主神の憑依に功のあった倭迹迹日百襲姫命は,大物主神の妻となります。しかし大物主神は夜にしか来ないのでその姿を見たいと言います。大物主神は,明朝におまえの櫛の箱に入っているから驚かないでくれと言います。明朝,倭迹迹日百襲姫命が見ると,それは「美麗しき(うるわしき)小蛇」であり,長さも太さも衣につける紐のようでした。大物主神は,驚くなと言ったのに驚いた,我に恥をかかせたと述べて,三諸山に帰っていきました。それを見てしりもちをついた倭迹迹日百襲姫命は,陰部に箸が刺さって死にます。そこで作られたのが箸墓です。


不自然でも何でもない

 この部分は,前後の脈絡がなく不自然だと言われています。しかしこれも,叙述を無視した学説にすぎません。

 倭迹迹日百襲姫命は,崇神天皇と神との融和を物語る話の,中心人物です。国が混乱した時,大物主神が憑依したのは倭迹迹日百襲姫命でした。大田田根子を祭れば天下太平になるとの夢を見たのは倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさぢはらまくはしひめ)ですが,これは倭迹迹日百襲姫命のことだとされています。混乱が収まり,四道将軍を派遣しようとした時,武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱が起きます。これを賢明にも察知して崇神天皇に報告したのは,やはり倭迹迹日百襲姫命でした。こうして武埴安彦の反乱とその平定の叙述が展開されます。

 この直後に,箸墓伝説が展開されるのです。

 崇神紀を通した中心人物の神秘的な結婚と死を,その業績の最後に述べるのが不自然でしょうか。日本書紀をきちんと読めば,理解できます。


なぜ大物主神の妻になるのか

 大物主神の妻になったことが不自然なのでしょうか。

 大物主神は大和において忘れ去られた地主神でした。その怒りが国の混乱を招きました。大田田根子を探し出していつき祭らせることにより天下太平を得ました。崇神天皇は大物主神と酒を飲み,共食します。こうして天皇は,地主神と一体化します。

 そうなると,地主神は天皇の血を引いた女性を要求するのではないでしょうか。いや,天皇の方が女性を差し出すのかもしれません。こうして融和していくのでしょう。

 いずれにせよ,倭迹迹日百襲姫命が大物主神の妻になったという伝説は,天王の血を引いた女性が大物主神をいつき祭る巫女になったという話か,天皇家と地元の豪族とが血縁関係を結んだことを示しているのでしょう。


異界との接点

 余談ですが,このお話しは,異界との接点の話になっています。

 第5段第6の一書では,黄泉国に行った伊奘再尊が伊奘諾尊に,決して私を見るなと言います。我慢できない伊奘諾尊が見てしまうと,それは膿がわき蛆がたかる凄惨な姿でした。伊奘再尊は,我に恥をみせたと言います。これがきっかけで伊奘諾尊は黄泉国から逃げ,離婚して永遠に他界の存在となります。
 第10段本文では,豊玉姫は,子を産むところを決して見るなと言います。我慢できない彦火火出見尊がこれを見てしまうと,豊玉姫は竜になっていました。豊玉姫は,我に恥をみせたと言って離婚し,生んだ子を捨てて海神の宮に帰ってしまいます。こうして海と陸は永遠に隔てられました。

 大物主神は,倭迹迹日百襲姫命にとっては,異界の神だったのです。


箸墓伝説は大物主神の没落を物語る

 しかし,ここでの異界の神大物主神は,貶められています。大物主神の実体は,長さも太さも衣につける紐くらいの「美麗しき(うるわしき)小蛇」でした。かわいいと言ってもよいです。大物主神という呼び名にしては情けない姿です。はっきり言って,小馬鹿にされています。
 雄略天皇7年7月には,三諸山の神の形を見たいと雄略天皇が述べ,大蛇を捕らえさせる話が載っています。もうすこし時代が下れば,人間が神を捕らえようとする時代になるのです。そうした時代を予感させるのが箸墓伝説です。

 また大物主神は,昼間は小蛇の姿をしており,夜になると人間の姿をして倭迹迹日百襲姫命の所に通ってきました。神であるのになぜ人間と交わるのでしょうか。すでに,神というほどの神秘性はありません。


古事記ライターの陰謀

 さて,延々と日本書紀を検討してきましたが,ここで古事記に戻りましょう。これがまたひどい。

 古事記ライターは,大国主神の国作りと王朝物語を完結させたにもかかわらず,大国主神の三輪山鎮座物語を大年神の神裔と共にくっつけました。異常な構成であることは,すでに述べました。たぶん,異伝扱いした日本書紀編纂者と同様に,少名毘古那神と一緒に国を作ったなどというお話しは,真実に反する駄話であるとわかっていたのでしょう。

 しかし古事記ライターは,「海を光して依り来る神」がいかなる神か,正体不明にしてしまいました。必然的に,大国主神とはまったく違う神になってしまいました。その,いわばX神が,自分を大和の三輪山にいつき祭れ,そうすれば国作りができると言って,大国主神に要求したことになっています。

 ですから,古事記によると,三輪山に大国主神はいないのです。大国主神によって祭られたX神がいるだけなのです。古事記ライターは,そのX神こそが,少名毘古那神亡き後に大国主神の国作りを完成させた偉い神様であると言いたいのです。古事記では,大国主神の三輪山鎮座物語になっていません。大国主神が正体不明の神を三輪山に祭ったからこそ,国作りがやっと完成したというお話しになっています。大国主神は,三輪山にいるX神を拝んで,やっと国を作ったという内容になっているのです。
 くどいようですが,そうした,出雲とは関係のない偉い神様が,大和の三輪山にいると言いたいのです。

 私はここに,大国主神を出雲という一地方に押し込めようとする,古事記ライターの悪意を読み取ります。

 X神がいかなる神か,古事記ライターは明らかにしようとしないじゃないですか。日本書紀第8段第6の一書では,大己貴神(大国主神)の和魂幸魂でした。それを故意にカットしています。だからといって,現在三輪山に祭られている大物主神であるとも言わないのです。

 古事記の,崇神天皇の部分を読んでみましょう。そこには,「大物主大神」こそが,三輪山の神であると述べられています。だったらなぜ,X神が大物主大神であると,初めから堂々と言わなかったのでしょう。古事記は,ある1人のライターが作った書物です。日本書紀のような共同執筆ではありません。ですから,このちゃらんぽらんさに悪意があると言いたいのです。

 三輪山にいるのは,大和に古来からいる地主神=大物主大神であり,大国主神ではないと言いたいがために,このようなからくりを考えたのではないか。だからこそX神として,神名を明らかにしなかったのではないか。私は疑ってしまいます。


日本書紀の読み方

 ですから,日本書紀の崇神天皇の部分を読む際,「大神」というのを「おおみわのかみ」と訓読するのは,間違っているのです。これは,日本書紀編纂者が,「大物主大神」を,以後「大神」と略称しただけのことであり,日本書紀編纂者自身が,大物主大神すなわち三輪山の神と考えていたのではありません。それは,日本書紀の文言をきちんと点検すれば明らかなことです。

 後代の訓読者自身が,すでに混乱していたのです。その混乱の歴史は相当古いことになります。


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