第27 武神の派遣と失敗 |
八百萬の神と高御産巣日神と思金神の関係 話が全然先に進みません。 降臨させようとした正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は,葦原中国が騒がしいと言って戻ってきてしまったのでした。そこで高御産巣日神は,誰を派遣したらよいか,天の安の河原に八百萬の神を「神集へに集へて」,思金神(おもいかねのかみ)に考えさせます。思金神は,天菩比神を進言します。 天の石屋戸の場面でもまた,思金神が思案する神として登場します。八百萬の神が自発的に「天の安の河原に神集ひ集ひて,高御産巣日神の子,思金神に思はしめて」という展開になっています。これに対して天菩比神選定の場面では,天照大御神の命令で,高御産巣日神が八百萬の神を集めて,思金神に思わしめたという展開です。 なぜ,天の石屋戸の場面でも,高御産巣日神が登場して八百萬の神を集め,思金神に善後策を考えるよう命令しないのでしょうか。明らかに話が一貫していません。 高御産巣日神が獨神(ひとりがみ)として隠れたというけれど,古事記ライター自身がそのおきてを破っています。隠れちゃいないのです。天の石屋の場面では隠れたことにしておいて,天菩比神選定の場面ではそれを破ったということなのでしょうか。それとも,天の石屋戸の話が,そもそも高御産巣日神とはまったく関係のない成り立ちだったからなのでしょうか。それにしても,八百萬の神が「高御産巣日神の子,思金神に思はしめて」というのですから,天の石屋の話が高御産巣日神とまったく関係なく成立したとは思えません。 まったくわけがわかりません。隠れちゃいないのなら,この時堂々と出てくればいいじゃありませんか。
天菩比神は大国主神に媚びてしまいました。そこで,新たに天若日子が派遣されます。 私は,古事記ライターが第1の一書を見てリライトしたと主張しています。ここで指摘したいのは,弓と矢です。天若日子に与えられたのは,整理すると以下のとおりです。 古事記 天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)天之波波矢(あめのははや) 日本書紀本文 天鹿児弓(あまのかごゆみ) 天羽羽矢(あまのははや) 古事記で天若日子に与えられるのは,天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)です。ところが,天若日子が雉を射殺す場面では,なぜか「天つ神の賜へりし天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)」となっています。
学者さんは,前後資料を異にしたためであろうといいます。ですが,本にすれば1ページ足らずの違いです。古事記は,1人のライターがまとめた物語です。物語叙述者であれば,弓や矢の名前を統一するのが当たり前ではないでしょうか。 次に,時代が下った現代の学者さんは,天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや),天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)」には,語形に違いや小異があるとします。 私に言わせれば理由は単純です。古事記ライターはいい加減でした。日本書紀本文と第1の一書,特に後者を下敷きにしてリライトしました。叙述の当初は日本書紀本文の天鹿児弓(あまのかごゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)が頭にあって,天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)としました。しかしリライトの1ページ後には,第1の一書の天鹿児弓(あまのかごゆみ)と天真鹿児矢(あまのかごや)と第4の一書の天孫降臨の場面の「天梔弓(あまのはじゆみ)」がごっちゃになって,「天つ神の賜へりし天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)」になってしまったのです。
さて,天若日子は,偵察に来た雉を射殺します。その矢を高天原で受けた高御産巣日神は,天若日子が命令に忠実であれば当たらないが,忠実でなければこの矢に当たると述べて,矢を投げ返します。矢を投げ返す時の高御産巣日神は,「高木神」とされています。そして「この高木神は,高御産巣日神の別の名ぞ」という説明が挿入されています。その後古事記は,「高御産巣日神」という名称を使いません。「高木神」で通します。 ならばなぜ古事記冒頭から「高木神」で通さないのでしょうか。なぜここで「高御産巣日神」から「高木神」に切り替えるのでしょうか。 たぶん,高御産巣日神と呼んできたのが面倒くさくなったのでしょう。それだけのことです。 学者さんは,「産巣日(むすひ)」は生成の霊力を示すから,以後これを使わなくなるのは葦原中国の国作りが完成して新しい段階に入ったことに関係があるか,と言います。 そもそも古事記ライターは,「産巣日」が生成の霊力を示すことなど考えていません。そうした哲学的知性のある人間ならば,今まで指摘してきた,これだけいい加減な叙述はしません。 古事記は,深読みしても意味がないのです。それよりも,ライターとしての能力を見切ることが大切なのです。
天若日子が返し矢で死ぬエピソードは,日本書紀では返し矢恐るべしという諺の由縁話になっています(本文及び第1の一書)。偵察に行った雉が殺されて返ってこない点は同じなのですが,それは無視しています。古事記では,「これ環矢の本なり」という注を入れて,返し矢恐るべしという諺がわかっていることを示しながら,結局,雉が帰ってこなかったことに着目して,「雉(きぎし)の頓使(ひたづかい)」,すなわち行ったきり戻ってこない使者という諺の由縁話にしています。 返し矢の問題と,行ったきり戻ってこない使者の問題。
下照比賣は,返し矢で死んだ夫,天若日子の死を知り,泣き叫びます。その声は天上界にまで聞こえてきます。天若日子の父,天津国玉は,葦原中国に降ってきて,そこに喪屋(もや)を作って殯(もがり)を行います。葦原中国で葬式を行うのです。 どちらが正しいのでしょうか。どっちでもいいじゃん。神話なんだからそれくらいの違いはあるさ。そもそも混乱しているんだよね。それをあげつらう方がおかしいのさ,と考える人は,ここまでこの本を読んできて,日本神話に対するものの考え方も,物語としての読み方も,全然身に付かなかった人です。私がくどくど繰り返してきたことが,まったく頭に入らなかった人だと断言できます。 まず,世界観の問題があります。 古事記は,天と地,高天原と天の下(葦原中国),天つ神と国つ神を明確に分けています。その対立と,葦原中国に対する侵略と支配を描いています。天若日子の死は天孫降臨の前ですから,天つ神は,いまだに葦原中国を支配しておらず,天つ神と国つ神の対立があるはずです。 天若日子は天つ神です。天つ神たる父,天津国玉が喪主となって葬儀を執り行うのであれば,天上界で行うのが当然です。天つ神である天若日子の妻子が行う場合も同様です。これに反し,国つ神たる妻,下照姫が喪主となって行うのであれば,葦原中国で行うのが当然です。 日本書紀は,だからこそ,天上界へ死体を持って行ったとしています。世界観は一貫しています。ところが古事記は破綻しています。喪主たる天津国玉神が,葦原中国に降って葬儀を行ったとしています。 わけがわかりません。敵地に乗り込んで,お情けで葬式を出させてもらったのでしょうか。
次に,叙述上の問題があります。 日本書紀第9段本文と第1の一書は,天つ神を裏切った天稚彦でしたが,国つ神である妻に葬儀を任せなかったことが言いたいのです。国つ神である下照姫との結婚を認めていなかったので(それは,いわば嫁の実家に長男を取られたようなものだったので),「疾風を遣して」(本文),死体を天にもってきたのです。第1の一書で死体を持ってきたのは,天稚彦の妻子です。自分が本妻であると思っていたから,下照姫に取られたくなかったのです。 父である天国玉は,下照姫に会いたくもなかったでしょう。そもそも葦原中国は,「多に(さわに)蛍火(ほたるび)の光く(かがやく)神,及び蠅声なす(さばえなす)邪しき神(あしきかみ)あり。復(また)草木咸に(ことごとくに)能く(よく)言語有り(ものいうことあり)」という,未開の異境でした(第9段本文)。ですから,そんなところで,息子の葬儀などできるはずがありません。 古事記も,「道速振る荒振る国つ神等」がたくさんいるのが葦原中国だと述べています。正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命が降臨できなかったからこそ,それを平定するために天菩比神や天若日子などの武将を派遣したのでした。 そんなところへ降臨して,そこにいる大国主神の娘下照比賣と一緒に葬儀を行うことなどできるのでしょうか。息子を奪って,高天原に対する裏切り者にした下照比賣を,我が息子の妻として哀れみでもしたのでしょうか。父親同士が顔を合わせたらどうなるのでしょうか。下照比賣の父大国主神は,「道速振る荒振る国つ神等」の親分じゃないですか。私は,確実に血を見ると断言します。 ところが,葦原中国で行われた葬儀に行って,「日八日夜八夜を遊びき」。すなわち,8日8晩の間,歌舞音曲を奏して遊んだというのです。 私は,開いた口がふさがりません。古事記ライターは,頭がおかしいのじゃないかと思います。
それだけではありません。古事記には,欺瞞の痕跡があるのです。 「天津国玉神またその妻子(めこ)聞きて,降り来て哭き悲しみて」という点が変です。「その妻子」というのは,天津国玉神の妻子ではなく,高天原にいたときの天若日子の妻子です。学者はそう考えています。 前述したとおり,日本書紀本文では父である「天国玉」が,第1の一書では「天稚彦が妻子(めこ)ども」が,天稚彦の死体を取りに来たとしています。古事記は,この2つの伝承を総合し,「天津国玉神またその妻子(めこ)聞きて,降り来て哭き悲しみて」とやっているのです。ここをよく読み比べてください。叙述と文言をきちんと把握したうえで批判してください。 私は,「欺瞞だ」と叫びたいくらいです。 そして,古事記の叙述によると,天若日子の父が天若日子の妻子を連れて敵地に赴き,現地妻やその父親大国主神と共に葬儀を行い,「日八日夜八夜を遊」んだことになるのです。 こんな脳天気な古事記を,誰が信用しますか。読者を馬鹿にしていないか?私は,馬鹿にされていると思います。文献として,まともに検討してはなりません。
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