第28 建御雷神の派遣

 

高御産巣日神はどうなった

 天菩比神も天若日子も,葦原中国に居着いて,復命しませんでした。そこで「ここに天照大御神,詔りたまひしく」。いずれの神を遣わしたらよかろうかと,神々に問うのです。
 高御産巣日神はどうなったのでしょうか。

 抜けるべき合理的理由はありません。その証拠に,国譲りという名の侵略の場面で建御雷神は,「天照大御~,高木~の命もちて」と言っています。
 古事記ライターが単に書き落としただけです。その程度の著作なのです。


建御雷之男神は伊都之尾羽張神の子ではなく迦具土神の子でないのか

 天照大御神の諮問に対し,例によって思金神らは,伊都之尾羽張神(いつのおはばりのかみ)か,その子建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)を遣わすべしと答申します。この2神は,ここで突然,父子関係であるとされます。

 伊都之尾羽張は,じつはすでに登場しています。伊邪那岐命が火の神迦具土神を斬った十拳劔(とつかのつるぎ,握り拳10個分の長さの剣)の名前でした。
「故,斬りたまひし刀の名は天之尾羽張(あめのおはばり)と謂ひ,亦の名は伊都之尾羽張(いつのおはばり)と謂ふ。」
 要するに十拳劔を神格化した神なのです。

 ところがこれは,軻遇突智殺しを述べる日本書紀第5段第6の一書には出てきません。古事記独自の神です。

 ところで,古事記の迦具土神殺しの場面では,建御雷之男神は,十拳劔(天之尾羽張)の本(もと)についた血が湯津石村(ゆついわむら,岩石の群れ)に滴って生成した神だとされています。
 建御雷之男神は,迦具土神の血から成った神なのですから,むしろ迦具土神の子ではないでしょうか。迦具土神を切った剣とは,関係がありません。

 迦具土神の血からは,数々の神々が生成します。十拳劔の先から滴った血からは,「石拆神」「根拆神」「石筒之男神」。剣の本から滴った血からは,「甕速日神」,「樋速日神」,「建御雷之男神」。またの名を「建布都神」,またの名を「豐布都神」。剣の柄(つか)に集まって手の股から漏れ滴った血からは,「闇淤加美神」,闇御津羽神」。
 古事記ライターの論理によると,これらすべてが迦具土神の子でなく,伊都之尾羽張神の子になってしまいます。学者さんは,剣によって成ったということで,建御雷之男神を剣の神の子にしたのであるといいいます。

 私は,古事記ライターが,あまり深く考えず,建御雷神を剣と結びつけるため,十拳劔を神格化した神を作り上げ,武神である建御雷之男神の父として登場させたのだと考えます。


伊都之尾羽張神が水を逆さまに巻き上げているという荒唐無稽な展開

 伊都之尾羽張神,すなわち天尾羽張神は,天の安の河(あめのやすのかわ)の河上にある天の石屋(いわや)にいて,「逆に(さかしまに)天の安の河の水を塞き(せき)上げて,道を塞きて」いる神となっています。「伊都之尾羽張神」と表記したのに,読み下し文の2行後には「天尾羽張神」という表記になってしまういい加減さは,もはや問いません。

 ここらへんを,素朴な神話と捉えるのか,映画でいえば剣の達人がいる秘境という設定だな,脚色しているな,と取るのか。受け取り方が別れるところです。
 河の水を逆さまに巻き上げていて誰も行けないという,おどろおどろしい設定が,非常に効果的です。ベトナム戦争の狂気を描いた「地獄の黙示録」という映画のようです。数々の困難をかいくぐって河を遡っていくと,そこに殺しのターゲットがあった。そんな状況設定なのです。

 誰も近づけないところですから,特別に,天迦久神(あめのかくのかみ)を派遣します。しかし,おどろおどろしい神といえども,古事記の世界では所詮天照大御神の家来にすぎません。天照大御神の言うことには,あっという間に従います。ですから,伊都之尾羽張神は,何の抵抗もしないで「恐し(かしこし)。仕へ(つかえ)奉らむ」と即答します。
 だったら,河の水を逆さまに巻き上げて誰も行けないという状況設定は,いったい何だったのでしょうか。やはり,単なる脚色にすぎません。ただ,偉い神であるとの自負がありますから,子の建御雷之男神を派遣しようと言います。「すなはち貢進りき(たてまつりき)」。

 こうした安っぽい状況設定をするところが,いかにも古事記ライターらしいです。


一緒に派遣されるのは天鳥船神だ

 こうして建御雷之男神の派遣が決定されますが,天鳥船神(あめのとりふねのかみ)がこの神に添えられます。

 天鳥船神は,別名鳥之石楠船神(とりのいわくすぶねのかみ)であり,伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みに続いて生んだ神です。雷は,天から地に突き刺すように落ちてきます。雷神は船に乗って天と地を往来すると考えられていました。その乗り物が天鳥船であり,それを司る神が天鳥船神です。

 私が言いたいのは,これはこれで,お伽噺としてきちんと筋を通した展開だということです。建御雷之男神という武神,「雷神」が天降ります。それには乗り物が必要です。それが天鳥船であり,その乗り物を司る神が天鳥船神です。だから,一緒に派遣することにしました。

 人によっては,こうしたところが神話らしいと言うのでしょう。しかし私は,叙述として出来過ぎていると思います。日本書紀にはこうした叙述がありません。本来の神話は,もっと淡々としているのではないでしょうか。


建布都神または豐布都神と建御雷之男神の異同・区別するのが日本書紀

 さて,出雲国に派遣されるのは,建御雷之男神と天鳥船神です。これに対し日本書紀本文は,経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神です。経津主神がまず派遣決定され,それを見た武甕槌神が,俺も男になりたいと悲憤慷慨するのです。そこで,「経津主神に配(そ)へて」,葦原中国平定のために派遣されるのでした。ここではむしろ経津主神が主人公であり,武甕槌神は副官かのような扱いです。

 ちょっと考えればわかることですが,日本書紀では,剣の神経津主神が主役で,そこの雷の神武甕槌神が添えられたことになっているのです。古事記では,雷の神建御雷神が,じつは十拳劔の神伊都之尾羽張神の子供だというわけですから,剣の神はいりません,建御雷神自身が雷と剣とを兼ね備えているからです。その代わり,天鳥船神という交通手段を付け加えました。

 ここで,軻遇突智殺しの場面を整理してみましょう。

(日本書紀第5段第6の一書)
@刃から  五百箇磐石,経津主神
Aつばから 甕速日神,樋速日神,武甕槌神
B先から  磐裂神,根裂神,磐筒男神
C頭から  クラオカミ,闇山祇,クラミツハ
(古事記)
@先から  石拆神,根裂神,石筒之男神
A本から  甕速日神,樋速日神,建御雷之男神(異名は建布都神,豐布都神)
B柄から  闇淤加美神,闇御津羽神

 要するに,経津主神を別の神だとしたのが日本書紀。建御雷之男神と同一神だとしたのが古事記です。


建布都神または豐布都神と建御雷之男神の異同・異名として処理しようとした古事記

 全体として神名の混乱はありません。紀のAが記のA,紀のBが記の@,紀のCが記のBに対応しています。しかし,紀の@だけが対応しておらず,記のAに,建御雷之男神の異名として繰り込まれていると言ってよいでしょう(五百箇磐石(いおついわむら)は無視されたことになる)。
 対照すると以下のとおりです。

(日本書紀第5段第6の一書)   (古事記)
@五百箇磐石,経津主神      建布都神,豐布都神は建御雷之男神の異名
A甕速日神,樋速日神,武甕槌神  A甕速日神,樋速日神,建御雷之男神
B磐裂神,根裂神,磐筒男神    @石拆神,根裂神,石筒之男神
Cクラオカミ,闇山祇,クラミツハ B闇淤加美神,闇御津羽神

 さて,神名の全体に混乱がないのに,なぜ古事記ライターは,経津主神(建布都神,豐布都神)を別神とすることなく,建御雷之男神の別名としたのでしょうか。
 逆に言えば,経津主神を別神として切り離す合理的理由があるのでしょうか。

 それらの神をいつき祭っていた人の動向や,神社の歴史などを調べるつもりはありません。実際には,経津主神をいつき祭る人々が,同一神とする古事記に異議を唱えたかもしれません。しかし問題は,あくまでも,叙述上筋が通るのはどちらなのかという点です。


建布都神または豐布都神と建御雷之男神の異同・区別するからこそ剣が雷鳴を伴って出雲に降るというイメージがわく

 日本書紀第5段第6の一書に登場する経津主神は,剣の神です。フツは,ものを切断する際のブツ,プツという擬態語からきています。これに対し武甕槌神は,イカヅチ,すなわち雷の神です。第6の一書は,これを別系統の神だとしています(@とA)。

 日本書紀第9段本文が描く国譲りという名の侵略のイメージは,この2神が一緒に降ることにより成り立っています。
 何よりも中心は,武力による侵略の象徴たる剣であり,経津主神です。だからこそ真っ先に派遣が決まったのです。そこに,俺も男になりたいと悲憤慷慨する雷,武甕槌神が加わります。だからこそ,「経津主神に配(そ)へて」となっているのです。

 こうして,剣が雷鳴を轟かせながら出雲に降るイメージができるのです。神の意味をよく知っていた古代人は,そうしたイメージのもとに日本書紀第9段本文が残した伝承を読んでいたでしょう。余談ですが,これはどう見ても侵略であり,国譲りではありません。

 これに対し古事記は,これを同一の神だとし,単なる別名だとします(A)。しかし,よく考えてみればおかしな話です。剣と雷は違います。別名というのはおかしい。剣の神と雷の神との両側面を兼ね備えているということなのでしょう。

 しかし,剣の神と雷の神とは,やはり本来は別の神ではないでしょうか。

 本来から混同して同一神だったものを,後世,別の神に仕立て上げたのでしょうか。それとも,別神だったものが,伝承の伝播と共に混同されたのでしょうか。

 日本書紀第9段本文と古事記のどちらが古く,どちらが新しいのでしょうか。私は,剣と雷の2神を組み合わせることで,剣が雷鳴を轟かせながら出雲に降るというイメージを作り出した,日本書紀第9段本文が基本だと考えます。
 古事記は,何らかの理由でこの2神が混同してしまい,交通手段としての天鳥船神という付属物を,脚色のつもりでつけ加えたのです。もし天鳥船神が昔から伝承されていたのであれば,日本書紀第9段本文も,これを加えた3神の降臨になったはずです。


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