ママ、料理おしえて



「ママ、料理教えて」

2000年10月14日に長かった海外出張から帰ってきたパパが、台所で私

にそう言ってきました。海外での料理が、よほど口に合わなかったのでしょうか。

それまで10年以上、日曜日になると夕食は、パパがカレーを作ってくれていま

した。共稼ぎで忙しい私を、少しでも楽にしてあげたいという、パパのやさしい

思いから始まったカレー作りでしたが、始めると何でも本格的にやるパパは、や

がて私が教えた作り方をどんどん発展させていきました。

 私は、料理の得意な友人から、おいしいカレーを作る秘訣として、玉ねぎを1

時間炒めることを教えてもらいました。それをパパに教え、豚のバラ肉の選び方、

包丁の研ぎ方、市販のカレーのルーを数種類混ぜると味がもっとよくなることな

どを教えました。

 パパは日曜日の夕方になると、楽しそうにカレー作りを始めます。玉ねぎを1

時間炒めると、4個あった玉ねぎは1個分くらいの茶色のカツオブシのように少

なくなります。いい匂いがしてきて、油も出てきます。玉ねぎペーストができる

のです。パパはカレー作りの雑誌やテレビ番組を研究し、この玉ねぎペーストが

カレーのみならず、西洋料理の基本であることを知り、とても感動していました。


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                                          パパは、さらにスープを問題とし、鶏がらを買ってきて土曜日から1日かけて

スープを作るようになりました。たしかに1日かけてスープを作ると、カレーの

味がぐっとまろやかになるのです。パパのカレーは、完全に私のレベルを超え、

我が家では一番贅沢でおいしい料理となっていきました。

 こうしてパパは料理を作ることに目覚めたのだと思います。料理を学びたいと

いうパパに、私は食材の買い方、下処理の仕方、味付けについてなどを3ヶ月以

上にわたって直接教えました。

 夕食の準備は、パパと二人で台所に立ってすることとなり、ここで我が家がよ

く食べるメニューの中からパパの好きな、マーボ豆腐、餃子、酢豚、ワンタンス

ープ、肉じゃが、筑前煮、イカと大根の煮付け、きんぴら、ビーフステーキ、ク

リームシチューなどを教えました。そして、私が作ったレシピ帳と、小林かつよ

さんの料理の本を参考にするように教えました。

 私が忙しくて残業になる時には、パパが夕食を作ってくれることが多くな り、

さらにパパはシュウマイやエビチリ、豚の角煮、チンジャオロースなどの新しい

料理も作るようになり、とても助かるようになりました。私の料理は時間がかか

るのですが、パパはとても手際が良く、早く作れるのです。パパに言わせると、

「早くできる中華でやっているから」とのことです。

 「我が家のシェフの座をパパに任せたいわ。ついでに会計も全部任せたいわ」


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 私は、何度かこうパパに言っていました。パパはへんな顔をして黙っていまし

たね。私は高血圧から、眼底出血してしまい、実際のところ、目がよく見えなく

なり、毎日の料理作りが負担になっていたのです。パパは、そういう私に気がつ

いて、1週間のうち3回は夕食を作ってくれるようになっていました。

 私の父も祖父も高血圧で早死していて、私も高血圧のため、家では塩分控えめ

の味付けとし、納豆をよく食べ、りんご酢を飲むなど、食事には注意していまし

た。しかし降圧剤を飲まないわけにはいかず、毎月病院に通いながら薬をもらっ

ていました。

 「父や祖父のように、私も早死するのではないだろうか」という不安があり、

時々パパや子供たちに、「私は脳の血管が切れて死んでしまうからね」と話して

いたこともありました。

 パパとは夫婦仲が良く、会社でも家でも一緒でしたが、それが全然いやではあ

りませんでした。むしろ、パパと一緒にいられるのがとても嬉しく、「自分たち

夫婦は職場も一緒で、こんなに恵まれていていいのだろうか」と、申しわけない

気持ちでいっぱいでした。

 私は、商業高校卒業後、証券会社に勤務し、それからずっと経理ばかりでした

から他のことは何もできません。ですから、あとは周りの人が気持ちよく仕事で

きるように、掃除をしたり整頓したり、お花をかざったり、お茶を出してあげた

りしていました。会社でも家でも、そうやって54歳まで生きてきました。


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 パパは、どちらかと言うと職人気質の技術者で、機械やパソコンに向かっては

黙々と仕事をするのですが、人と話しをしたり、営業活動をしたりするのは、そ

んなに得意ではありません。2人とも、今更自分の生き方を変えることもできず、

これから老後はどんな人生を送ったらいいのかあまり希望の持てない状態でした。
        
 私たち夫婦にとっての希望は、大学に通う2人の娘と、高校生の息子の3人の

子供でした。上の2人は頭も良く、自分なりの道をがんばっているのですが、肝

心の息子は小児喘息で週に1回は学校を休み、勉強が嫌いで家でゲームばかりし

ていて、悩みの種でした。パパは、この息子とできるだけ一緒に遊び、息子のや

りたいゲームを買ってきてあげたりして、なんとか息子が引きこもりにならない

ように気をつかってくれていました。長女は私、次女と息子はパパが担当すると

いうように、子供たちとの仲もうまくいっていたと思います。

 もともと、パパは、父親と母親の仲が悪い家庭で育ち、子供にとって親の夫婦

仲が悪いというのが、どんなに辛いことかを経験し、自分の子供にはそういう思

いをさせてはいけないと強く思っていました。そして私と結婚する時、そのこと

を私に語り、ずっと仲のよい夫婦でいようねと語ってくれました。ですから、結

婚生活の中で気まずくなったことはあっても、パパが大声をあげたことは1度も

ありませんでした。

 愛情論や結婚論は、パパが人生について考えるきっかけとなった内容ですから、

どうしたら仲のよい夫婦になれるかをパパは真剣に考え、私ともそういう内容で


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よく話をしました。また、統一教会では理想的な夫婦になることを一番に教え、

文鮮明先生ご夫妻が仲のよい夫婦の模範となっておられますから、よい夫婦にな

るための努力を、お互いにやって来れたのだと思います。

 私は、妻としてはとても不足だと思っていました。

「パパにはもっとふさわしい人がいたのではないかと、申し訳ないと思ってるの

よ」

「あなたはなんという馬鹿なことを言ってるの。相手の価値は自分の価値なんだ

よ。ママは宇宙の中で、誰も代わることのできない、唯一のパパの奥さんなんだ

よ」

 パパは、いつもそう言っていつも励ましてくれました。

 私たち夫婦の愛は、年を経るごとに深まり、とても幸せでした。パパは、私を

毎日抱きしめてキスしてくれました。仕事で疲れていても、パパの腕の中に抱か

れていると、とても安心した気持ちになれて元気が出ました。

 「こんなに幸せな夫婦はどこにもいないわ。でも、この幸せはずっとは続かな

いのではないかしら。私が先に行った時、私はパパに何をしてあげられるのかし

ら」。

 それが不安でした。高血圧の症状から考えて、私が先に霊界に行くことは確実

と思えたからです。


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